先日、日テレで「霧の火」というドラマがやっていた。
「霧の火~北の大地・樺太に散った九人の乙女たち」公式サイト
http://www.ntv.co.jp/kyu-otome/
これは、いったい何のドラマかと言うと、大東亜戦争で日本が敗色濃厚になった時、火事場泥棒的に北海道まで侵略しようとした、極悪鬼畜ソ連軍と、敗戦後も戦い続け、なんとか日本を守ってくれた日本人達のお話である。
主役は、樺太の真岡にある郵便局の交換台に、ソ連軍が侵略してくるぎりぎりまで残り、通信を確保し続け、最終的に全員青酸カリで自害するという9名の女性。
俺はこのドラマは見ていないものの、だいたいの史実は知っている。
最後、この9名は、ソ連兵に蹂躙される事なく自害を遂げているのだが、どうやらドラマでは蹂躙されてしまうようだ。その点を除き、概ね史実に忠実なドラマだった模様。
この話を独学で勉強した時、当時のソ連人っつーのはなんてえげつない連中なんだろうかと憤慨したものだ…。
独学というのがミソだ。
俺は無論、これを学校で習ったわけではない。
まあ、必要以上に憎しみを植えつけるのは確かによくはないのかもしれないが、こーゆー話こそ、俺は学校で勉強したかった。こーゆーのが実に「日本史」には必要なのだと思っている。
この話は、8/15にエントリした「敗戦の日に思ふ」でも触れたように、8/15で戦争は終わったわけではないという史実の、1つの根拠として、俺の中で根付いている。
敗戦の日に思ふ
http://blog.goo.ne.jp/jpakiyo/e/17fb4643aae31f37e25f6b78add006fe
で、俺はもっと広く、このソ連の非道と、勇敢な日本人について、みんなに知って欲しいと思っている。本とかは敷居が高い。気軽に読めるネットの記事はないものかと、以前からずっと探していたら…。
「国際派日本人養成講座」というメーリングリストがあった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_index_frame.htm
いや、膨大な量の日本史の資料に感動した。
すごい読める資料だった。
以下、ソ連軍南下あたりの資料を全文引用しようと思う。
もともと、2ちゃんでも全文引用されているし、ま、いいかなぁと。もし問題があれば削除するという方向で。
感動した。これ読んで、まだ日本には軍隊不要とか言う人は俺とは多分相容れない。
(引用開始)
■1.北海道北半分をソ連に■
1946(昭和21)年8月16日、終戦の日の翌日、スターリン
は米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北
の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を
送った。
同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められて
いたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがス
ターリンの新たな要求だった。樺太、千島列島、北海道北半分
をソ連圏内に収めてしまえば、オホーツク海はソ連の内海とな
り、太平洋への出口も自由になる。
このスターリンの野望により、終戦後も激しい日ソ間の戦い
が樺太と千島で展開されることになった。
■2.樺太国境での激戦■
終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11
時、ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、その一
時間後に攻撃を開始した。翌46年4月まで有効であった日本
との中立条約を一方的に破棄し、さらにソ連に和平仲介を依頼
していた日本政府に対して、宣戦が布告されたのである。樺太
でも早速9日朝から、国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、
小部隊の越境偵察が始まった。
樺太はもともと日露混住の地であったが、明治8(1875)年の
樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島
はすべてが日本領となった。明治38(1905)年の日露戦争の勝
利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された[a]。
南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は季節労
働者を含めて約40万人であった。
南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、
航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落・
半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約
100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一
昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全
軍には異様な感激を与えた。
半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍
の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊
約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵
抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦
女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破
して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する
「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれ
ない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令
が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦
闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦
車数十両破壊と推定されている。
日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請し
たが、ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。
■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■
日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、アメリカは即
座に全軍に戦闘停止命令を発したが、極東ソ連軍総司令官ワシ
レフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部
の占領を命令した。樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実で
ある。さらに継戦の必要があった。
千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心
に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端
とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋へ
の出口を扼する戦略拠点であった。
ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8
千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上
陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分
に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射
砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。
撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千
人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試み
た。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返さ
れた。
■4.ソ連の悲しみの日■
堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。
しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに
戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行をソ
連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、長島大尉も単身敵
中に潜入して行方が分からなくなった。日本側が反撃行動を停
止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。
19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始ま
った。何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の
調印が行われた。一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島
を南下しようというソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大き
