神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

本郷の支流3

2019-07-12 07:05:00 | 谷端川・小石川4

 以下は「御府内備考」の菊坂町に関する記述です。「町名起立の儀は長禄年中(1457~60年)本郷辺町屋に相成候頃、此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由申伝候」 なお、途中本妙寺坂下に出ますが、名前の由来となった本妙寺は、明暦3年(1657年)の大火(振袖火事)の火元とされています。ただ、3年後には再建されるなど、幕府の異例ともいえる庇護を根拠に、火元引き受け説も唱えられています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 上野」  上掲地図のグレー枠の部分です。次の→ 「昭和5年測図」に水路はなく、その間に暗渠化したものと思われます。

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    1. 右写真は左岸台上へ向う炭団(たどん)坂です。急坂で炭団のように転げ落ちた、など由来には諸説ありです。

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    2. 水路跡らしい微妙な蛇行の続く菊坂下道を南下します。

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    3. 本妙寺坂下です。右写真は右手からのショットで、本妙寺は向かいの坂上にありましたが、現在は駒込に移転しています。

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    4. 菊坂通り(菊坂上道)を上って本郷通りに向かいます。水路はこの右手にありましたが、この先重なる通りはありません。

本郷の支流2

2019-07-11 06:01:02 | 谷端川・小石川4

 「大下水 右は本郷菊坂町併同町奥山より弐ヶ所流来、当町にて幅三尺下水一筋に相成、小石川片町大下水え流れ出、末は神田川え出申候、但掘割年歴等相分不申候、尤下水修復の儀は町内持に有之候」 これは、菊坂田町の大下水に関する「御府内備考」の記述ですが、前回触れた本郷台からの二本の谷筋のうち、本郷菊坂町よりの流れは南側の、同町奥山よりの流れは北側のものにあたります。菊坂町の北側を奥山と称していたことが、同じ「御府内備考」に書かれています。今回は二流の合流地点から右折し、まず南側の水路をさかのぼります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 二本の水路の合流地点で右折、菊坂からの支流をさかのぼります。

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    2. 右手は右京山(右京ヶ原)と通称されていました。上野高崎藩、松平右京亮の屋敷があったことからのネーミングです。

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    3. 鐙(あぶみ)坂に差し掛かる手前で左折です。坂名は形が似ているなど諸説ありです。 

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    4. すぐに右折します。右写真は左手の菊坂通りからのショットです。 

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    5. 菊坂の下にあることから菊坂下道とも呼ばれ通りです。右手に入る路地の先に樋口一葉の→旧居跡があります

本郷の支流

2019-07-10 06:53:49 | 谷端川・小石川4

 春日町交差点から白山通りを北に向かいます。二つ目の西片交差点の手前に、右手、本郷台からの谷筋の合流があります。 → 「段彩陰影図」で、本郷通り付近から発する二本の谷筋が、途中一本にまとまり杯のようになっているのがそれです。なお、一本にまとまっているところには、菊坂田町がありました。明治に入り、周辺の小石川片町、丸山田町、さらに武家地や寺地を併せ、本郷田町(のち本郷がとれて田町)となったところです。その地名由来については、隣町の菊坂町のところで詳細します。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 春日町交差点の次の交差点から、西片交差点方向を写しています。上掲「実測図」の右手は、上野高崎藩松平家の屋敷でした。

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    2. 西片交差点手前の、久しぶりに遭遇した水路跡らしいこの路地から始めます。

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    3. 左岸段丘に沿いはじめ、右手崖面が徐々に高くなっていきます。 

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    4. 二本の水路の合流地点です。今回は右折して、南側のものをさかのぼります。

春日町交差点

2019-07-09 06:19:04 | 谷端川・小石川4

 小石川との合流地点から東富坂(真砂坂)下の春日町交差点まで、東大下水の流路は文京シビックホールや講道館の敷地に阻まれて、たどることはできません。そこで、途中を省略し、春日町交差点から、白山通りを北に向かうことになりますが、→ 「1/5000実測図」に見るように、元の通りの西側に沿っていた水路は、通りの拡張によってその中央に埋もれ、数百メートルにわたって痕跡は失われています。ただ、→ 「段彩陰影図」からも読み取れように、谷筋ははっきりしていて、富坂下から東富坂下まで、言い換えると千川通りから白山通りまでですが、200mほどがその底の幅となっています。

 

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    ・ 春日町交差点  シビックホールや講道館のある南西角からのショットです。なお、右手の植え込みに配置された石は、水道橋で発掘された神田上水の→ 石樋の遺構です。

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    ・ 白山通り  春日町交差点から北側、白山方向のショットです。東大下水は当初通りの左手を並行、明治に入り通りが拡張された際は暗渠化されました。

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    ・ 春日町交差点  東富坂(真砂坂)下から(西)富坂方向のショットです。春日通りのこの区画は、明治41年(1908年)の市電開通時に開削されました。

