京都大原紫葉工房便り

京都洛北・大原の里のしば漬屋から、毎日!情報発信。

秋のシーズン・最後の遠出。

2008-11-02 15:56:10 | 妻!日記
この前の日曜日
奈良・東大寺に行って来ました。

本当は安土城跡に行くつもりだったんですけど
天気予報が外れて
お昼になっても雨が止まないので
ど~する?ってことになり

久々の奈良に行くことにしました。

最後に行ったのは
次男がまだ乳児の頃だったと思うので
5年ぶりくらいです



行くあてのないドライブでしたので
清水道で昼ごはんを食べてからの出発でした。

奈良への道は
いつものコース・・・
国道24号線から奈良方面
伏見・城陽を抜けて行きます。

途中
「精華町では地元で採れた胡麻を売っている」
との友人情報を確かめに
精華町へ

国道24号線を右折して
木津川を渡ると
京田辺・精華町などのエリアです。
(同志社キャンパスなどの学研都市)

結局
胡麻の売り場所が分からなかったのですが
初めて行った場所で新鮮でした。
(後で聞いて見ると
 精華町の農協か朝市で売っているそうです)

そんなことをしながら・・・
奈良公園へ到着
(精華町・高の原経由で
 いい抜け道がありました





なんだか、やけに人が多いな・・・
と怪訝に思っていましたが
(京都より活気あるし

ああそうか

国立博物館で
年に一回の正倉院展が
始まっていたからなのでした。
(実は、高校時代
 担任の先生から正倉院展の話を聞いて
 絶対に行きたい!と思っていたのでした。
 子達と一緒なので、今回は我慢です



そこらじゅう
鹿が歩いているから
うれしい子達

長男・次男・長女

鹿とすれ違うたびに
お尻や背中をポンと叩いて



気の立った鹿に
頭突きされた長女でした
(あとから聞いていも、鹿居なかったよ、という長女・・・)

さて
車道から公園内に入り
東大寺の参道は
大仏さんに向けて
真北に進んで行きます。


(南大門)

創建当時の門ではないが
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後
鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。

国宝

東大寺中興の祖である俊乗坊重源が
中国・宋から伝えた建築様式といわれる
大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を
採用した建築として
著名である

(上記・以下
 資料はウィキペディアから

門をくぐると・・・



木造金剛力士立像(国宝)



建仁3年(1203年)造立

造高8メートルに及ぶこれらの巨像は
平成の解体修理の結果
像内納入文書から
運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が
小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることが
あらためて裏付けられ
運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。

(ウィキペディア参照)



南大門をくぐって
中門に進みます。


(中門)

享保元年(1716年)頃の再建。
中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る

毎年1月1日の0時から8時までの間
中門(重要文化財)が開かれ
金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できるそうです。

(ウィキペディア参照)

普段は中門は閉ざされている
というわけです。
私たちは
向かって左側の回廊から入場しました。
(出口は反対側)


(金堂:大仏殿)

元禄4年(1691年)完成
翌年開眼供養された大仏と
宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が
現存のものである
(ウィキペディア)



ざっとウィキペディアから資料頂戴しましたが

ちょっと注目していただきたいのは
各建築物が作られた年代です。

実は
東大寺
過去に二度の災難に遭っていて

一度は
平家繁栄の時代
平清盛の息子に火をつけられた・・・
(寺社と対立していたみたいです)

東大寺をはじめ
興福寺など
大火に巻き込まれ
多くの文化財を失いました。

二度目は
戦国時代・・・
戦乱に巻き込まれました。

~以下・ウィキペディア資料~

東大寺は、
近隣の興福寺とともに
治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で
壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、
大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。
この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが
当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、
三好・松永の戦いの兵火により、
大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。



現在は
のんびりと古都奈良に鎮座している
大仏様ですが
なかなか波乱万丈だったのですね。

もちろん
当初の造営・再度の復興は
とてつもなく大きなプロジェクトで
多くの費用と人足を必要としていたわけです。

それらの難題をも乗り越えて
往時の姿を残す大仏様の
本当に偉大なこと!

改めて
世界文化遺産としての凄さを
思い知ったのでした。

~つづく~