く狂ってしまった。
ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側
は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、
満洲、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8
月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行わ
れた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。
■5.真岡への侵攻■
北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、樺
太の南西岸にあり、3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港
をもっているため、ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使
用兵力を大陸から送り込むための中継基地として考えていた。
真岡はもともと人口2万の町であったが、16日夕から本土
への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航して
いたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。
真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町
中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる
人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけ
た。引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が
降り注いだ。厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名と
している。
■6.さようなら、これが最後です。■
この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局
に残って、通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。9
人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に
渡って、市街の惨状を報告し続けた。今も詩吟「氷雪の門」で
伝えられる最後の放送は次のようであった。
内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが
樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私
たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間
もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さ
ん、さようなら、さようなら、、、
9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚
内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳
皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残さ
れた。
樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる
からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのる
ぬる
■7.真岡近郊での戦闘■
真岡に付近にいた配属部隊は、すでに16日に終戦に関する
師団命令を受けて、真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、一
部の兵の召集解除を始めていた所であった。残っていた人数は
3~4百名程度と推定される。
ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派
遣したが、一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指
示に従って、武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射さ
れ、ほとんど全員が射殺された。
21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。その豊原
は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。
豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、日
本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。
近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続
けた。その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。豊原
駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲
げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、
爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に
100人以上の死者が出た。
■8.スターリン、北海道侵攻を断念■
トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返
事が18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレ
フスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部
諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を
占領するよう命令を出した。
占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が
20日早朝と、ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、8月2
8日に予定されていた降伏文書正式調印(実際には9月2日に
延期された)までに、北海道北部占領を既成事実化してしまう
事を狙っていた。
22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、樺太か
らの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。う
ち2隻は雷撃により沈没。1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃によ
り船尾を破壊されたが、浮上した潜水艦と砲撃を交わして、な
んとか留萌港にたどり着いた。この攻撃により民間人約170
0名の死者が出た。
22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北
海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は
「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海
道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止す
る」という電報を打った。
22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書
の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つか
ずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であっ
た。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島
の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえ
ない状況に追い込まれたのである。
■9.樺太、千島の占領完了■
24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
れにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。
■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■
樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、民間人
約3700名の命が奪われた。このほとんどが8月15日の終
戦以降のソ連軍侵攻によるものである。さらに捕虜にされた樺
太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は本土に帰ると騙
されて、シベリアなどに送られた。
スターリンは14日の時点では捕虜のソ連領移送は行わない
と言っていたのだが、北海道占領を断念したとトルーマンに回
答した21日の翌日、日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極
秘命令を出している。ロシアの研究者の多くが、これは北海道
占領断念の代償だったとしている。
もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海
道北部はソ連に占領されていた可能性がある。そうであれば満