 <春日町>  春日町交差点の南200mほどのところに、三代将軍家光の乳母で大奥制度を確立した春日局が、御付き下男三十人の住まいとして土地を拝領したのは寛永7年(1630年)です。「右町の儀古原地の所、寛永七午年春日の御局御願にて御附御下男三拾人え当地町地の辺一円大縄拝領被仰付候所、右の内鎮守稲荷為社地弐拾八坪余、外に水溜り荒地の分相除、跡残の分三拾人にて割合請取、猶又同年右水溜荒地の内三百五十弐坪程を御家人衆四人にて拝領致、町名春日町と唱来」(「御府内備考」) 寛永7年というと水戸屋敷成立の翌年ですが、小石川や東大下水を改修、整備し、その河川敷を宅地造成する途上だったのでしょう。

 


東大下水

2019-07-08 06:46:23 | 谷端川・小石川4

 東大下水は前回UPの  → 「段彩陰影図」で、白山通り沿いの谷筋をメインに、本郷台から合流する支谷筋を併せたものの通称です。下流は水戸藩邸のできた寛永年間(1624~45年)頃には大下水化しましたが、上中流域は自然河川の面影を残し、鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)、指谷(さすがや さしがや)などの呼び名が今に残っています。なお、本流と目される白山通り沿いのものは、現在は下水道白山幹線に転用されています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が文京区、同細線は当時の小石川区と本郷区の境で、東大下水の流路とおおむね重なります。  

 なお、東大下水は小石川(西大下水)の東側を平行することからの通称ですが、「御府内備考」にその名はなく、単に大下水、あるいは下水と書かれているに過ぎません。例えば、中流域にある指谷町一丁目では、「下水 幅壱間、但水元は小石川酒井雅楽頭様下屋敷内より流出、夫より小石川村の内より白山権現裏門前え出、当町え流来水沫の儀は水道橋へ落入申候」、本郷台からの支流の流れる菊坂町では、「大下水 幅弐間より九尺迄 右は本郷弐丁目より同所四丁目迄菊坂町辺下水吐にて、流末水道橋際え出、神田川え落申し候、尤掘割の年月相知不申候」となっています。

 

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    ・ 水道橋交差点  外堀通りと白山通りの水道橋交差点から、東京ドームシティを見ています。奥のシビックホールで合流後、ドームシティを南下する本流以外に、→ 「1/5000実測図」は白山通り沿いの水路を描いています。

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    ・ シビックホール裏  二つの大下水の合流地点です。江戸時代には播磨安志(あんじ)藩小笠原家の上屋敷があったところで、小石川はその西縁を、東大下水は東縁をめぐり、このあたりで合流していました。

小石川大沼

2019-07-06 06:25:27 | 谷端川・小石川3

 今日見る小石川の流末は、水道橋の上流で神田川に合流していますが、これは江戸初期の神田川(平川)、小石川の付替えの結果で、それ以前の両河川の合流地点は、小石川大沼と呼ばれる低湿地だったと考えられています。「段彩陰影図」で見るように、西側の牛込、麹町台と北側の小石川台、それに東側の本郷台に挟まれた区画で、江戸時代には広く小川町と呼ばれていました。現行の小川町よりは西側にズレた、三崎町や西神田、神田神保町のあたりまでです。なお、大沼からは平川が流れ出し、日比谷入江に注いでいました。このあたりのイメージは、→ 「長禄年間江戸図」の描いているところです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 小石川1」(1/18000)  小石川の下流部分と神田上水を、参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」(明治16年測量)を元に重ねました。オレンジ線は区境で、神田川が文京区と千代田区の境になっています。

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    ・ 神保町交差点  白山通りと靖国通りの交差するこのあたりが小川町の中心で、小身旗本の屋敷地が軒を連ねていました。現在は都内屈指の書店街です。 

 「ゆしまのたかだいのした、小いしかわのすえ池になりたる所、水はかせ、大かた干かたとなる。此分やしきにわり可申候、小身衆いろいろ申こまれ候、地せばく人多くわり立候事むずかしく、藤左衛門に申付、地ゑづかかせ、けんちうちて、それよりと申定む」「小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」に先行する「天正日記」の一節で、家康の江戸入国当時、小石川大沼を干拓、のち小川町と呼ばれる武家地を造成した当時の記述です。なお、小川町の地名由来については、清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったとも伝えられ、太田道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」と詠んだのは、このあたりの風景だといわれています。

 


