ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




平和大橋から、原爆ドームを望みます。

散歩をするのには最高の好天に恵まれましたが、広島での散歩は、いつも身が引き締まる思いがします。

それでも、足を向けないわけにはいきません。

 

 

広島平和記念資料館の正面入り口を入ってすぐ右手に、地球平和監視時計「Peace Watch」という時計があります。そこには、二つの数字が刻まれています。

広島の原爆投下からの日数、そして、最後の核実験からの日数、です。

残念なことに、下の数字はつい先日、最長の959日まで伸びていたのですが、北朝鮮の2006年につぐ、2回目となる5月25日の核実験により「0」にリセットされてしまいました。

実はこの数字は、2001年7月の設置以来、この8年間だけで13回、リセットされているのです。核実験は、今まで世界中で2000回を超え、うちアメリカだけでも1000回以上もの核実験が行われました。

 

展示物だけではなく、本や映像など、本当に沢山の資料があります。何度通っても、到底見きれる量ではありません。また最近になっても、被爆者の方や遺族の方がたから「ここへ展示して欲しい」と寄せられる資料もあります。その資料の数だけ、誰かの「伝えたい思い、伝えなきゃいけない思い」、があるのですよね。各国の言葉に翻訳されたものも沢山あります。手前の写真集にも「English」とあります。

 

日本は、世界で唯一の核爆弾による被爆国です。そしてそれは、広島と、長崎に落とされました。まだ、そんなに遠い昔のことではありません。戦国時代や、江戸時代のことではないのです。まだ、つい、64年前のことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は特に短い時間でしたが、その中でも、やはり沢山の国の方々がここを訪れているんだな、と感じられました。たいていの人が、興味深そうに資料やモニュメントに見入り、添えられた文章を熱心に読んでいました。

これらの外国人の方々は、限られた時間の中で、また、数ある日本の観光地の中から、理由があって広島を選んだわけですよね。

なればこそ、ここで撮られたこれらの写真が、彼らの言葉が、それぞれの祖国で、それぞれの家族や友人たちに、核の怖さを、その影響の長さを、罪の深さを、届けてくれることを祈ります。一枚の写真がたんなる記念写真に終わる事なく、核反対への、そして、核廃絶への動きへの、強い種になって欲しいと思います。

 

正面から公園に入ったとしますと、右手奥方向にあります、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」 。ひっそりとしてますので、ちょっとわかり辛いかもしれませんが、こちらの公園に行かれたら、是非とも一度訪れて頂きたい場所のひとつです。

 

ここは、「原爆死没者を静かに追悼し、平和について考える場所」です。本当にシンと静まりかえっております。自分の足音と、中央の、8時15分を表すモニュメントから噴き出す水の音だけが、静かに響きます。この湧き出す水には、あの日、水を求めて亡くなった方々を追悼する意味があるのです。


 

追悼空間を出ますと、原爆で亡くなった方々のご遺影が眼前に広がる小さな部屋に出ます。ここでは、以前もそうでしたが、やはり涙をこらえることが難しいです。怒りをこらえることが、難しいです。

お一人、お一人のそれまでの人生を、そして、原爆さえ無かったら、普通にあったはずの、それからの人生を考えずにはいられません。誰一人、死にたかった人なんていないはずですし、あの日突然訪れた死を予感していた人も、誰一人としていなかったことでしょう。

昨日ご紹介させていただいた映像にもありましたが、この方たちのうち大多数の皆さんは、爆発後、たったの10秒で亡くなったのです。お手元の時計を見て、10秒数えてみていただけたら、と思います。そして、運良くこの10秒を生き残った方々に課せられた、家族を失った苦しみ、そして、放射能による苦しみたるや・・・。想像を絶します。

 

近づいて、しばらく眺めておりますと、ふと目の前に一人の少女のお顔が映し出されました。利発そうで端正な顔立ちは、世が世なら、もしかしたら女優さんにでもなっていたのでは、などと思ってしまうよう。ほんの少し時代が違って、平和な世に生まれていたら・・・。「たら」「れば」、は言っても仕方のないことだとはいえ、どうしてもそんなことを思ってしまいました。きっと、素敵な未来が待っていただろうに、と。

ほんとね、彼女に限らず、一人一人のご遺影を拝見しておりますと、やりきれない気持ちがふつふつと湧き上がってくるのです。

なぜ、彼女は、この方たちは、原爆で死ななければならなかったのか。殺されなければならなかったのか。なぜ、この方たちだったのか。

 

 

そして、そのすぐ上の展示室では、「しまってはいけない記憶 救護の場所を求めて」という企画展が開かれておりました。

パネルには三名の被爆者の方々の、原爆投下後の救護についての手記が映像化されて常時、流されておりました。

誰も居ない部屋で、僕は一人でこれを見ました。

写真は、水を求める妹に、口移しで一滴づず水を飲ませてあげたお姉さんの手記にあたる部分です。妹さんは、被爆の大火傷で、自力では口を開く事すらできなかったといいます。

ほんの少し前まで、普通に飲んで、食べて、歩き、笑いあっていた人間が、一瞬でこうなってしまうのです。

 

 

お姉さんの手記です。全体も写させていただいて来ましたので、中から、最後の部分を引用させていただきます。

「5日ぶりにやっと家につれて帰ることができ、家族全員で必死の看病。火傷のうみを消毒、ウジをとりのぞいてやり、薬を塗る。流動食で栄養を補給してやるのみ」

 助けてやりたい家族の思い。両親の最大の愛情と手厚い看護により、一日もたないと言われた妹も、八月三十日までがんばってくれ、多くの犠牲者の一人として、十三歳の若き命を、戦争のもたらせた悪魔の原爆によって終ったのである。

 五十年の歳月は立てど、あの悲惨さは、肉親の心には、昨日のこととして、みじんも消すことはできない。泣けて、泣けて、涙ながらに」

 

五十年間泣き続け、そしてまたこの手記を、またも「涙ながらに」書かれたのありましょう、お姉さんの心に思いをはせるに、涙が止まりません。

そして、その間に何度も何度も行われてきた核のニュースを、どんな思いでお姉さんはご覧になってきたのでしょうか。

 

 

ノーモア・ヒロシマ、

 

です。

 

そして、

 

No more war.

 

です。

 

 

 

公園のあちこちで、被爆者の方々が、訪れた子供たちに被爆の体験を語られているのを見ました。

 

ご存知のように、こうして体験を語り継いでくれる方は、年々少なくなっていきます。こればかりは、世の常。

 

そのうちいつか、あの原爆を体験した人が、この世から居なくなってしまうのです。それは、何を意味するのでしょうか。その時、僕たちは何を思うのでしょうか。そして、世界はその時、どうなっているのでしょうか。

 

この空や海を、この地球を、あんなもので、汚すべきではありませんよね。壊すべきではありませんよね。自分たち地球に生きる全員にとって、唯一の、たったひとつの居場所なのですから。

そして壊してしまったら、二度と、作る事はできないというのに。人の命も、二度と帰ってくることはないというのに。

 

人間が、地球を木っ端微塵に壊す道具を作ってしまった事、そして使ってみてその恐ろしさを知った今も、未だにそれを持っている、さらなる恐ろしさ。

 

広島と長崎の犠牲を無駄にしてはいけない。僕たちは、学ばなければいけない。そして、二度と繰り返してはいけない。どんなことがあっても、です。

 

では。



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