州や樺太で起きた民間人虐殺が北海道でも繰り返されただろう。
そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように共産主義独裁
政権が支配していたであろう。樺太と千島の防衛に一命を捧げ
た日本軍将兵3700人と、その後のシベリア抑留に苦しんだ
約7万の将兵に心からの追悼と感謝を意を捧げたい。
(文責:伊勢雅臣)
「霧の火~北の大地・樺太に散った九人の乙女たち」公式サイト
http://www.ntv.co.jp/kyu-otome/
これは、いったい何のドラマかと言うと、大東亜戦争で日本が敗色濃厚になった時、火事場泥棒的に北海道まで侵略しようとした、極悪鬼畜ソ連軍と、敗戦後も戦い続け、なんとか日本を守ってくれた日本人達のお話である。
主役は、樺太の真岡にある郵便局の交換台に、ソ連軍が侵略してくるぎりぎりまで残り、通信を確保し続け、最終的に全員青酸カリで自害するという9名の女性。
俺はこのドラマは見ていないものの、だいたいの史実は知っている。
最後、この9名は、ソ連兵に蹂躙される事なく自害を遂げているのだが、どうやらドラマでは蹂躙されてしまうようだ。その点を除き、概ね史実に忠実なドラマだった模様。
この話を独学で勉強した時、当時のソ連人っつーのはなんてえげつない連中なんだろうかと憤慨したものだ…。
独学というのがミソだ。
俺は無論、これを学校で習ったわけではない。
まあ、必要以上に憎しみを植えつけるのは確かによくはないのかもしれないが、こーゆー話こそ、俺は学校で勉強したかった。こーゆーのが実に「日本史」には必要なのだと思っている。
この話は、8/15にエントリした「敗戦の日に思ふ」でも触れたように、8/15で戦争は終わったわけではないという史実の、1つの根拠として、俺の中で根付いている。
敗戦の日に思ふ
http://blog.goo.ne.jp/jpakiyo/e/17fb4643aae31f37e25f6b78add006fe
で、俺はもっと広く、このソ連の非道と、勇敢な日本人について、みんなに知って欲しいと思っている。本とかは敷居が高い。気軽に読めるネットの記事はないものかと、以前からずっと探していたら…。
「国際派日本人養成講座」というメーリングリストがあった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_index_frame.htm
いや、膨大な量の日本史の資料に感動した。
すごい読める資料だった。
以下、ソ連軍南下あたりの資料を全文引用しようと思う。
もともと、2ちゃんでも全文引用されているし、ま、いいかなぁと。もし問題があれば削除するという方向で。
感動した。これ読んで、まだ日本には軍隊不要とか言う人は俺とは多分相容れない。
(引用開始)
■1.北海道北半分をソ連に■
1946(昭和21)年8月16日、終戦の日の翌日、スターリン
は米大統領トルーマンに対して、釧路市と留萌市を結ぶ線以北
の北海道の北半分に対して、ソ連側の占領を認めるよう要求を
送った。
同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められて
いたが、これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのがス
ターリンの新たな要求だった。樺太、千島列島、北海道北半分
をソ連圏内に収めてしまえば、オホーツク海はソ連の内海とな
り、太平洋への出口も自由になる。
このスターリンの野望により、終戦後も激しい日ソ間の戦い
が樺太と千島で展開されることになった。
■2.樺太国境での激戦■
終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11
時、ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、その一
時間後に攻撃を開始した。翌46年4月まで有効であった日本
との中立条約を一方的に破棄し、さらにソ連に和平仲介を依頼
していた日本政府に対して、宣戦が布告されたのである。樺太
でも早速9日朝から、国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、
小部隊の越境偵察が始まった。
樺太はもともと日露混住の地であったが、明治8(1875)年の
樺太・千島交換条約により、樺太はすべてロシア領、千島列島
はすべてが日本領となった。明治38(1905)年の日露戦争の勝
利の結果、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された[a]。
南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、終戦時の人口は季節労
働者を含めて約40万人であった。
南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。戦車95両、
航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、国境近くの小集落・
半田を攻撃し始めた。ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約
100名の兵力が防戦し、大半が戦死したが、ソ連軍主力を一
昼夜にわたって食い止めて、ソ連軍には大きな衝撃を、日本全
軍には異様な感激を与えた。
半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの日本軍
の主防御地帯への攻撃を開始したが、日本の歩兵第125連隊
約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地にこもって頑強な抵
抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。その間に老幼婦
女子を列車で南に避難させ、なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破
して、自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。
15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇の終戦に関する
「玉音放送」が行われた。国境沿いで戦闘中のため連絡のとれ
ない第125連隊にも、18日にようやく戦闘停止の師団命令
が伝達され、連隊は武器をソ連軍に引き渡した。これまでの戦
闘による被害は日本側死者568名、ソ連側死者約1千名、戦
車数十両破壊と推定されている。
日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請し
たが、ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。
■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■
日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、アメリカは即
座に全軍に戦闘停止命令を発したが、極東ソ連軍総司令官ワシ
レフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、および、千島列島北部
の占領を命令した。樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実で
ある。さらに継戦の必要があった。
千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、第91師団を中心
に、約2万5千が防備に当たっていた。カムチャッカ半島南端
とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、ソ連極東から太平洋へ
の出口を扼する戦略拠点であった。
ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8
千3百余名で、18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上
陸を図った。まだ薄暗く霧深かったが、霧中射撃の訓練も十分
に積んでいた海岸配備部隊は、即座に敵を発見し、野砲、速射
砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。
撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、3千
人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。
しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試み
た。この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返さ
れた。
■4.ソ連の悲しみの日■
堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。
しかし、それを知った方面軍参謀長から、18日16時までに
戦闘行動停止の命令が来た。日本軍は軍使の長島大尉一行をソ
連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、長島大尉も単身敵
中に潜入して行方が分からなくなった。日本側が反撃行動を停
止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。
19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始ま
った。何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の
調印が行われた。一日で占守島全島を占領し、急いで千島列島
を南下しようというソ連軍の計画は、日本軍の抵抗により大き
く狂ってしまった。
ソ連側の記録によると、日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側
