たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ひと月の恋文

2010年10月03日 08時32分51秒 | 文学作品

 そのとき、きみはいったい何を取り戻そうとしていたのか。失った時間か、それとも彼女の愛なのか。後悔をことばで希望へと転じようとしていたのか。最初に別れようと言いだしたのは繭子ではなく、きみからだったではないか。離れてしまうから会うことができないと、何もかも葬り去ったのはきみのほうだったではないか。きみは、彼女よりも仕事を取ったのだ。きみが手紙を書こうと思ったのは、彼女が近くに越してくるということを人伝てに聞き、その人が彼女の住所も教えてくれたからなのか。彼女が同じ都会の住人になることは、きみがふたたび沸き起こった彼女への思いを届けることとどう関係するというのだろうか。きみにはそのことに思い至っていなかったはずだ。

 きみは文房具屋で便箋を買い、手紙を書いた。一縷の迷いもなく、その短い手紙を投函した。

 「高橋さんからきみの新しい住所を聞いた。元気ですか?あれから、おれは、ジャズをずっと聞いている。
クリフォード・ブラウン。25歳の若さで交通事故で逝ってしまった。彼のトランペットは女性ボーカルに特によく映える。サラ・ボーン、ダイナ・ワシントン、ヘレン・メリルとレコーディングしているが、どの一枚をとっても申し分ない。彼の音色は、まろやかで伸びがあり、女性ボーカルをいっそう引き立てる。この音の空間には足りないものがある。きみが足りない。」

 きみはその翌日にも手紙をしたためて投函した。

 「きみから教えてもらったことがある、カミュの『異邦人』を、少し前に、読んでみた。ムルソーは、アラブ人の殺人よりも、母を養老院に送り、母の死に涙さえ流さなかったという反社会的な態度を糾弾され、処刑された。この世は、なんて不条理なんだ。おれは小説を書きたい。世界の不条理や混沌をテーマとした『得体の知れないもの』、女をテーマにした『かげりゆく女たちへ』。いったい人生という道のカーブの先には何があるのだろうか。好きなことをするような人生のほうが面白そうだ。返信を待っている。」

 きみはそれから毎日毎日手紙を送り続けた。

 「六本木から日比谷線の最終で恵比寿まで出たら、池袋行きの最終しかなく、池袋から徒歩で帰ってきた。けっこう時間がかかるものだ。池袋、大塚、巣鴨、駒込、田端まで
1時間20分くらい。池袋東口にはおかまがたむろしていた。都会の土曜の夜は長い。住宅街の路地に迷い込みながら、午前2時、人びとのまだ飽きないで飲む声が漏れてくる。千鳥足の酔っ払い。アパートの前でもめている男と女。犬っころがとぼとぼと歩いてゆく。
昼の街とは趣がちがう。24時間空いているマーケットには、なぜあんな夜遅くまで人がたまっているのか。そんな時間に、きみはいったい何を考え、何をしていたのか。教えてほしい。」

 「いかなる枯葉といえども、木には栄養分があって、栄養分にならない木の葉はない。回り道、後戻りは、たんなるムダではない。肥やしだ。昨日について語るとき自信に満ちていても、今日と明日に対しては誰でも永遠の迷い子だ。男が女に惚れることも是ではないか。気持ちを伝えるため前に出ようとするとすかされる。今日と明日は、確実に昨日になる。今日はこのくらいにしておこう。もう一度会わないか。」

 一週間送り続けた。毎日早く帰って、ポストをのぞいた。返事は届かなかった。

 「毎日のこんな手紙、面白くないのだろうか。退屈だろうか。何も感じないか。忙しくてそれどころじゃないのだろうか。仕事て何なのだろう。一日8時間プラスアルファ。朝、会社に出勤するために起きて歯を磨く。すると、一日12時間以上になる。仕事のため、あるいはその準備に費やし、さらには仕事に縛られる。おれたちは人生の半分以上を仕事に費やさなければならない。いや、逆に、好きだから仕事をするのだ。好きな仕事でしか続かない。芸術家が納得のいくまで昼夜関係なしに仕事に打ち込むように。そのとき、仕事の概念は崩壊する。おれたちも好きなことを納得のいくまでしなければ。君はどう思う、聞かせてほしい。」

