たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

反省しない人びと

2008年01月17日 18時34分52秒 | エスノグラフィー

プナン人は、日ごろ、反省するそぶりを見せない。自らの反省について、口にすることはない。わたしは、プナン社会のフィールドワークをつうじて、そのことを強烈に意識するようになったのだが、それは、わたしのたんなる思い込みにすぎないのだろうか。プナン人と付き合う前から知っていたボルネオ島の焼畑稲作民・カリス人たちと比べると、そういうことが言えるということだけなのであろうか。あるいは、わたしたち日本人と比べて。あやふやな話であるが、いずれにせよ、プナン人たちが、反省しないというのが正しいのだとすれば、はたして、反省しないとはいったいどういうことなのだろうか。それに対して、人が反省するとはいったいどういうことなのか。確かなことは、プナン人が、わたしがそれまでは考えてもみなかったことを、考えさせてくれたということである。反省しない生き方というのは、ストレスがたまらないし、その意味で、現代日本社会において、反省しないで暮らせたならば、なんて気が楽になるだろうかと感じられて、反省しない生き方を宣言したくなるような誘惑に掻き立てられる。どうして、日本社会では、反省しないで過ごすことができないのだろうか、あるいは、反省しないでやり過ごしていくこともできるのだろうか。そういうことをひっくるめて、プナン人たちは、反省するという人間行動に関して、わたしたちに問いを投げかけてくれているともいえる。

ところが、図書館や本屋で、反省することとはいったいどういうことなのか、あるいは、反省しないとはいったいどういうことなのかについて調べようとしても、たいていの場合、反省するという生き方を称揚するような、ありきたりの人生論や人間論に出会うだけで、がっかりさせられることになる。そういった文献は、反省することが人生を深めることを教えてくれても、反省するとはいったいどういうことなのかについては、何も答えてくれないのである。はたして、哲学者は、反省するということを、いったいどのように考えてきたのだろうか。そのような文献を調べることは、わたしにとっては、かなり骨の折れることであった。例えば、カントは、「反省的判断力」というようなことについて言ったということが分かった。覚束ないのであるが、それは、どうやら道徳とも関係しているらしい。フィヒテによれば、「自我の反省理論は、<自分と関係し、自分自身のうちへと向きを変えることによって、自分自身を認識する自我--主体>について語る」ことらしい(ヘンリッヒ『フィヒテの根源的考察』法政大学出版局、1986年、pp.60)。なんとなく分かるが、それでもまだ雲をつかむような感じだ。ということで、なんだか分けのわからないままに、哲学をベースとする研究の検討をここで断念することにしよう。

となると、わたしとしては、手がかりを、自然主義に求めたくなる。ヒト以前の動物は、はたして反省するのだろうか、反省しないのだろうか。そのあたりから、反省の起源を探るというのは、どうだろうか。「反省するなら、サルでもできる」という言い方がある。残念ながら、チンパンジーやゴリラなどが、反省するのかどうかということについての研究があるのかどうかさえ、わたしは、いまのところ見つけられないでいる。心や人間性の起源を取り上げる近年の霊長類学は、いったい、その点に関して、踏み込んでいるのだろうか。分からない。他方で、脳科学は、どうであろうか。『脳のなかの倫理:脳倫理学序説』(紀伊國書店、2006年)の著者ガザニガは、道徳にふれて、難しい善悪の判断を迫られる状況で、脳がどう働くのかに関しては、これまでのところ明らかにされてきていないが、善悪に関わる判断が脳活動で説明できるとする研究が、近年、盛んに行われてきている、と述べている(225~227ページ)。反省が、脳のどのような活動に対応するものであるのかについて、あるいは、すでに研究が進められている可能性があるのかもしれない。現在のわたしの力量では、自然主義が、反省について、どのような研究を進めているのかについて明らかにすることは難しい。

で、反省することと、反省しないことに関して、何が分かったのかというと、結局、いまの時点では、何も分かったとはいえないのである。情けないことであるが。

ふたたび、プナンについて。
彼らは、反省するのではなくて、反省しないのであるから、その<不在>を、真正面から記述によって浮かび上がらせるということは、なかなか難しい。いまは、反省しないとはどういうことなのかということについて、言えそうな幾つかのことを、書き留めておきたいと思う。一つには、
反省することには、善・悪の観念が、関わっているのではないかということである。悪いことをした、やってはいけないことをしたからこそ反省するのであり、悪いことややってはいけないことなどがない場合には、反省心は起こらない。あたりまえのことかもしれないが。その意味で、プナン人の善・悪の観念の詳細な解明は、重要であるかもしれない。二つには、悪いことをした、やってはいけないことをしたら、それを吸収するような(社会的な)仕組みがあれば、一般に、反省心を起すような必要はない。例えば、子どもが悪いことをしたと気づいたら、親が無言で抱きしめてやるというような。プナン社会では、特に、親子の間柄で、そんなようなことが起きている。三つには、反省することが、しでかしたことと弁証法的にとでも言おうか、よりよきあり方へと発展するということが、考えられることがないような場合には、反省心は起きないだろうと思われる。つまり、発展や向上というような概念がないような社会意識のもとには、反省は有効に働かないように思われる。なんとも煮え切らない言い方であるが。他方で、わたしは、そういった心理学・社会学的な観点からではなくて、今後は、もっと自然主義的な観点から、この種の問題を突破したいとも思っているのだが、どうなることやら。

(写真:桜美林大学・明々館8階からけやき広場、栄光館、崇貞館を見る。買ったばかりのNikon D80で撮影。)


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2 コメント

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プナンは後悔はするのでしょうか? (クランタンマン)
2008-01-30 06:39:45
いつも大変おもしろく読んでおります。
読んでいて感じたのは
子供を亡くしたとき、狩猟に失敗したとき、プナンの人々に後悔の様子はあるのでしょうか?

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Re: プナンは後悔はするのでしょうか? (プナンの犬)
2008-01-30 23:16:23
コメントありがとうございます。

子どもを亡くしたとき、それが親の過失であったならば、プナンの親は、後悔するだろうと思います。ただわたしは、一年間のフィールドワークで、そのような状況に出会ったことがありません。プナンは、人が死んで「さみしい(menau)」というような言い方を、よくします。どうやら、死者がいた場所が、強烈に故人を思い出させるようなのです。ですから、「あそこにはもう行かない(akeu iyeng tae sitae)」というような言い方をします。後悔とは、話が少しずれましたが。

他方で、狩猟に失敗したとき、プナンは、後悔するようなことは、あまりないように思います。夜中の狩猟で、雨が降ってイノシシが捕れなかったとき、ハンターたちは、「雨が降らなかったら、運があったのに(daun iyeng tee puun nasib)」というような、奇妙な言い方をします。わたしたち日本人ならこう言うでしょう。「雨が降ったので、運がなかった」と。わたしにとって、この言い方は、ひじょうに不思議なのです。日本的表現では後悔していることが分かりますが、それに比べて、プナンの表現では、後悔していない感じがします。どうやら、運はあったはずなのです。

今度行きますので、もうちょっと調べてきます。
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