こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

可愛いコロはコロちゃんなの?(上)

2020年09月10日 | 生き方について考える
愛犬、マルチーズのコロはもうすぐ14歳。おじいさんだが、毛並み・毛艶はまだまだいい。白内障は進んでいて、おっきな目には瞳の白濁が目立ってきた。

私はコロを見るとき可愛いと思うがコロはそんなこと気にかけていないだろう。私がコロのことを”可愛いね”と褒めてやると嬉しそうに尻尾や耳を動かすが、私の発した声の意味はわからないだろうし、私の意図していることとは異なった意味で受け止めているだろうと思う。そもそも、コロとはどんな存在なのだろう。目の前にいるコロとは、犬なのか、コロなのか。

私がコロの存在を規定したところで、コロはコロでありそれ以外の何物でもないから、コロには関係ない。それは逆もまたありで、コロにとって私とは、時々自分の名を呼び、時々餌をくれ、時々遊んでくれるが、時々叱りつける大きな動物に過ぎない、と想像する。コロと私はそれぞれ、4本足で歩く白くて目の大きな可愛い動物と、先に書いたようなことをする2本足で立つことのできる動物となる。

そうすると少なくともコロのことを犬だのマルチーズだのと一括りにすることは意味がない、ということになるのだがそう簡単にはいかない。
なぜならコロのことを初めて見る人にとって、コロはマルチーズだ。マルチーズを知らない人から見たらただの犬だ。同じ犬であっても、昨年死んだフラットコーテッドレトリバーのナイトと比較すると、体の大きさも毛の色も違う。そうすると"同じ"という言い方も矛盾している。犬という概念にすべてを含んでいいのだろうか。
そう考えると、個々の存在こそが実在であると思われるが、果たしてそれは正しいか。
(つづく)
生物学的に考えると

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