ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

雲表の国-チベット踏査行

2010-05-06 20:01:52 | チベット関連本
前の項「チベット・聖山・巡礼者」に続いて、この本も日中合同登山隊(ニェンチェンタンラ 7160m)に学術隊員として参加した著者による、文革後(1986年)のチベットレポートです。



その探査ルートは列車で北京から西寧へ。ここから車で、高山病に悩まされながら悪路を西へ。この道は昔、唐の都・長安と古代チベット王国(吐蕃)の都・ラサを結ぶ重要な道で入吐蕃道と呼ばれました。 そしてコンロン山脈を越えて青蔵高原を走りラサへ入ります。

ラサでは変愚院たちも泊まったラサ飯店を拠点にポタラ宮、デポン寺、セラ寺などを調査しています。


「デポン寺」(2006.05 変愚院撮影・以下すべて同じ)


「セラ寺」

拉薩飯店の食事はよほどひどかったのか、何度かここの食事が貧弱だったと書かれています。もっとも、変愚院たちが泊まった20年後になっても飯のまずさは変わらないようで、変愚院も日記にそのことを、次のように書き残しています。

…ラサ滞在中の宿「ラサ・ホテル」は市内一の高級ホテルで、ホテル内にプールまであったのには驚いた。ホテルの周囲には露天の土産物屋がずらりと並んでいる。ライさんとヤンさんから、今日は「高度順化」のため、どこへも出歩かないようにと忠告され、おとなしく部屋に籠もることにした。高度の影響か少しふらつく。夕食、ホテルでバイキング。やや弱な内容だったので、部屋に帰って機内食で補充する。…

「拉薩飯店」

セラ寺では寺の裏山にある鳥葬場を訪ね、その凄惨な状況を詳しく伝えています。
ここで、チベットの葬儀について本書を参考にして簡単にまとめておきます。

チベットで行われる葬儀には、菩薩の化身であるダライ・ラマとパンチェンラマをミイラとして保存する霊塔葬は別として、火葬、水葬、土葬、鳥葬があります。
 火葬は高僧や貴族などに対してだけのものです。多くの僧の読経のうちに遺体が焼かれ、骨と灰は風にまき散らされるか、川に流されます。
 水葬は貧しい人、よりのない人、乞食などが対象で、川縁で細かく切り刻んだ遺体を魚に贈り物っとして与えます。魚は川の神々とてチベットでは食べることを忌避し、漁師は賎民として最下級の身分に落とされてきました。
 土葬は人の恐れる伝染病患者や殺人者、犯罪者だけのものとされ、最も嫌われています。彼らを鳥葬にすることは方で禁じられておます。悪の本性を絶滅させ、再生してくることを許さないために地中に埋めるのです。
 鳥葬は一般のチベット人が一番望む葬儀です。死者が出ると遺体は白布に包まれて部屋に安置し、僧侶による読経で魂を身体から解き放って貰います。これには3~5日かかるといいます。その後、遺体は鳥葬請負人に渡され高い岩の台上に俯せにされます。そしてチベット刀でバラバラに解体されます。切り刻まれた肉は横に積み上げ、骨も砕いてツァンパ(麦こがし)といっしょにこねて団子にまるめます。これをたき火に入れると煙の匂いをかいだハゲワシが舞い降りて来ます。

まず骨の団子をやり、ついで肉を投げ与える。さらに残った骨は石でつき砕いて粉にしたり、焼いて灰にして一面にまきちらす。魂が肉体から完全に自由に離れて天に昇ってゆくことができるように、死体の一切れでもことごとく他の生物に施与し、処理しつくすというのがチベット式鳥葬の本質である

とありますが、いやはや凄まじいもので、河口慧海が「なるほど羅苦叉鬼の子孫に恥じざる人種であると思って実に驚いたのである」と漏らしたのも無理ありません。

ラサでの調査を終えた筆者は、苦闘した登山隊と合流した後、ヒマラヤを越えてネパールのカトマンドゥに向かいます。次はヤムドク湖の印象です。



カンパ峠は断崖絶壁の道を登りつめたところにあった。途中、いくつもの小さな寺の廃墟を見かけた。それも徹底的な破壊であった。高度をあげるにつれて、霧が出てきたが、峠には白い風が吹いていて葬いの旗のようなタルチョがはためいていた。そして一山越えたとき、忽然と眼下に神秘的な湖を見たのである。まるで他界のような感じだった。霧が去来しているが、水の色は瑠璃色で、墨絵の山のような連山に囲まれていた。これが聖なる湖ヤムドク湖なのか。…

