~前投稿からの続きです~
東大寺
大仏殿前の金銅八角燈籠は国宝です。
たびたび修理されているが、
基本的には奈良時代創建時のものである。
火袋には楽器を奏する菩薩の浮き彫りがある。
(ウィキペディア参照)
実は・・・
というほどじゃないけど
月並みに
中学の修学旅行は
京都・奈良でした。
友達とおしゃべりばかりで
寺社仏閣を見た記憶は
ほとんど残っていませんが
こちらの
八角燈籠からモウモウと出てくる
お香の煙のことだけは
しっかりと覚えています。
本尊 盧舎那仏(大仏)
大仏殿入り口は
大仏様を撮らんとする
人・人・人
デジカメ・ケータイ
主流になったのが
世相ですね。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、
基壇の周囲70メートルで
頭部は江戸時代、
体部は大部分が鎌倉時代から室町時代の補修である
台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに
一部天平時代の部分も残っている
台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、
華厳経の世界観を表わす画像も、
天平時代の造形遺品として貴重である。
(ウィキペディア参照)
大仏様の横
虚空蔵菩薩像
大仏の左右に脇侍として安置される。
木造
京都の仏師山本順慶一門と、
大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、
30数年をかけて制作されたもので、
江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
宝暦2年(1752年)の完成。
(ウィキペディア参照)
ちなみに
大仏様の右側(反対側の側面)には
如意輪観音像が座しています。
こちらは
虚空蔵菩薩像に先立って
元文3年(1738年)頃に完成しています。
広目天像(金堂西北隅)
大仏様の後ろ側・向かって左側です。
大仏様の裏側
何も説明書きがなかったのですが
おそらく
大仏殿の鬼瓦とシャチホコ
一メートル近くあります。
前投稿で
書きましたが
この大仏殿は
二度の災難で焼失したのち
江戸時代に復興された建物です。
聖武天皇の時代に
建てられた大仏殿は
もっと違った形の建物のようでした。
確か
階上部分に人が上がれるようになっていて
平家による
南都焼き討ちの際には
東大寺の火災にともない
大仏殿の階上部分に避難してきた
女性・子供・・・
全焼してしまう悲劇が起こったようです。
多聞天像(金堂東北隅)
像の隣の人だかりは?
柱のたもとに開いている穴を
通り抜けするところです。
(修学旅行の記憶にもちゃんと残ってます)
穴から出てくる我が子を
パチリ!というわけです。
東大寺の売店で
子供向けの教本みたいなのを買いました。
ちょっとレトロな絵のやつです
子供向けといっても
ちょっとそこらの歴史本には載ってないような
レアな記述が多くありました。
発行は
東大寺教学部でした。
~つづく~
東大寺
大仏殿前の金銅八角燈籠は国宝です。
たびたび修理されているが、
基本的には奈良時代創建時のものである。
火袋には楽器を奏する菩薩の浮き彫りがある。
(ウィキペディア参照)
実は・・・
というほどじゃないけど
月並みに
中学の修学旅行は
京都・奈良でした。
友達とおしゃべりばかりで
寺社仏閣を見た記憶は
ほとんど残っていませんが
こちらの
八角燈籠からモウモウと出てくる
お香の煙のことだけは
しっかりと覚えています。
本尊 盧舎那仏(大仏)
大仏殿入り口は
大仏様を撮らんとする
人・人・人
デジカメ・ケータイ
主流になったのが
世相ですね。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、
基壇の周囲70メートルで
頭部は江戸時代、
体部は大部分が鎌倉時代から室町時代の補修である
台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに
一部天平時代の部分も残っている
台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、
華厳経の世界観を表わす画像も、
天平時代の造形遺品として貴重である。
(ウィキペディア参照)
大仏様の横
虚空蔵菩薩像
大仏の左右に脇侍として安置される。
木造
京都の仏師山本順慶一門と、
大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、
30数年をかけて制作されたもので、
江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
宝暦2年(1752年)の完成。
(ウィキペディア参照)
ちなみに
大仏様の右側(反対側の側面)には
如意輪観音像が座しています。
こちらは
虚空蔵菩薩像に先立って
元文3年(1738年)頃に完成しています。
広目天像(金堂西北隅)
大仏様の後ろ側・向かって左側です。
大仏様の裏側
何も説明書きがなかったのですが
おそらく
大仏殿の鬼瓦とシャチホコ
一メートル近くあります。
前投稿で
書きましたが
この大仏殿は
二度の災難で焼失したのち
江戸時代に復興された建物です。
聖武天皇の時代に
建てられた大仏殿は
もっと違った形の建物のようでした。
確か
階上部分に人が上がれるようになっていて
平家による
南都焼き討ちの際には
東大寺の火災にともない
大仏殿の階上部分に避難してきた
女性・子供・・・
全焼してしまう悲劇が起こったようです。
多聞天像(金堂東北隅)
像の隣の人だかりは?
柱のたもとに開いている穴を
通り抜けするところです。
(修学旅行の記憶にもちゃんと残ってます)
穴から出てくる我が子を
パチリ!というわけです。
東大寺の売店で
子供向けの教本みたいなのを買いました。
ちょっとレトロな絵のやつです
子供向けといっても
ちょっとそこらの歴史本には載ってないような
レアな記述が多くありました。
発行は
東大寺教学部でした。
~つづく~