大槌孫八郎、伝えられる大槌城主、孫八郎は資料や伝承によれば3人確認できるが、孫八郎に関しては天正19年の九戸の陣、そして慶長5年の岩崎の陣に大槌孫八郎が南部方として参陣していた内容が確認できる。
○孫八郎家政
大槌系図に出てくる孫八郎家政、どのような事績があったのかは不明であり、次の孫八郎広信までの歴代が不明でもある。
系図には家政の三男とされる治郎介時成が気仙郡菊田庄の菊池氏の養子となり天正18年に流浪して遠野に至り、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕えて在名から畑中氏を名乗ったと伝えられるのみである。
畑中氏の遠野登場は天正末期、系図に記される天正18年は、大方の年代等が符号していると思われ、畑中時成の実父とされる孫八郎家政は、さほど年代の古い人物でないことが伺われ、次の孫八郎広信との歴代があったとしても一代程度か?若しくは孫八郎広信は家政の子の世代とも推測できる。
さて、小生が思い描く、ほとんど根拠も説明できないながらも、妄想含みの系図を描いてみましたので、ご参照願います。

○大槌孫八郎広信(広紹)
孫八郎広信
資料等に登場する孫八郎のひとりであり、天正19年(1591)の九戸一揆に南部信直方として参陣、大槌孫八郎8百石60人と記されている。
遠野での資料には、遠野盟主である阿曽沼広郷が九戸の乱に参陣叶わず、嫡子の広長を名代として大槌孫八郎と共に参陣したかのような記述があり、大槌孫八郎は遠野の一族或いはある程度の勢力を持つ家臣的立場であったかのような印象でもある。
孫八郎家政→広信→政貞・・・・家政と政貞は政の字を持つ当主であるが、何故に広信、そして広信の弟広重(子とも伝えられる)は広の字なのか?
確信は無きに等しいながらも、広信は大槌の家督を継承する頃に何かしら遠野阿曽沼氏の強い影響を受けた或いは遠野から送り込まれた阿曽沼支族だったのではないのか?そしてこのことは、大槌が遠野郷の一部であり、遠野阿曽沼領であるがの如く語られる何かが隠されているのではないのかと思えてならない。
天正年中に名を残す阿曽沼広郷、広郷はその武威が四隣に鳴り響きは、遠野での専制君主時代到来の最初であったとも考察され、この時代に大槌氏もその支配下に一応置かれたのではないのか・・・・?
この時の産物が広信であり、本来の大槌嫡家に代って当主の座に付き孫八郎を名乗ったのではないのか・・・・推察しております。
慶長5年での遠野の政変で遠野盟主の座を追われ、気仙郡世田米に亡命した阿曽沼広長が伊達政宗の後援を受けて気仙勢を以て遠野奪還の戦いを挑むに当たって孫八郎広信は阿曽沼広長支援の立場であったと伝えられ、その最後は、南部勢、遠野勢、閉伊勢に大槌城は四面楚歌の状態に陥りかけ、広信は伊達家領の気仙郡内へ亡命して落命とも語られますが、その真相は不明ながらも、大槌城主の座を明け渡しての行動があったものと想像がされます。
○大槌孫八郎政貞
孫八郎政貞
一説には広信の嫡子ともいわれるようですが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの余波で東北地方も戦乱となり、当南部地方でも和賀、稗貫氏の旧臣等による一揆が勃発、稗貫、和賀郡内各地で戦いが繰り広げられるが、この時の岩崎の陣に南部利直勢に加わった武将に大槌孫八郎の名がみえる。
孫八郎広信が反南部家、親伊達家という立場が語られる中にあって、何故に南部勢に大槌氏の名が記されているのか・・・・。