この僅かな文章の中にも、中国によるチベット文化の破壊が描かれています。本書では「文革の爪痕」という章をたてて詳しくその状況を伝えていますが、ここでは触れません。ただ、カトマンドゥから迎えのジープが来て中国隊と別れるときの感動的なシーン、結びの文章が胸を打ちました。

いよいよお別れだ。私と李さんが固い握手、そしてしっかりと抱き合う。次の瞬間、みんながそれぞれ抱き合い、肩をたたき、持ちあげあい、別れを惜しむ。みんなの目に涙が光っている。苦楽を共にしてきた人びとの、言葉には尽くせぬ感情が噴出する。まさに友情の架け橋の(変愚院註:中国ネパール国境の友誼橋)上で…。
 昨日までの激しいやりとりが嘘のよう。いや嘘ではない。対立は対立、主張すべきことは主張しあい、友情は友情のつきあいをして互いに理解してこそ真の友好がうまれるのだ。
 私たちの乗った車が友誼橋を渡ってネパール側に消えてゆくまで中国のスタッフは手を振ってくれていた。”さらば、チベットよ。さらば、友よ〃


私たちのガイド、上海からのスルーガイド・雷鳴(本名です!)君、ラサでのガイド・楊さんも私たちが山好きと知ると、こもごも「今度はカイラスに行きましょう」
「中尼公路(中国ネパール友好道路・ラサ~カトマンドゥ)の旅もいいですよ」などと誘ってくれました。そこには反日的といわれる中国の若者の貌は全く見受けられませんでした。4人という小グループだったからかも知れませんが、僅か数日の旅ですっかり仲良くなり、雷鳴君からは帰ってからも何度かメールを貰いました。


4 コメント

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チベット リポ-ト (ひろせ)
2010-05-07 06:50:20
当該ブログのチベット シリ-ズは殊の外
興味しんしん です。(変愚院さんの日記も出てきますし)それにしても、鳥葬なるもの、驚きです。原則土葬の欧米人はわが国の火葬場の扉が閉まる時の金属音を聞くのと、そのあとで出てくる故人の砕けた遺骨を見るのはショックのようです。国により、それぞれのようです。
(受けとりかたも、それぞれのようですが)
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チベット本シリーズ (変愚院)
2010-05-07 13:29:35
ひろせさん、いつもご覧頂きありがとうございます。
このシリーズは、あくまでも読書ノートのつもりで始めたのですが、
書き始めてみるとこんなブログにも著作権の問題もあり、
なかなか難しいことに気づきました。
そこで自分の日記や写真を入れて(もちろんラサだけですが)
誤魔化している次第です。

珍しい葬儀で思い出すのは、ネパールのパシュパティナートのガートです。
川辺の台の上で遺体が焼かれ、その灰が聖なる川に流され、
その横で平気で沐浴や洗いものをしている。
ちょととしたカルチャーショックでした。
ついでですが、ここで三浦雄一郎氏と出会い少しお話ができました。
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ヤムドク湖の印象 (ciao66)
2010-05-07 20:39:07
辺境の地の神秘的な湖、まるで他界のような感じ、というのがよく判るインパクトある画像ですね。

曇り空の一角に青空が覗き、
湖にも少し青空、
ケルンの上には風で色が少し褪せた布と棒。

人間の悲しさと美しさを感じさせるようです。

ここでも鳥葬が行われているような写真の雰囲気ですね。
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Re.ヤムドク湖の印象 (変愚院)
2010-05-07 20:53:56
晴れていれば峠からマンダ・カンリ(64254m)やクーラ・カンリ(7554m)などの
展望が楽しめる筈でした。
あいにくの曇り空でしたが、エメラルド色に空の青さを映した
湖面を眺めただけでも、十分にここまで来た甲斐があったと満足でした。

鳥葬の場所には行きませんでしたが、ヤルン・ツァンポ川支流の水葬の行われる場所を見ることができました。
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