プナン語に"petiken"という語があるがそれは異なる=別の=ちがう=独立した=一人で=単独の=唯一のという意味で用いられ英語で言えば"different"と"only(alone)"という二つの語を合わせたような意味を表すと思われその反意語"pekuak"は同じ=同様のという意であり英語で言えば"same"であるのだけれどもわたしがずっと気になっているのは前者"petiken"が何ゆえに別のという意味と単独のという意味の両方を併せもっているのかという点にあるのだがちなみにそのあたりのリンガ・フラカのマレー・インドネシア語ではこの点はくっきり分かれていてつまり英語的で別のは"lain"で単独のは"sendiri"である。ことによるとそうした疑問はわたしのたんなる思い込みであって別のと単独のという語は本来分けなくてもいいとも言えるかもしれないがそうだとすれば逆に日本語でも英語でもマレー語でもなぜ別のと単独のという意味をもつそれぞれの語があるのだろうかということになるのだけれどもいまここでそのことを問題とすると話がややこしくなるのでとりあえずプナン語の"petiken"という語をめぐる特性だけに限定してちょっとだけ書いてみたいというのはその語の精神分析をすれば狩猟民特有の思考が見出せるかもしれないという淡い期待を抱いているからである。事はそれほど単純ではないが最初に浮かぶのはそのことは別のと単独のという意味を隔てないすなわち"petiken"という一つの語のなかに二つの意味を包含するのは差異やちがいに対して重みを与えないことの表明ではないかというものであるつまりプナンの狩猟民の心のなかに差異やちがいを極小化しようとする意識のようなものがあって余計なことばをつくらなかったのではないかというものである。プナンが暮らしのベースにしている徹底した平等主義は一人一人のちがいを消去するというイデオロギーであり差異やちがいを失くすように配慮することが大切であるとされる点においてちがう=別だというような言葉を使わないようにするためにストイックに語彙のリストのなかに二つの語を収めなかったのではないだろうか。いやしかしちがう=別だという事態も厳然と存在するのでありちがう=別だとはそれがそれとして自らの法則に従って独自に動いているさまを示しており例えば父が異なる母が異なるという生みの親のちがいは兄弟姉妹関係の異質性に反映するという意味で異父母の子はけっして同じもの同類ではないとされるがプナンはそうした差異やちがいを一気に同じである存在へと畳み込んでしまおうとする傾向にあるのだともいえる。子育てを隣人の家に任せるようなかたちで養子に出しながらも産んだ子に対しては日常的に愛情を注ぐというようにまるで親子関係を複雑化させ混乱させるようなやり方によってあの家の子この家の子という差異やちがいを同じであるとして丸め込んでしまうプナン人たちは差異やちがいを極小化する傾向にあるのかもしれない。いらぬことを考えてしまったもんだと思いながら論旨も整理されず結論の方向を打ち出すこともなく宙ぶらりんのままここで終わり。
(ジャックフルーツがたくさん実っていて甘くておいしいので腹いっぱい食べた。寄生虫はどこにいるか分からない)
(ジャックフルーツがたくさん実っていて甘くておいしいので腹いっぱい食べた。寄生虫はどこにいるか分からない)