「当町の儀は往古武州豊島郡小石川村御料所に候処、元和九亥年(1623年)中伝通院様御仏供料に相成、・・・・町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名と相成候儀と奉存候」(「御府内備考」) 指谷自体の由来については触れていませんが、「江戸砂子」には、「寛永の頃は町並みなく、木立の茂りたる谷也。御鷹それし時あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」とあります。指谷一、二丁目、南片町がありましたが、明治に入り千川屋敷や武家地、寺地を併せ、(小石川)指ヶ谷(さすがや)町となりました。なお、「さしがや」との読みも併存しています。
- ・ 「段彩陰影図 / 小石川2」 中央で二つの谷筋が合流している付近が指谷で、岬状に突き出す台地の先に白山神社が祀られています。なお、オレンジ線は区境ですが、大半が文京区です。
- ・ 浄心寺坂 → 「江戸名所図会 / 丸山浄心寺」にも描かれており、坂の中腹にある浄心寺が由来です。坂下には千川屋敷があり、大下水が流れていました。
- ・ 白山下交差点 浄心寺坂下からのショットで、横切っているのは旧白山通り、右手の白山坂を上ると中山道に出ます。大下水は正面の指谷町の通り(現京華通り)から流れて来ました。
白山下交差点は旧白山通りの開通によって六差路になりましたが、江戸時代は五差路で、寛永19年(1642年)頃とされる→ 「寛永江戸全図」では、浄心寺坂を除く四差路になっています。注目は川が描かれていることで、前後は省略されていますが、目下追っている大下水の原型です。(図中の濃いグレイは崖面を現わしており、薄いブルーの田地とあわせ、今回の谷筋の概略が分かります。) 橋も架かっていますが、「御府内備考」当時は「長弐間、巾ニ間」の板橋でした。なお、白山神社が描かれていませんが、「寛永図」の時代には、現小石川植物園内にあり、館林藩主で後の5代将軍綱吉の御殿建設に伴い、当地に遷ったのは明暦元年(1655年)のことです。