たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

プナン人に学校はいらない

2007年01月18日 10時17分56秒 | エスノグラフィー
プナン人は、手を用いて食事をするのではなく、スプーンを用いて食事をする。その習慣は、クニャーやカヤンなどの周辺の焼畑稲作民たちが、おおむね、手で食事をする、手でごはんを食べるということから、際立っている。狩猟採集を主生業とするプナン人は、古くから、主食である、アメ状にしたサゴ澱粉を食べるさいに、ピットと呼ばれる手づくりの箸を用いてきた。1960年代に稲作を開始するようになってから、ごはんを食べるさいにも、道具=スプーンを用いて食べることへの移行が、すんなりと進んだのではないかと思われる。

大きな中華なべにアメ状のサゴ澱粉を入れて、それを、少ないときには、数人、多いときには、7~8人で囲んで食べるというのが、プナンの食事の一般的なスタイルである。食事には、必ず汁物が用意されて、人びとは、箸でサゴ澱粉を器用にすくい上げ、それを汁物につけて、口に運んでいく。獣肉や魚などの肉類は、直接、手を用いて食べる。サゴ澱粉の食べ方のスタイルは、今日、ごはんを食べるさいにも、継承されている。炊かれたごはんは、皿の上に山盛りにされて、それを囲むようにように、人びとが集まって、スプーンを使って食事をするのである。

人びとは、車座になって、あぐらをかいて、ひざとひざがふれるかふれないかというような距離で、密集して、食事をする。食事のさいには、人びとは、あまり多くを語ることはない。それでも、場を乱さないような、あたりさわりのない話題が持ち出されたり、出来事や噂をめぐる情報を交換したりすることが多いようである。逆に、その場で、食事をともにするメンバーの間で持ち上がっているような問題を討論したりするようなことはない。いいかたを換えれば、言い争いがあるメンバー同士が、いっしょに食事をするということは、ありえないのである。そのような共食の時空は、身近に起こっている出来事にたいするひとつの見方・感じ方を、メンバーの間で、共有するようにはたらいてきたのではあるまいか。プナン社会における共食とは、食事の機会であるとともに、出来事にたいする、一定の見方・感じ方を共有するための機会でもあったということもできよう。別の観点からいうならば、食事をする場所がちがえば、出来事にたいするべつの見方・感じ方が生み出されることになる。

日ごろの共食に見られるような、密なる社会関係は、プナン社会の他の場面においても、ひんぱんに見い出される。そのひとつが、親子関係のありようである。父母と子らは、つねづね、できるだけ、いっしょにいよう、行動しようとする。親は、たとえ自分の兄弟や親であっても、子どもを「まかせよう」とはしない。親は、つねに、子どものいうことに耳を傾け、それをかなえるべく努め、子を保護する存在なのである。まだ幼い子どもたちは、そのような親たちの態度に応えて、親が、狩猟やその他の仕事で、子のもとを離れるさいには、親を想って、泣きわめくことがよくある。親は子に対して愛情をふりそそぎ、子らをいつくしみ、子どもたちは、それに応じる。

そのような親子関係は、プナン社会のなかで「閉じられた」ものとしてあるのだといえる。プナン社会は、子が外に向かって開かれる、つまり、親たちが、子が外的世界を経験することを励起し、共同体の外部で知識と技術を体得させることによって、子どもを大人にするというタイプの社会ではない。そうではなくて、親のひざもとで、子らが、生きてゆくすべを学び、ゆるやかに、親のもとを巣立ってゆくというタイプの社会なのである。

そのような密なる親子関係を軸としたプナン社会のありようは、子どもを学校にあずけて、そこで、知識や技術を身につけさせようとするような態度を生みだすことはなかった。親は、子どもに密にかかわりながら、狩猟や採集の仕方をはじめとして、薪の割り方、火の起こし方、小屋の建て方…など、森のなかで生きていくうえで必要となるさまざまなことを、ゆっくりと時間をかけて、子らに学ばせてゆく。したがって、大人の男たちが何人かで、狩猟キャンプに行くという計画を立てると、まずは、そこに妻や子らを連れて行くことを考える。それが、プナンのやり方である。学校が、親に代わって、それよりも価値のあることを子どもに与えてくれるとは、プナン人には、思いも及ばないことである。だから、プナン人は、学校が、近くにあって、授業料を無料にしたり、さまざまな優遇措置を与えたとしても、子どもをすすんで学校へと送ることはない。子どもたちも、親の行動について行き、その間、学校を欠席することになり、やがて、授業についていけなくなり、その後、しだいに、学校に行かなくなる。

プナン人が、プナン社会から外に出て、すなわち、森のなかではなく、雇われて労働をすることで、生計を立てていく場合には、学校は、必要な知識や技能を教えてくれる場として重要である。しかし、プナン人たちは、生まれ育った地を離れて、(プナン人以外が住む)遠く離れた場所で生活し、そこで生涯を送るということは、これまでまったくなかったし、今後も、そのような予定はほとんどない。プナン人は、与えられたジャングルに深く依存しながら暮らしてきたし、今後も、そうであるように思われる。そうだとすれば、プナン人にとって、近代社会で生きていくうえでの法を教える学校は、その存在そのものが、ほとんど意味を持たない。

ところで、わたしは、一時帰国してから、日本では、昨年来、いじめや不登校の問題をはじめとして、学校教育の再生が、大きな社会問題となっていることに、目を引かれた。学校が、知識習得以外の負のはたらきをもたらしたり、学校に通うことの意味が見い出せないのであれば、プナン人ならば、学校に通わないことを選択するにちがいない。他民族の生徒からのいじめを受けたプナンの子どもが、学校に行かなくなったケースもある。学校に行かなくなったとたん、いきいきと、親の行動に同行するようになる。そういった選択が、プナンとは社会的な背景を異にする日本社会では、何の解決にもならないことは、よく分かっている。日本では、明治以来、教育が、人づくり、国づくりの核として位置づけられてきたからである。

ひるがえって、どのようにしたら、教育を再生させることができるのか、という教育のあり方をめぐる今日の「実践」的な議論のなかで、すっぽりと抜け落ちているのは、「教育とは何か、学校とは何ぞや」ということを、その根源にさかのぼって問う議論ではないかと思う。

(写真は、食事をするプナン人たち)

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