たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ある悲しき、女教師の思い出

2010年10月05日 07時59分46秒 | 文学作品

穣がA先生と初めて会ったのは、彼女が穣のクラスに生物の教育実習に来たときだった。A先生は、背丈は中くらいで、細身で、クセ毛で、眉が濃く、口唇がとりわけ印象的で、いつも淡い色のワンピースの服を着ていた。授業中に、さし木の話を聞きながら、彼女の口唇を眺めていたとき、穣の心臓は、とてつもなく大きな音を立てて鼓動し始めた。ドンドンドンドン、と。口唇のなかに吸い込まれて、自分自身がついには溶けてなくなってしまうのではないかと思われた。穣は、あやうく失神しそうになった。その寸前だった。それ以降、穣は、女性の肉厚の口唇をまともに見ることができなくなってしまった(口唇フェチってやつ、いや、見れないのだから、口唇恐怖症?)。A先生がいた二週間は、生物の授業がことのほか楽しく感じられたが、彼女が学校を去ると、マレーバクによる授業に舞い戻り、生物がとたんにつまらなくなった。しかし、翌春、驚いたことに、A先生は大学院のマスターを卒業して、生物の教師として、穣の高校に赴任してきた。穣は、心のなかで大きく高まる波のようなものを感じた。生物は取り終えていた。考えあぐねた末、穣は、5月になって、男子生徒1人と女子生徒3人と相談して、生物部を創設することにした。穣がみなを誘ったのだが、彼はじっと陰に隠れていた。女の子たち3人がA先生に相談に行った。彼女は、「いいことですね、一年目は試験的にやってもいいですね、わたしが顧問をやりましょう」と言ったという。A先生は、剣道初段の腕前で、剣道部の副顧問でもあることを付け加えたという。穣は、人は見かけによらないと思った。放課後、穣たちは、A先生と一緒に、ダーウィンの『図版・進化論』を勉強した。彼女は、「個体発生は、系統発生を繰り返す」という言葉を教えてくれた。それが終わると、A先生がプリントを用意して、霊長類の子殺し行動の話をしてくれた。夏休みには、剣道部員といっしょに、高校の近くの川原でバーベキューパーティーをした。生物部のある女の子は、それから10年後に、剣道部員の一人と結婚している。秋になると、生物部で週末に、山のなかに、シカの足跡の石膏を取りに行ったこともあった。帰りに、ぜんざいを作って食べたのを、穣はよく覚えている。誰かが、砂糖と塩をまちがえて持ってきたので、甘くないぜんざいになった。ぜんざいを食べていて、二人っきりになったとき、穣はA先生に、「先生には恋人はいるんですか?」と聞いたことがあった。一瞬、なんて野暮なことを尋ねたのかと悔やんだが、先生は「いますよ、生物学ですよ」とやさしく答えてくれた。同時に、穣は、うまくはぐらかされたと思った。年が明けて、穣は三年生になり、共通一次試験に向けて準備を始めることになった。彼は、理科の二科目のうち、迷うことなく生物を選択した。英国数、世界史、日本史、生物、地学、5教科7科目のうち、生物だけの成績が良かった。模擬試験では、生物だけ、いつもほぼ満点だった。他の科目は、あまり振るわなかった。A先生に成績を見せに行くと、生物の成績がいいのはいいことだけど、他の教科もがんばりなさい、志望校を目指すには、あと100点の上乗せが必要ですね、と言った。夏が終わり、二学期が始まったとたん、同級生の剣道部の男が、A先生のことが好きだといいふらしているという噂が伝わってきた。そのときになって、穣も、自分もそうだったのかもしれない感じるようになった。とたんに、その同級生の剣道部員の顔が浮かんで、その男のことが疎ましくなった。二学期が始まってしばらくすると、受験を控えて、穣たち生物部員は、部活動をいったん休止した。生物部に、後輩はいなかった。生物部の活動は、実質、そのときに終わったことになる。受験対策講座が組まれたある土曜日の午後、穣が雷雨が上がるのを待って雨宿りをしていると、A先生が通りかかるのを見かけた。大雨にもかかわらず、雷雲が晴れ渡るような心持がした。挨拶をして、立ったまま話をした。彼はそのときのことを、はっきりとは覚えてないが、気持ちの高まりを抑えきれず、ぼくが卒業したら付き合ってくださいというような内容のことを、思い切って、口から出してみたのだ。一瞬、大きな雷鳴が轟いたように思う。A先生は、それが鳴りやむのを待って、いつものように静かな口調で、あなたは、きっといい男になるわよ、というようなことを言った。穣には、その意味がわからなかったが、言わなければよかったことを言ってしまったのだと直感的に悟った。A先生は、微笑みながら、これから職員会議があるのよと言って、職員室に入っていった。穣は呆然とその場に立ち尽くし、なんて、身の上をわきまえないことを言ってしまったのかと思った。心のなかでは、雷が鳴り響いていた。それ以降、秋から冬にかけて、彼は乱調して、勉強がほとんど手に付かなくなった。共通一次試験と私立と国立大学の受験もあっという間に、わけも分からずに済んでしまった。卒業式がどんなふうであったのかも、あまりよく覚えていない。穣は、卒業式の前に、A先生に進路を報告し、挨拶をしたことは覚えている。でも、A先生が、卒業式にいたのかどうかもはっきりしない。それから、数年、穣は、なんだか胸のつかえがなかなか取れなかった。彼は、やるせない気持ちを抱えて、日本からの脱出を企画し、海外旅行に出かけた。バックパッカーとなって、転々と、国外を渡り歩いた。その後も、穣は、ひんぱんにA先生のことを思い出すことがあった。A先生であれば今の落ち着きのない、薄汚い自分を見て、なんと思うだろうかとか、A先生に会ってみたいと、熱く思うこともあった。いや、いつかは、どこかで交わる道もあるはずだと思っていた。卒業後10年ほどして、インドネシアで正月を迎えたときに、A先生にグリーティングカードを送ったことがある。返事はなかった。音沙汰もまったく聞かなくなっていた。穣は、卒業から30年が過ぎようとしている今の今に至るまで、A先生には会ったことがない。ごくごく最近、電話をくれた、かつての生物部の女子の同級生から、A先生が、2007年の初めに、病気で亡くなっていたことを聞かされた。彼女も、卒業後にA先生とは疎遠になり、彼女の友人が、A先生の夫になった、同じく同級生だった剣道部の部員から、A先生が亡くなったことを聞いたらしい。電話の向うの言葉が、一瞬、凍りつき、遠のいたように穣には感じられた。穣は、思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。当時の気持ちの塊が、ドカンと音を立ててぶつかってくるような気がする。若く美しかったA先生のことを悲しく想う。

(写真は文とは無関係、1983年ダッカにて)