信濃守利直公御岩崎御出陣人数定・・・慶長6年・・・聞老遺事
七番 遊軍一手 八戸弾正備 士大将一騎 一万五千石
八戸弾正 此下三百廿人
相備士大将一騎 二千石 大湯五兵衛 此下四十六人 内馬上三騎
同 八百石 大槌孫八郎 此下百六十一人 内馬上三十騎
遊軍の八戸弾正とは八戸直政(遠野南部家清心尼の夫で八戸根城城主)
8百石余りの大槌孫八郎の率いた161人は、驚愕の数値であり、また200石当りの馬上の武士が一騎であるのが通例であるが30騎とはこれもまたかなり多い数値である。
これは大槌のみならず、閉伊郡内の地侍や土豪も引率しての参陣と解釈されている。
さらに、岩崎の戦いが終わるとそのまま南部利直により岩崎城に留め置かれ、岩崎城代4名の一人として名を留めている。
慶長5年から慶長7年、二人の孫八郎が居たことになりますが、ひとりは大槌城主の広信、もう一人は南部方に加勢した孫八郎、すなわちこちらは政貞ということになります。
広信による関ヶ原の戦いにおける真田昌幸父子のような双方に組することによるお家継続を図ったものなのか、それとも「遠野菊池党・入内島一崇氏 著」でいうように、大槌城に居たままの広信に対し、南部利直は政貞との当主交代で大槌城攻めを行わず、平和的に解決といった内容であったのか、いずれ史実では広信は大槌城を出て、孫八郎政貞が大槌城主となっている。
その後の大槌氏は南部利直より3千石を給され、石高以上に海産物の取引でも潤い、繁栄したとも伝えられますが、南部家の策謀と多く語られますが、元和3年、孫八郎政貞は罪あって切腹、大槌家は絶家となる。
南部家により謀殺ともいわれる。
大槌城跡からみた大槌湾

孫八郎広信と政貞は父子とも解されますが、その関係は不明とする見解もある。
政貞は孫八郎家政系嫡家の子孫という思いもありますが、広信、政貞が反目していた形跡の印象は感じられなく、その関係がよく理解できない内容でもありますが、遠野阿曽沼氏同様、謎の部分が多いといったことで、今後の探究に努めれたらと思っております。
○孫八郎家政
大槌系図に出てくる孫八郎家政、どのような事績があったのかは不明であり、次の孫八郎広信までの歴代が不明でもある。
系図には家政の三男とされる治郎介時成が気仙郡菊田庄の菊池氏の養子となり天正18年に流浪して遠野に至り、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕えて在名から畑中氏を名乗ったと伝えられるのみである。
畑中氏の遠野登場は天正末期、系図に記される天正18年は、大方の年代等が符号していると思われ、畑中時成の実父とされる孫八郎家政は、さほど年代の古い人物でないことが伺われ、次の孫八郎広信との歴代があったとしても一代程度か?若しくは孫八郎広信は家政の子の世代とも推測できる。
さて、小生が思い描く、ほとんど根拠も説明できないながらも、妄想含みの系図を描いてみましたので、ご参照願います。

○大槌孫八郎広信(広紹)
孫八郎広信
資料等に登場する孫八郎のひとりであり、天正19年(1591)の九戸一揆に南部信直方として参陣、大槌孫八郎8百石60人と記されている。
遠野での資料には、遠野盟主である阿曽沼広郷が九戸の乱に参陣叶わず、嫡子の広長を名代として大槌孫八郎と共に参陣したかのような記述があり、大槌孫八郎は遠野の一族或いはある程度の勢力を持つ家臣的立場であったかのような印象でもある。
孫八郎家政→広信→政貞・・・・家政と政貞は政の字を持つ当主であるが、何故に広信、そして広信の弟広重(子とも伝えられる)は広の字なのか?
