(一昨日のエントリーの続き)
マルチーズのコロはコロそのものであり、存在しているのは”犬”とか”マルチーズ”というものではない。「コロ」という名前はあるが、それはコロという実在に対する目印。でも、このエントリーを書いている今、コロは私の目の前にはいない。でも、コロはいる。去年の12月に死んでしまったフラットコーテッドレトリバーのナイトも私の目の前にはいない。でも、ナイトはいない。この違いはどう考えたらいいのだろう。
私ーーコロ健ーーという存在はどうか。私は私だと思っている。それは私が考える存在だからだ。私自身が私という存在を認めているから、私は存在している。私が考えることをやめても私は存在するだろうか。他人が私の存在を認めてくれて初めて私という存在は実在するのかもしれない。そうすると、私自身は存在の主体ではないということになる。
でも、コロは私が考えなくても、妻や娘がコロの存在を考えたらコロは存在することになる。誰かが考えるからその存在は”ある”とすることができるのだろうか。では、ナイトは?ナイトの存在をいくら考えてもナイトはここにいないし、いつまで待ってもコロのようにもう一度会うことはできない。
生命を実在に置き換えるのは困難な作業なのかもしれないし、そのこと自体正しい手順であるのかどうかもわからない。でも、生命でなくても”物”にしても同じような話となる。お金は常に握りしめていなくても金持ちは金持ちだ。土地だってどこか遠くの山を持っていたとしても、そこにいるわけではない。金も土地も実在とはかけ離れた存在だ。
コロはコロで、私にとって可愛い存在として私の目の前にいてくれたら、私にとっては十分なのかもしれない。でも、コロをそう位置付けてしまった途端、私という存在もコロとの関係性という概念に縛られてしまい自由を失う。おそらく、コロはそんなことは考えていないだろうが、そのことでコロは私との関係性に縛られない、自由な存在となることが可能となる。
コロとナイトとコロ健と