は1,567名であった。イズヴェスチャ紙は「占守島の戦いは、
満洲、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8
月19日はソ連の悲しみの日である」と述べてた。激戦の行わ
れた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。
■5.真岡への侵攻■
北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、樺
太の南西岸にあり、3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港
をもっているため、ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使
用兵力を大陸から送り込むための中継基地として考えていた。
真岡はもともと人口2万の町であったが、16日夕から本土
への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航して
いたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。
真岡への攻撃は20日早朝に始まった。数隻の大型軍艦が町
中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる
人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけ
た。引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が
降り注いだ。厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名と
している。
■6.さようなら、これが最後です。■
この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局
に残って、通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。9
人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に
渡って、市街の惨状を報告し続けた。今も詩吟「氷雪の門」で
伝えられる最後の放送は次のようであった。
内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。これが
樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。私
たち9人は最後まで、この交換台を守りました。そして間
もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。内地の皆さ
ん、さようなら、さようなら、、、
9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚
内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳
皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残さ
れた。
樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる
からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのる
ぬる
■7.真岡近郊での戦闘■
真岡に付近にいた配属部隊は、すでに16日に終戦に関する
師団命令を受けて、真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、一
部の兵の召集解除を始めていた所であった。残っていた人数は
3~4百名程度と推定される。
ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派
遣したが、一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指
示に従って、武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射さ
れ、ほとんど全員が射殺された。
21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。その豊原
は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。
豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、日
本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。
近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続
けた。その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。豊原
駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲
げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、
爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に
100人以上の死者が出た。
■8.スターリン、北海道侵攻を断念■
トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返
事が18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレ
フスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部
諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を
占領するよう命令を出した。
占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が
20日早朝と、ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、8月2
8日に予定されていた降伏文書正式調印(実際には9月2日に
延期された)までに、北海道北部占領を既成事実化してしまう
事を狙っていた。
22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、樺太か
らの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。う
ち2隻は雷撃により沈没。1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃によ
り船尾を破壊されたが、浮上した潜水艦と砲撃を交わして、な
んとか留萌港にたどり着いた。この攻撃により民間人約170
0名の死者が出た。
22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北
海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は
「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海
道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止す
る」という電報を打った。
22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書
の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つか
ずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であっ
た。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島
の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえ
ない状況に追い込まれたのである。
■9.樺太、千島の占領完了■
24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
れにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。
■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■
樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、民間人
約3700名の命が奪われた。このほとんどが8月15日の終
戦以降のソ連軍侵攻によるものである。さらに捕虜にされた樺
太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は本土に帰ると騙
されて、シベリアなどに送られた。
スターリンは14日の時点では捕虜のソ連領移送は行わない
と言っていたのだが、北海道占領を断念したとトルーマンに回
答した21日の翌日、日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極
秘命令を出している。ロシアの研究者の多くが、これは北海道
占領断念の代償だったとしている。
もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、北海
道北部はソ連に占領されていた可能性がある。そうであれば満
州や樺太で起きた民間人虐殺が北海道でも繰り返されただろう。
そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように共産主義独裁
政権が支配していたであろう。樺太と千島の防衛に一命を捧げ
た日本軍将兵3700人と、その後のシベリア抑留に苦しんだ
約7万の将兵に心からの追悼と感謝を意を捧げたい。
(文責:伊勢雅臣)