たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

熱帯のニーチェ

2009年02月01日 22時09分08秒 | 自然と社会

時間の観念をもたず、反省もしない、向上心ももたないし、うつ病のような精神の病もないようなプナン人たちのことを、いったい、わたしたちはどのように理解すればいいのか。弁証法的な理性に欠けるような日常の態度(だからと言って、それを蔑むのではなくて、むしろ、そのことに楽天的な希望のようなものを感じるのであるが・・・)を、どのように捉えればいいのか。そういったことに対して、昨年、Nさんから、プナン人の精神は、プラトン以降ヘーゲルまでの西洋哲学の文化形成に挑んだニーチェを喜ばすことになるかもしれないというようなこと聞いて、それ以来、そのことがずっと気になっていたのだが、Nさんの論点のエッセンスがつまった、Nさんの先生である木田元『反哲学入門』を手に入れたので、(じつは、そんなことをしている場合ではなかったのだけれども、)今日、それを一気にむさぼり読んだ。これは、じつに明解な哲学書である。たしかに、光が見えた気がする。喜びのあまり、忘れないうちに、感想のようなものを、手短に書きとめておきたい。

哲学のおおもとの問いは、ソクラテス、プラトンなどのギリシア哲学の時代に与えられた。ソクラテス以前の人たちは、「自然(フユシス)」を、「なる」「生成するもの」として捉えていた。それは、日本の古代の自然観とも共通するものであったが、ソクラテス以降の知恵者たちは、自然を超自然的な(形而上学的な)原理を用いて、理解しようとした。プラトンは<イデア>、アリストテレスは<純粋形相>、つづいて、キリスト教神学では<人格神>、デカルトは<神的理性>に、何が存在するのかしないのかという哲学の問いの答を決定する役割を与えた。デカルトの100年後、カントは、<神的理性>から<純粋理性>を切り離して取り出した。その後、ヘーゲルは、プラトン以来の超自然的(形而上学的)思考様式を更新して、近代哲学を完成させたという。ハイデガーは、「こうして超自然的思考様式ーー伝統的用語で言うなら形而上学ーーはヘーゲルのもとで理論として完成され、以後は技術として猛威をふるうことになると言っております」(前掲書、161ページ)。

その後、19世紀に、ニーチェは、人間によって最高の諸価値として設定されたものでしかない超自然的な思考様式によって、文化形成がなされてきたヨーロッパを、虚無主義であると批判した。「彼に言わせると、プラトン以降のヨーロッパの哲学と宗教と道徳は、総力を挙げてこのありもしない超感性的価値の維持につとめてきたのであり、その意味ではそれらはことごとくプラトニズムなのです」(前掲書、182ページ)。「彼(=ニーチェ)がここでおこなっているのは、最高価値そのものの批判というより、そうした最高価値を設定してきたこれまでの価値定立の仕方、つまり超自然学(形而上学)を本領とする哲学、キリスト教に代表される宗教、そして生を抑圧する禁欲を標榜するストア以来の道徳に対する批判であり、『プラトニズムの逆転』『形而上学の克服』を企てるのです」(前掲書、184ページ)。ニーチェこそが、プラトン以降のヘーゲルに至る西洋哲学の価値転倒の先駆者なのである。

ハイデガーは、後に、ニーチェが、プラトン=アリストテレスの存在概念の束縛を脱し切れなかったと述べて、ニーチェの限界を指摘している(前掲書、200ページ)。ニーチェの「反哲学」のメルロ=ポンティ、デリダ、フーコーなどへの影響は、わたしは、ひじょうに重要であると読んだが、その点はひとまず置くとして、プラトン/アリストテレス以前の「自然」とは、プナンのそれにも重なるのではないか。熱帯のジャングルに隔絶されてきたがゆえに、プナンには、人の社会の古い「自然」がそのまま残っているのではないだろうか。わたしは、
哲学とも反哲学とも無縁であり、「自然」そのものを、「なる」「生成するもの」として捉えることからあふれ出す、プナン人の日常の思考と態度の考察を、少しだけであるが、一歩先に進めることができるような予感がしてきた。

取り急ぎ、覚書として。

(写真は、食事をするプナン)


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