神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

小石川大沼

2019-07-06 06:25:27 | 谷端川・小石川3

 今日見る小石川の流末は、水道橋の上流で神田川に合流していますが、これは江戸初期の神田川(平川)、小石川の付替えの結果で、それ以前の両河川の合流地点は、小石川大沼と呼ばれる低湿地だったと考えられています。「段彩陰影図」で見るように、西側の牛込、麹町台と北側の小石川台、それに東側の本郷台に挟まれた区画で、江戸時代には広く小川町と呼ばれていました。現行の小川町よりは西側にズレた、三崎町や西神田、神田神保町のあたりまでです。なお、大沼からは平川が流れ出し、日比谷入江に注いでいました。このあたりのイメージは、→ 「長禄年間江戸図」の描いているところです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 小石川1」(1/18000)  小石川の下流部分と神田上水を、参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」(明治16年測量)を元に重ねました。オレンジ線は区境で、神田川が文京区と千代田区の境になっています。

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    ・ 神保町交差点  白山通りと靖国通りの交差するこのあたりが小川町の中心で、小身旗本の屋敷地が軒を連ねていました。現在は都内屈指の書店街です。 

 「ゆしまのたかだいのした、小いしかわのすえ池になりたる所、水はかせ、大かた干かたとなる。此分やしきにわり可申候、小身衆いろいろ申こまれ候、地せばく人多くわり立候事むずかしく、藤左衛門に申付、地ゑづかかせ、けんちうちて、それよりと申定む」「小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」に先行する「天正日記」の一節で、家康の江戸入国当時、小石川大沼を干拓、のち小川町と呼ばれる武家地を造成した当時の記述です。なお、小川町の地名由来については、清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったとも伝えられ、太田道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」と詠んだのは、このあたりの風景だといわれています。