たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

複数の父親について考える

2007年10月25日 21時06分00秒 | 性の人類学

今学期やっている「性の人類学」という授業の明日の講義のために、『複数の父親の文化:南米低地における父性の分割についての理論と実践』という本を読んでいる。民族誌的な事実が、とびっきり面白いのだ。以下、忘れないために書き留めておきたい。

Stephen Beckerman & Paul Valent(eds.), Cultures of Multiple Fathers: The Theory and Practice of Partible Paternity in Lowland South America. University Press of Florida, 2002

スティーヴン・ベッカーマンが調査したヴェネズエラのバリ人社会(上の地図の左上のほう参照)の社会的・経済的な(生産と消費の)単位は、かまどを一つにする血縁集団である。男がマニオクの耕作や狩猟に精を出し、男たちには豊富な食糧があるが、食べ物は子どもたちにはなかなか行き渡らない。 バリ社会は、男の15%が複数の妻をもつ一夫多妻の社会である。女の側から言えば、結婚した状態では、ふつうは、一人の男=夫がいるだけである。というのは、土地所有者たちが、殺し屋を雇って、バリ人を殺そうなどするので、男性の死亡率が高い。男女の人口比が、女性に傾いているからである。

興味深いのは、女が、結婚後、妊娠すると、インセストタブーの範囲の外にある姻族の複数の男性と性交渉をするということである。男性の「恋人」は、胎児の健やかな発育にいいと考えられているという。出産の後、母親になった女は、森のなかで、村の女たちの前で、妊娠中に性交渉した相手を明らかにする。それを聞いた女たちは、村に帰って、性交渉の相手と名指しされた男たちに、子どもができたことを伝えるという。そうして、その複数の男=父親たちは、狩猟の獲物やマニオクなどの食糧を、贈り物として、子どもに授ける。その後、その子どもが成長すると、母親は子どもに向かって、父親を指差して、「あれが、おまえのお父さんだよ、魚や肉をもらえるよ」という。

ところで、バリ社会の「乱交」的な性行動のあり方を、ヒト以外の動物のセックスのあり方と単純に比較することはできないと思うのだが、知的な試みとして、以下では、バリ社会の性行動のありようを、ボノボの性行動と比較してみたい。ボノボについては、ドゥ・ヴァールの『インナー・エイプ(邦題:あなたの中のサル)』の記述分析を取り上げる。

ボノボは、交尾、マスターベーション、GGラビング(メス同士の性行動)、尻つけ(オス同士の性行動)、性器マッサージ・・・など、じつに多様な性行動をたえず行っている。ヒトが圧倒的にヘテロセクシュアルであるのに対して、ボノボはバイセクシュアルであり、その意味で、全方位型セックスを行っている。ただし、ボノボはけっして、ヒトの乱交パーティーのようなものを繰り返しているのではなく、親密な性的接触をスパイスのようにまぶした社会生活を送っているのであり、多様な性行動は、社会調節機能をもっているように思える。

そのような性的接触をひんぱんに行うことによって、ボノボは、ライオンやラングール、チンパンジーに見られるような、オスによる「子殺し」を回避することができている。子殺しとは、ハーレム型の社会集団を形成する霊長類のオスの繁殖戦略のひとつである。ハーレムを乗っ取ったオスは、次々と、集団内の子を殺し、メスの発情を促して交尾し、自分の子を産ませる。そのような子殺しに対抗するかたちで、ボノボのメスは、オスに限らず、メスとも子ボノボともセックスをするという、セックス中心の社会をつくり上げた。メスは、誰とでも寝ておけば、オスが自分の子と自分以外の子を峻別することができず、子を殺すようなことはないと判断したのではあるまいか。つまり、ボノボのような「乱交」型の社会は、父親が誰だか分からなくするという、メスの戦略によって支えられている。そういうふうに、ボノボ研究者・フランス・ドゥ・ヴァールは考えている。

Frans De Waal, Our Inner Ape. 2005

(1)男性にたよって食糧にアクセスするバリ社会では、社会的な要因によって、男性の人口が少ないため、女性たちは、誰とでも寝て、子どもが、複数の父親経由で、食糧にアクセスし、生存できるように「進化」した。(2)他方で、ボノボは、子殺しという、残虐さを伴うオスの繁殖行動を回避するために、メス主導でセックス中心の社会をつくりあげ、子の父が判然としない社会を「進化」させた。メスは、「誰とでも寝る」ことで、子の生存を確かなものとしたのである。

父親は一人であること、父親の背中を見て子どもは成長するということ、家父長的で厳格な父親像が崩壊し、子どもと仲良くする父親が現代の理想の父親像であるということ・・・などは、
じつは、それほど自明のことなのではないように思える。わたしたちは、父親幻想を見ているのかもしれない。