こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

人から見たら私も他人

2020年09月15日 | 生き方について考える
”おもいがけず”という言葉がある。予期していなかったのに、期待していなかったのに、というような意味だ。”思い掛けず”と書く。自分にとって良いことが起こった時に使う。普段から他人に期待していなければ、期待していないことが起きた時使うことができる。逆に、他人に期待するものだから、期待はずれのことが起こるとがっかりする。他人とは自分とは異なった価値観を持っている存在だから、自分の思った通り、すなわち”期待通り”にしてくれることなどそもそもありえない。

ひと月ほど前、私が書いた文章の別刷り(1冊の本の中から私が書いた部分のみを抜粋製本したもの)を、専門領域の臨床医に配った。2領域2冊あり、それぞれ15部ぐらいを合計30名ほどに
”謹呈 〇〇先生   
コロ健”
と署名し、医局の各自のメールボックスに入れて回ったのだがお礼のメールを送ってくれた人が一人いただけで、お礼どころか、受け取ったと言う返事すら来なかった。さすがに直接手渡した人にはその時お礼を言ってもらった。お礼を言ってもらうことを期待していたわけではないが、喜んでくれる顔を”ちょっとだけ”期待していたのだろうか、私は残念な思いをした。

数日前、よく読ませていただいているブロガーさんが、お弟子さん筋に”情報”を流したのに、お礼が一つも来なかったと嘆いていた。私とよく似た状況だと思って読ませていただいた。そして、おかげでそのような状況を客観的に理解することができた。
私がちょっと残念な思いをした理由は2つあった。1つは相手が感謝してくれるだろうと私が期待してしまったため。もう1つは、渡した相手とは価値観が違うということを私はわかっていなかったから。
相手が感謝してくれるかしないかは、相手が決めることで、私が決めることではない。相手にとっては、私が渡した駄文になどは価値がなかったのだろう。もしくは、人からものを受け取っても返事などする必要はないと育てられた人だったのかもしれない。
一事が万事、決めるのは相手。私が介入できる余地などない。何をしたら、相手が私に対して謝意を示してくれるかなどということ、私には何もわからないのだ。大切なことは、相手に期待しないこと。
もう、誰にも期待していなかったところにお礼のメールが”思い掛けず"届いて、私は嬉しかったのだ。人間関係なんてそんなものだ。
それに私にしても、すべての人にいちいち手渡ししていたらみんなが感謝してお礼を言ってくれたに違いない。第一そんな駄文押し付けられた方だって迷惑だったかもしれない。その人たちにとって、私だって他人なのだ。
”過去と他人は変えられない”、という座右の銘に、”だから他人に期待はするな"というのを加えようかと思ったが、それはそれで自分勝手、ちょっと早計だと思い、やめることにした。
話しても分からない人はいますが

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