たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

言葉を失うヒトについて考え、無意識を抑圧から救い出す

2009年04月20日 22時11分34秒 | 自然と社会

第五回「自然と社会」研究会報告(個人的な覚書程度)
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/bd167788d62726392ba5df9f35f510c4

わたしたちは、言語学の立場から、失語症を解明しようとしたヤコブソンの先駆的な試み(ローマン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)に寄り添いながら、最初に、言語の持つ二つの面について検討し、つづいて、言語とパラレルに構造化されている「無意識」の意味について議論した。その結果として、ヤコブソンの構造言語学が、いったい、どのように、レヴィ=ストロースの構造主義へと流れ込んでいったのか、さらには、そうした構造主義のアイデアを介して、わたしたちは、ヒトの心の働きを、どのように捉えればいいのかについて、ある見方を抉出することになった。

最初に確認したのは、言語の二つの側面についてである。シンタグマは、語をどのように並べるかという統辞であり、パラディグマは、語を置き換える範列である。別の言い方をすれば、シンタグマは、言葉の結合であり、パラディグマは、言葉の選択に関わっている。さらには、言語のシンタグマの軸には、部分が全体を現すメトニミー(換喩)が、パラディグマ軸には、類似に基づくメタファー(隠喩)が対応している。

ヤコブソンによれば、失語症には二つのタイプがあり、そのそれぞれは、結合」能力(シンタグマ軸)の欠如「選択」能力(パラディグマ軸)の欠如に照応する。一方で、結合能力の異常とは、シンタグマ的な、すなわち、メトニミー的な、「隣接性」の異常であり、逆に、「相似性」が優越するような状況を指す。そういった「隣接性」の異常による失語症は、語の統辞を失う。例えば、「えっと、学校・・・休んださっき・・・」というような、語の統辞に欠ける発話を行うことになる。

他方で、選択能力の異常とは、パラディグマ的な、すなわち、メタファー的な、相似性」の異常であり、逆に、「隣接性」が優越するような状況を指す。そういった「相似性」の異常による失語症は、語そのものを失う。目の前にあるモノについて言うことができない。しかし、それを、文脈のなかで適切に用いることはできる。発話としては、例えば、「えっと、あれは、どうなりましたかね、それもそうだけど・・・」というようなものであろう。

しかし、こういったまとめ方は、事柄を、あまりにも単純化しすぎるものになっているのかもしれない。事実は、言語の複雑さと連動して、もっともっと複雑である。音素のレベルで、結合と選択に異常をきたす場合もある(例:pig fig)。いやむしろ、実際には、そうした言語学研究の過程で、上のようなヤコブソンの研究へとたどり着いたのではないだろうか。

興味深いのは、弁別特性についてである。ある言語には、その言語の範囲内で見出される「弁別特性」がある。あらゆる音素は、母音性や子音性、高音調性、低音調性などの指標によって、+-の価値によって表すことができる(ある音素が、母音と子音の両方の弁別特性をもつ言語があるともいう)。ヤコブソンの「弁別特性」をめぐる業績は、わたしたちの話している言葉が、デジタル信号のように構造化されていることを顕著に示している。つまり、驚くべきことに、そして、レヴィ=ストロースが見出したように、わたしたちの内的自然は、「目的論的理性」とでもいうべきものに支配されているのである。

話がそれたが、本筋へと戻れば、わたしたちは、(失語症の苦しさを知らないがためにこういった表現にならざるを得ないが)ある意味で、誰もが、潜在的に失語症なのである。時に応じて、ヒトは、言葉を失う。

ところで、ヒトは、どういったときに、言葉を失うのだろうか?フロイトが、そのことを考えてみるための手がかりとなる。夢の構造を突き止めるなかで、フロイトは、象徴や時間系列が、語を転置する、シンタグマ的な「置き換え」と、意味を圧縮するような、パラディグマ的な「圧縮」とによって構成されることを指摘した(のだと、ヤコブソンを微調整して、整理しておくことにしよう)。

そういった置き換えと圧縮が、夢を見ているような「無意識」の状況において起こるのだとすれば、わたしたちは、中沢新一の以下の言葉に同意することになる。流動的知性である無意識のしめす特徴的な運動が、意識の働きを生み出す言語の構造と、とてもよく似たところを持っている」(対称性人類学)。わたしたちの喋っている言語は、「無意識」のレベルで、それとほぼ構造的にパラレルなものを、潜在的に持っていることになる。

ひるがえって述べれば、そうした「無意識」とは、言葉によって抑圧されたものではなくて、レヴィ=ストロース的な意味での、それ自体が、独自の理性であるところの「目的論的理性」であるということになる。だとすれば、そうした「無意識」を、わたしたちは、それこそがヒトの知性であると信じて疑わない言語の秩序によって抑圧されてしまった状態から、引き上げてやらなければならない。二次的過程として「すでに構成された秩序」の側から、ストーリーがむちゃくちゃな夢や言い間違いとして、無意識の側から突き上げてくる「みずからを構成しつつある秩序」として、抑圧したまま理解するのではない、別の手続きを見出さなければならない。そうした「無意識」(とりあえず、ここでは、この言葉を使っておく)を持つことによって、ヒトの心は、現実世界から自由であることが可能となったという事実に対して、より高い価値を置くべきなのである。

レヴィ=ストロースの構造論を経由して、「無意識」をめぐる新しい思考のステージへとたどり着いた。そのとき、わたしたちは、「レヴィ=ストロースの方法はたんに分析の技術にとどまるものではなく、人間文化の深層にある一連の変形規則群を明るみにだすことによって、西欧中心の近代思考体系への根底的反省をうながす力を秘めていることになる・・・自らブリコラージュを演ずる精神のもち主でなければ、構造主義的分析のこころみは野生の思考とは異質な図式をいたずらに生みおとすおそれがある」(関一敏)という洞察に、深くうなずくことになる。

(ヘビを料理する:プナンの狩猟キャンプにて)


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