確信は無きに等しいながらも、広信は大槌の家督を継承する頃に何かしら遠野阿曽沼氏の強い影響を受けた或いは遠野から送り込まれた阿曽沼支族だったのではないのか?そしてこのことは、大槌が遠野郷の一部であり、遠野阿曽沼領であるがの如く語られる何かが隠されているのではないのかと思えてならない。
天正年中に名を残す阿曽沼広郷、広郷はその武威が四隣に鳴り響きは、遠野での専制君主時代到来の最初であったとも考察され、この時代に大槌氏もその支配下に一応置かれたのではないのか・・・・?
この時の産物が広信であり、本来の大槌嫡家に代って当主の座に付き孫八郎を名乗ったのではないのか・・・・推察しております。
慶長5年での遠野の政変で遠野盟主の座を追われ、気仙郡世田米に亡命した阿曽沼広長が伊達政宗の後援を受けて気仙勢を以て遠野奪還の戦いを挑むに当たって孫八郎広信は阿曽沼広長支援の立場であったと伝えられ、その最後は、南部勢、遠野勢、閉伊勢に大槌城は四面楚歌の状態に陥りかけ、広信は伊達家領の気仙郡内へ亡命して落命とも語られますが、その真相は不明ながらも、大槌城主の座を明け渡しての行動があったものと想像がされます。
○大槌孫八郎政貞
孫八郎政貞
一説には広信の嫡子ともいわれるようですが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの余波で東北地方も戦乱となり、当南部地方でも和賀、稗貫氏の旧臣等による一揆が勃発、稗貫、和賀郡内各地で戦いが繰り広げられるが、この時の岩崎の陣に南部利直勢に加わった武将に大槌孫八郎の名がみえる。
孫八郎広信が反南部家、親伊達家という立場が語られる中にあって、何故に南部勢に大槌氏の名が記されているのか・・・・。
信濃守利直公御岩崎御出陣人数定・・・慶長6年・・・聞老遺事
七番 遊軍一手 八戸弾正備 士大将一騎 一万五千石
八戸弾正 此下三百廿人
相備士大将一騎 二千石 大湯五兵衛 此下四十六人 内馬上三騎
同 八百石 大槌孫八郎 此下百六十一人 内馬上三十騎
遊軍の八戸弾正とは八戸直政(遠野南部家清心尼の夫で八戸根城城主)
8百石余りの大槌孫八郎の率いた161人は、驚愕の数値であり、また200石当りの馬上の武士が一騎であるのが通例であるが30騎とはこれもまたかなり多い数値である。
これは大槌のみならず、閉伊郡内の地侍や土豪も引率しての参陣と解釈されている。
さらに、岩崎の戦いが終わるとそのまま南部利直により岩崎城に留め置かれ、岩崎城代4名の一人として名を留めている。
慶長5年から慶長7年、二人の孫八郎が居たことになりますが、ひとりは大槌城主の広信、もう一人は南部方に加勢した孫八郎、すなわちこちらは政貞ということになります。
広信による関ヶ原の戦いにおける真田昌幸父子のような双方に組することによるお家継続を図ったものなのか、それとも「遠野菊池党・入内島一崇氏 著」でいうように、大槌城に居たままの広信に対し、南部利直は政貞との当主交代で大槌城攻めを行わず、平和的に解決といった内容であったのか、いずれ史実では広信は大槌城を出て、孫八郎政貞が大槌城主となっている。
その後の大槌氏は南部利直より3千石を給され、石高以上に海産物の取引でも潤い、繁栄したとも伝えられますが、南部家の策謀と多く語られますが、元和3年、孫八郎政貞は罪あって切腹、大槌家は絶家となる。
南部家により謀殺ともいわれる。
大槌城跡からみた大槌湾

孫八郎広信と政貞は父子とも解されますが、その関係は不明とする見解もある。
政貞は孫八郎家政系嫡家の子孫という思いもありますが、広信、政貞が反目していた形跡の印象は感じられなく、その関係がよく理解できない内容でもありますが、遠野阿曽沼氏同様、謎の部分が多いといったことで、今後の探究に努めれたらと思っております。