神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

春日町交差点

2019-07-09 06:19:04 | 谷端川・小石川4

 小石川との合流地点から東富坂(真砂坂)下の春日町交差点まで、東大下水の流路は文京シビックホールや講道館の敷地に阻まれて、たどることはできません。そこで、途中を省略し、春日町交差点から、白山通りを北に向かうことになりますが、→ 「1/5000実測図」に見るように、元の通りの西側に沿っていた水路は、通りの拡張によってその中央に埋もれ、数百メートルにわたって痕跡は失われています。ただ、→ 「段彩陰影図」からも読み取れように、谷筋ははっきりしていて、富坂下から東富坂下まで、言い換えると千川通りから白山通りまでですが、200mほどがその底の幅となっています。

 

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    ・ 春日町交差点  シビックホールや講道館のある南西角からのショットです。なお、右手の植え込みに配置された石は、水道橋で発掘された神田上水の→ 石樋の遺構です。

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    ・ 白山通り  春日町交差点から北側、白山方向のショットです。東大下水は当初通りの左手を並行、明治に入り通りが拡張された際は暗渠化されました。

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    ・ 春日町交差点  東富坂(真砂坂)下から(西)富坂方向のショットです。春日通りのこの区画は、明治41年(1908年)の市電開通時に開削されました。

 <春日町>  春日町交差点の南200mほどのところに、三代将軍家光の乳母で大奥制度を確立した春日局が、御付き下男三十人の住まいとして土地を拝領したのは寛永7年(1630年)です。「右町の儀古原地の所、寛永七午年春日の御局御願にて御附御下男三拾人え当地町地の辺一円大縄拝領被仰付候所、右の内鎮守稲荷為社地弐拾八坪余、外に水溜り荒地の分相除、跡残の分三拾人にて割合請取、猶又同年右水溜荒地の内三百五十弐坪程を御家人衆四人にて拝領致、町名春日町と唱来」(「御府内備考」) 寛永7年というと水戸屋敷成立の翌年ですが、小石川や東大下水を改修、整備し、その河川敷を宅地造成する途上だったのでしょう。