たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

狩猟民の損得学

2009年04月07日 19時43分46秒 | エスノグラフィー

jah,dua,telu,pat,lema,num,tujuk,ayah,pian, pelu  というプナン語の1から10の数字は、マレーシア語・インドネシア語の satu,dua,tiga,empat,lima,enam,tujuh,delapan,sembilan,sepuluh によく似ている。しかし、プナン語が、マレー語やインドネシア語という国語(大言語)から影響を受けたのかどうかは、はっきりしない。それらの言語間の相互の関係については、よく分からない。

それゆえに、というか、その意味で、プナン人が今日用いている損(rugi)、得(untung)という語が、マレー語・インドネシア語とそっくり、というよりもマレー語・インドネシア語そのものであったとしても、それが、マレー語・インドンシア語からの借用であるのかどうかは、はっきりとしない。それでなくても、プナン語には、マレー語・インドンシア語と同一の語がたくさんある(nasib=, fikir=考える, pisit=懐中電灯,injin=エンジン...)。「懐中電灯」や「エンジン」などは、マレー語・インドネシア語からの借用語であるといえるだろうが、「運」や「考える」という語が、借用語なのかどうなのかは、はっきりしない。

経験的に、直観的に述べるならば、プナン語の損、得の観念と語は、外来語、借用語であると思う。おそらく、マレー語・インドネシア語からの借用語である。というのは、それらは、狩猟民プナン人が発する類のことばではないように思えるからである。それらは、比較的新しく、プナン社会に導入された観念および語である。

損得、得失という考え方が、基本的には、狩猟民にはなじまないように思われる。森のなかでは、何かを得ればそれは得であり、何かを失えば損であるというような考えを、一般に、プナンのような狩猟民ははしない。そういう考え方は、彼らにはなじまない。逆にいえば、そういう捉え方をしなくてもいいほど、森には糧が、あるいは、財があり、人びとは、それらをシェアーすることで、生き延びてきた。

いいかえれば、損得、得失という考え方のベースには、シェアーするという考え方はないように思える。損得、得失とは、シェアーすることを原理とする人びとの間にはなくて、くっきりとした境界を与えられた自己と他者の間に発生するものであり、なんらかの蓄えをしなければならない状況下において、時間軸の上に発生するものであり、あるいは、貨幣で計ることが日常化するような場合に、+-という価値基準を帯びて生まれてくるようなものなのであるとはいえないだろうか。

プナンは、銃弾を用いて、猟に失敗した場合、損したという。銃弾を、貨幣を払って、買ったからである。しかし、吹矢を用いる場合、失敗したとしても、矢毒を森のなかから探せばいいだけであって、損得勘定をしない。したことを聞いたことがない。吹矢猟は、損得勘定につらぬかれてはいない。プナンに損得の観念と語を持たなかったというのは、そのあたりの実践からの類推である。糧と財が無限に現われ出る森、自然とは、けっして、損得学で計られるようなものではない。

(写真は、プナン人のある日の食事の準備)


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