仙台橋・合流

2019-07-05 06:05:59 | 谷端川・小石川3

 水戸藩上屋敷を抜け、現外堀通りを越えると神田川です。そこに小石川最後の橋、仙台橋が架かっていました。万治年間(1658~60年)、仙台藩が担当した神田川拡張に際し架け替えられ、その名が付けられました。「仙台橋は水戸殿御館の御成門と通用門の間を、南の方に流るる溝にかゝるわづかの橋なり、万治元年仙台候に命せられ小石川の堀をほられしに、人歩等土木をはこふに此溝の橋あまりに小橋にて、馬車のかよひあいければとてあらたに板橋をかく、その度々破損せしにより石橋となせり、今に仙台候より懸らるゝゆへおのずから橋の名とすと」(「御府内備考」)

 

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    ・ 外堀通り  東京ドームシティの南端から、外堀通り越しに神田川との合流地点を見ています。この間に仙台橋が架かっていました。「東京府志料」の数字で長二間半程の石橋です。

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    ・ 合流地点  現在は防災用の船着場に転用されています。近くの解説プレートによると、一帯は市兵衛河岸と呼ばれ、神田川を利用した物資の(明治以降は砲兵工廠の)荷揚場として賑わいました。

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    ・ 合流地点  水道橋の上流80mほどのところです。小石川大下水の流路そのままに、東京ドームシティの地下を通る千川雨水幹線の合流地点でもあります。

 <万治年間の神田川拡張>  以下は万治年間に行われた神田川拡張工事に関する、「御府内備考」の記述の引用です。「今神田川といふは、船河原橋辺より御茶水、及び柳原堤外を過て浅草川に落合へるまでの呼称なり。此川昔は水も深からずして舟運送の不便なりしを、万治年中松平陸奥守綱宗に命じて、船入の川に掘割せ給ひし事は諸記に見えたり。『万治年録』云、三年庚子二月十日、牛込より和泉橋迄船入堀普請、松平陸奥守被仰付之、依在国以奉書被伝之。・・・・然るを世の人、駿河台と本郷とは元山丘一連の地なりしを、綱宗新に掘割て今の地形に変ぜしといひ伝ふるは誤なり。本郷と駿河台との間の谷にもとより細流在しを、堀広げしめ給へるに過べからず」

 


水戸藩上屋敷

2019-07-04 06:59:01 | 谷端川・小石川3

 東大下水との合流後、水戸藩上屋敷に入った小石川大下水を追って、東京ドームシティまできました。小石川邸の造営は寛永6年(1629年)ですが、それから十数年後と目される→ 「寛永江戸全図」を見ると、小石川の流末は直線的に描かれており、当時から大下水化していたようです。また、邸内に入る神田上水も描かれており、上水と大下水の交差も、当初からのものだったと思われます。その際、上水が懸樋で越えていたことは、寛文6年(1666年)の町触の一節、「小石川水戸様御屋敷之内・・・・上水懸戸樋御普請」の引用とともに、これまでもたびたび触れてきました。 

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。東京ドームを薄グリーンで、丸ノ内線を黒で、外堀通り、白山通りなどをグレイで重ねています。 

 大下水化したとはいえ元は自然河川の小石川です、たびたびの氾濫が小石川邸を襲いました。中でも寛延2年(1749年)8月には、月初から降り続く雨に台風が重なり、大洪水となります。「八月十三日 江戸洪水、小石川邸中水深五六尺、大下水表河岸溺死ノ屍其数ヲシラズ、舟河原橋流没ス。邸内ヨリ船ヲ出シテ其溺ヲ救フ数十人ニ及ベリ」(「水戸紀年」) 小石川邸の上流の下冨坂町で水深6尺、柳町の水深7尺、戸崎町水深4尺と、一帯はほとんど水没状態で、伝通院裏門前大下水橋などが流失しています。

 

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    ・ 東京ドームシティ、ラクーア  ジェットコースターの下を抜け、奥の東京ドームホテルとタワーの間に向かっていたはずです。

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    ・ 東京ドームシティ、クリスタルアヴェニュー  右手にある東京ドームを抜けてきた神田上水と交差していたのはこのあたりです。 

富坂2

2019-07-03 06:36:14 | 谷端川・小石川3

 現在の富坂下から100mほどで、東京メトロ丸ノ内線の高架下ですが、そこが水戸藩上屋敷の北端にあたり、元々の富坂の上り口があったところです。大下水化した後の小石川は、水戸邸に突き当たって左折、その北縁に沿って100mほど東に向かいます。そこで、現白山通り沿いに南下してきた東大下水と落合い、右折して水戸邸に入りました。なお、東大下水についてはクールを改めて詳細します。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 丸ノ内線高架手前  正面が東京ドーム、右手が丸ノ内線後楽園駅です。大下水はここで左折、そこには石橋が架かっていました。「小石川西富坂町ニアリ無名石橋ナリ」(「東京府志料」)

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    ・ 丸ノ内線高架手前  左折後東に向かい、途中右折して水戸邸上屋敷(現東京ドームシティ)を縦断します。上掲「実測図」に重ねた現在の道路や丸ノ内線から、位置関係の大略が分かります。  