 「バックペインが来てから、トレーニングを始めた。ビールで弛んだ肉体に渇を入れ、頭の中をすっきりさせる為に。何かに必死になっていた頃に戻れるような気がする。おれはきみに、インドかどこかの裏町で倒れているおやじに、ドストエフスキーの『白痴』を読み聞かせて、どんな反応が起こるのか試しているのと同じことをしているのだろうか。まだきみの声を待ち続けている。」

 届かない返事。
きみは、どんどん、繭子宛に手紙を書くということに宙づりにされるようになっていったのではないか。それでもきみは書き続けたし、いつものように、朝、出がけに、駅前のポストに手紙を投函した。

 「ジャン・リュック・ゴダールの『探偵』を見た。いつか『パッション』という映画を見たことを覚えていないか。あの難解なやつだ。ほとんど訳がわからないまま全編が一瞬のうちに終わる。渋谷には、面白い店がある。一種妖しい雰囲気のインド料理店で、おやじがやって来て、『ムルギの卵入りですね』とオーダーを指定する。『いや、メニューを見せてください』と返すのが億劫になるというか、野暮なような気がする。けっこう辛いカレーだ。」

 「岩登りの感触といったらほかにない。トップはフリークライミングになる。手と足四つのうち三点確保となり、ときには一瞬二点確保となる。下半身から伝わるぞっとするような緊張感。人差し指くらいしかない岩の割れ目に指をぐいっと喰いこませ、爪の先のようなかたちをした岩場に足をかける。岩と一体化し、そこにへばりつく。ときには繊細にときには大胆に。自己自身に自己のいのちをゆだねる。ダイナミックに繊細に。疲労と緊張、その繰り返し。」

 きみはいったい何がしたかったのか。彼女の都合も聞かないで、一方的に、手紙を送り続けただけではなかったのか。そのひと月というもの、きみは、書き、送り続けた。季節は、春から初夏に変わろうとしていた。そもそもそれらの手紙は、彼女に届いていたのだろうか。封は、切られたのだろうか。いまとなっては分からない。

 「今朝、へんな夢を見た。雨が降っていた。市内リレーをやっている。おれは、何かから逃げるために走っていて、たまたまそのレースにぶつかった。女たちが走っているのを眺めていた。『エイコ、エイコ』という誰かの声。向かい側の車線を走っていた女の子がランプのようなものを踏みつけた。彼女はぶっ飛んで、なんと、即死してしまった。」

 きみが繭子に最初の手紙を送るまでには、一年以上の時が流れている。きみは、彼女が平然と、きみからの辛い仕打ちをやり過ごしたとでも思っているのだろうか。そうでなかったことを想像したことがあったのだろうか。きみは、何も分かっていなかったのではないか。

 三十
通めを送ったのち、きみには、まったく何も書くことが無くなっていた。何を書いたらいいのか、思い浮かぶことさえなかった。書くことが残っていなかったのだ。たったの三十通で、きみの思いは、しぼんでしまった。
きみは、失ったものを取り戻すどころか、失ったものを取り返そうと躍起になるあまり、何を自ら葬り去ったのか、何を失ったのかさえ見失ってしまったのではないか。自らをどん底に突き落とすために書いていたようなものではなかったのだろうか。

 その頃、きみはいったい何をしていたのだろうか。いや、むしろ、きみは、いつもそのようではなかったのだろうか。

*メールやケータイメールであれば、書いた文は手元に残っている。でも、ラブレターは、送ってしまうわけだから、ふつうは、手元に残らない。相手から返事があった場合には、(それを取り置くならば)その手紙が手元に残る。ラブレターの下書きが、ほんの一部であるが、残っていた(写真)。20年以上前のものである。いま読み返してみると、客観的に眺められるような気もする。心の動きと叫びの屈折に出会う。この短編は、そうした下書きをもとに書いてみたものであるが、創作であり、フィクションである。
ミッシェル・ビュトールの『心変わり』を真似て、二人称での語りかけ調にしてみた。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d42eb234d8fb6eef7362ed8c82dfe6a0
わたしが、エスノグラフィーの「表現力」の問題に強い関心を持ち始めたのは、いまから一年以上前のことである。わたしはいま、心の鼓動や苦悩を自由に操る文学に、範を求めようとしている。文学を読んで評するのは面白いが、自分で書くとなると大変だ。