たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『心変わり』

2010年08月31日 18時10分36秒 | 文学作品

ドゥルーズのご学友(?)と聞いたことがあるが、フランスの小説家、ミシェル・ビュトールは、45歳の男・レオン・デルモンの心の襞に深く入り込んで、彼の予定の変更(La Modification ←タイトル)を、味わい深く描き出している。扱われるのは、パリからローマへの主人公の列車の24時間の旅。主人公には、パリに、学生時代に知り合って4人の子をもうけた妻アンリエットがいるが、ローマには、スカッベリ商会の仕事でローマに出張に出かけている間に深い間柄になった愛人・セシルがいる。主人公は、セシルをパリに呼び寄せ、妻と別れて新しい暮らしを始めるという計画を着々と進めてきており、そうした彼の決心を伝えるために、心を躍らせながら、会社を休んで、ローマに向かう列車に乗り込む。いつもとはちがって、三等列車に乗り込んだ主人公は、その決心に酔いしれ、セシルの喜びを夢想する。「こんどきみはクリナール・ホテルに戻る必要はないし、食事のあとで駅に急ぐ必要もないだろう。食事のあとできみはモンテ・デ・ラ・ファリーナ街56番地のセシルの家に戻って、その日の宵を過ごすのだ。セシルはまもなくその部屋を出るのだから、きみはあと一度か二度しかそこを見られないことになる」(149ページ)というふうに、全編を通して、主人公を二人称で呼ぶという特徴的な表現によって、物語は綴られてゆく。ローマへと近づくにつれて、主人公の心に募るセシルへの思いとは裏腹に、彼の心は、パリにいるアンリエットからしだいに遠ざかってゆく。すでに3年に及ぶセシルとの関係は、もとは列車のなかでの二人の出会いと映画館での偶然の再会から始まった。その出来事の直前に、主人公は妻アンリエットとともにローマを旅している。「しかしまた、あのいろいろと運の悪かった旅行のあとでセシルと出会ったのでなかったら、きみは彼女をいまほど愛しただろうか?といってしかし、その旅行のときにすでに彼女を知っていたとしたら、いまきみの気持ちがこれほどアンリエットからはなれていただろうか、いまきみは列車に乗っていただろうか」(227ページ)。主人公は、パリ発ローマ行きの列車のなかで逡巡する。そして、やがてセシルにローマで会うことに関して、じょじょに考えを変えてゆく。「というのも、そのときのきみはセシルのためにローマに行くのではなかったからだ。今月のようにセシルがきみの旅行の唯一の理由というのではなかった。上役が命令して出張旅費を払う旅行だった。彼女に会うという幸福も、きみが上役たちに隠れて手に入れるものだった。それはきみの隷属状態に対する大きな復讐だった。たえず上役たちのために戦い、きみの利益ではなく、彼らの眼に見えぬ利益を守るようにたえず強いられていて、きみが堕落のさなかへと陥らされていることへの復讐だったのであり、言ってみればきみ自身に対するじつに穏やかな裏切りにほかならなかった」(326ページ)。語り手は、主人公の心理を突く。セシルとの関係は、会社への隷属状態に対する復讐だったのではないかと。「きみがほんとうにセシルを愛しているのはひとえに、彼女がきみにとってローマの顔、ローマの声、ローマの誘いである度合いに応じてのことにすぎない、ローマなしでは、ローマのそとでは、きみは彼女を愛さない、ただただローマのためにだけ、きみは彼女を愛しているのだ」(374ページ)。列車は、やがてローマに到着する。セシルのことを思い、一睡もせずに列車から降りる主人公。そのとき、列車に乗る前に秘めていた彼の決心は、かたちを変えていた。「長い間温めてきた夢の実現にあたって、きみはセシルに対するきみの愛が、ローマというあの巨大な星の徴の下に置かれているということ、きみが彼女をパリに来させたいとのぞんでいるのは彼女を媒介として、ローマを毎日きみの眼前に存在させたいという企図に発するということをさとらないわけにはいかなかったからなのだ。だが、きみの日常生活の営まれるパリという場に彼女が来ると、彼女はローマの媒介者としての力を失ってしまうことになる、彼女はもはや、あたりまえの女、新しいアンリエットとしてしか見えなくなり、いわば結婚生活を更新しようと思っていたのにこれまでと同じような障害があらわれてしまうことになるだろう」(438ページ)。こうして、主人公は、とうとう夢の実現不可能性へとたどり着く。最後に、その心の虚ろさを、彼は書物のなかに書き表すことを決心するのである。作者ビュトールは、列車が空間的にパリからローマへ向かって進行し、時間的にも流れてゆくというプロセスにしたがって、男の決心が、回想とともにしだいに揺らいでゆき、いつもの出張のさいに愛人にあうという一点のみを残して、別のものへと変化した決意のかたちを巧みに描き出そうとする。心変わりは何の状況変化も起こさないと納得することで、主人公は、自らを敗北者としない。「わたしは彼女を失ってしまったかと思ったが、また見いだした。わたしは絶壁の縁に沿って歩いていたのだ、もうけっしてあのことを話してはいけない、いま、わたしは彼女を手元に引きとめることができるだろう、わたしは彼女を所有している、と」(444ページ)。主人公は、彼なりの折り合いをつけようとする。心変わりは、むしろ、状況を固定させる。見事な描写だと思う。★★★★★

ミッシェル・ビュトール 『心変わり』 岩波書店


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3 コメント

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緊急告知 (たんなるエスノグラファー)
2010-08-31 20:53:49
「マレーシア ボルネオ島 ジャングル長屋の子育て」が、以下の予定で放送されます。桜美林大学非常勤講師の長谷川悟郎先生が解説に出演されています。

2010年9月2日(木)
BS-hi 21:30~21:59 (29分)

<再放送予定>
BS2 9月6日(月)午後11:45~翌0:14
BS‐hi 9月8日(水)午前7:00~7:29
BS2 9月9日(木)午後3:45~3:14

※今回再放送予定が通常のHP告知時間帯と異なります。※総合での放送はありません。
http://www.nhk.or.jp/baby/onair/index.html
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おかえりなさい。 (田中葉子)
2010-09-08 13:50:32
おかえりなさい。
無地で何よりです。感染も本当に恐いですね。強くなった新種も潜伏しているようですから。

コメントのほうも有難う御座います。
文献さがしてみます。
でも、こうした文献は新しいのがあまりありませんが、それだけ研究している人が少ないということでしょうか。

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語句訂正 (田中葉子)
2010-09-08 13:51:45
無地で何よりです。<無事でした。
すみません。
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