 <「こころ」>  以下は夏目漱石の「こころ」にある、伝通院近くに下宿していた「先生」の手記の一節です。「砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。その時分はまだ道路の改正ができない頃なので、坂の勾配が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がっているのと、放水がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間が非道かったのです」 砲兵工廠は旧水戸藩上屋敷にあった陸軍兵器工場なので、その裏手の坂は元の富坂ということになり、その明治41年の市電開通のための「改正」以前の様子です。

 


富坂

2019-07-02 06:34:52 | 谷端川・小石川3

 富坂下で春日通りを越えます。この界隈では最も有名な富坂ですが、もともとは100mほど先の水戸屋敷裏、現地下鉄後楽園駅あたりが上り口でした。現在の位置にシフトし、拡張、整備されたのは、明治41年(1908年)の路面電車開通に伴うもので、伝通院前の安藤坂の拡張、整備と同じ時期、同じ理由によります。表記も鳶坂、飛び坂があり、鳶坂なら物語由来で、鳶が多く群れ、手に持った肴を奪った、あるいは鳶を捕らえ、小屋をかけて飼う役人がいたからなど、飛び坂なら地形由来で、谷をはさんで東富坂と西富坂、あるいは向富坂と前富坂の二つの坂が向き合っているから、といった説明がなされます。

 

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    ・ 富坂下交差点  ここが千川通りの起点です。なお、正面に見える東京ドーム手前の地下鉄丸ノ内線の高架あたりが本来の富坂下です。

 市谷、四谷のところで触れた「四つの谷」説では、この富坂下を二ヶ谷(あるいは二の谷)としています。「二ヶ谷は富坂下の谷なりと、さして谷といふへくもあらざれと、向ふとび坂の間にありて谷のさまなる故かゝる名をおひしなるべし」(「改選江戸志」)「一ヶ谷、二ヶ谷とつゞきの谷なり、三ヶ谷は駒込にあり」(「紫一本」) いずれも「御府内備考」の孫引きです。その二ヶ谷右岸は慶長年間(1596~1615年)、鷹狩りの鷹の餌を捕える役目である餌差衆の拝領地となり、坂上から順に上、中、下餌差町と呼ばれ、元禄6年(1693年)には町奉行支配となり、上、中、下富坂町と改称しました。

 

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    ・ 富坂  交差点右手のショットで、春日通りはすぐに小石川台、伝通院方面への上りに差し掛かります。坂上に見えるのは中央大学理工学部の建物です。

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    ・ 東富坂  上掲写真とは逆の左手方向で、春日通りは150mほどで白山通りと交差、その先が本郷台への上り坂で、東富坂あるいは真砂坂と呼ばれています。

千川通り5

2019-07-01 06:37:25 | 谷端川・小石川3

 千川通りは柳町小学校の先で右カーブ、そのままほぼ直線で南下します。これまでは田地の混在していた流域ですが、ここから先は町屋、武家地が占め、江戸時代の早い時期に、直線的な改修、大下水化が完了していた区画です。「大下水 幅九尺程 右者当町東裏を相流、水源は戸崎町裏の方より流来末は水戸様御屋敷内に入、神田川に落入申候」「丸太橋 長壱丈弐尺余、巾六尺」 これはこんにゃく閻魔で有名な源覚寺の前後にあった町屋、下富坂町にかかわる「御府内備考」の記述です。

 

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    ・ 千川通り  柳町小の先で右カーブ、ほぼ直線で南下します。小石川は通りの右手を並行していて、江戸時代から大下水化していたところです。

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    ・ 善光寺坂  右手台上に上る善光寺坂の中腹から、千川通りを見下ろしています。坂下から小石川に合流する水路を描いている地図もあります。 

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    ・ 千川通り  ここに嫁入橋が架かっていました。「板橋 長壱丈弐尺、巾六尺余」(「御府内備考」) なお、右手はこんにゃく閻魔で有名な→ 源覚寺です。

 <新開>  一帯は明治20年頃開発され、新開と呼ばれました。砲兵工廠の工員が住み、銘酒屋や射的屋が軒を並べる、雑然としたところでした。隣町の丸山福山町に住んだこともある樋口一葉は、「にごりえ」(明治28年)の舞台を新開の銘酒屋菊の井に設定、その看板遊女お力を主人公としています。なお、作中に「丸木橋を渡る」との比喩が登場します。「我恋は細谷川の丸木橋、渡るに怖し渡らねば」なる端唄を踏まえたもので、丸木橋を渡るかどうかの葛藤を胸に、お力は閻魔様のお盆の縁日の雑踏を彷徨しますが、源覚寺のこんにゃく閻魔、小石川に架かる丸木橋(丸太橋)という、この界隈の実際を踏まえた道具立てになっています。