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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

友好都市(菊池市・西米良村)交流事業実行委員会

2014-11-06 19:21:02 | 菊池氏

 平成26年度 遠野市友好都市交流事業派遣団員

遠野市民の熊本県菊池市・宮崎県西米良村交流事業実行委員会

 

7月末の遠野菊池の会総会の席で来賓でもある市当局の課長さんから概要について説明があり、11月末から12月初めの3泊4日の行程で当市と友好都市である熊本県菊池市と宮崎県西米良村への訪問団として遠野菊池の会を主体に計画しておりますが、ご参加をご検討をお願いします・・・みたいなお話しを受けておりました。

その席上で吾輩の参加は強制のような感じで決められましたが、菊池市へはもう1回くらいは機会があったら訪ねてみたいという思いがありましたので、断るでもなく行くつもりではおりました。

 

実は平成15年秋に個人的に職場の同僚とふたりで菊池市を訪ねたことがあり、その際は自分的にはルーツを求めて・・・というテーマに沿って歩いて来たことがありました。

個人的な旅行にも関わらず、ネット関連で知り合った方々のご助力によって現地の方に菊池市内はもちろん菊池一族に関わりある地をご案内いただき、さらに夜の部まで・・・

道行く菊池市の皆さんに「遠野市から来た皆さんです」と紹介されると、各地で心温まる声掛けを受け、好印象でもありました。

また、菊池第15代の菊池武光公の騎馬像がある物産館等のリニューアル式典に連れて行かれ、市議会議長さんや地元選出?の県議会議員さんと並んで前に座らされ、しかも挨拶までお願いされ、皆さんスーツ姿の中でジーンズにポロシャツ、スニーカー姿で凄く恐縮し・・・

ほんと浮いた恰好・・・

(-_-;)

再三にわたって挨拶の固辞をお願いするも結局、しゃべらなければならず、もう何を言ったのか?おそらくしどろもどろだったはず・・・

(;´・ω・)

大恥をかきながらも、それでも色々と勉強になりましたし、良い所という印象も残った菊池市の旅でもありました。

菊池武光公の墓

 

当時の写真のほとんどは、その頃に「松崎じぇんごⅡ」というホームページを開設していて、その際に縮小とかしてほとんど加工してしまって原画が無いという状況で、なんとか上の歴代公のひとり武光公の墓所の写真が見られる程度です。

 

 

ということで・・・

今年度の訪問団は結局は遠野菊池の会から吾輩含みの5名、特別参加として、みちのく菊池の会(市外)から2名、そして「遠野ときめら会」6名、事務局2名の15名の一行ということです。

 

平成24年度から参加公募方式からテーマに沿った訪問団としているとかで24年度は産直関係者、25年度は郷土芸能での神楽団体で、今年度は菊池一族がテーマとのこと。

 

菊池一族に関するシンポジウム参加がメイン・・・

無論、菊池市や西米良村との交流も・・・

有名作家による講演も・・・

 

当初、パネラーとして参加か?そんなことも囁かれてましたが、パネリストはそうそうたるメンバー・・・

先月に入った辺りから実は怖気づいておりました・・・(-_-;)

ここでは当市代表は会の会長が務めるのが順当なところで内心ほっとしているところです。

それと学術的な菊池一族のシンポジウムは熊本県主催で既に歴史分野の先生方主体で終わっているそうで、今回は歴史交流シンポジウムという内容で歴史的な話が重点ではなく交流等を主体とした内容とのこと・・・

 

いずれ、大役からは逃れることができましたが、友好都市の文化や自然、人々に触れ視野を広めてより充実した研修としたいと思っております。

自分なりのルーツを求めるをサブテーマに遠野の菊池姓及び遠野を見つめなおす機会にしたいと思います。

 

出発1週間前に出発式があるそうなので、その際に第2弾として友好都市との関係等も少し記してみたいと思います。

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遠野菊池の会 総会2014

2014-07-31 21:54:29 | 菊池氏

 昨年も、さらに遠野菊池関連の過去記事には・・・

遠野の菊池姓は馬の糞・・・

それほど多いとされる遠野の菊池さん

そんな菊池さんの集まり・・・「遠野菊池の会総会」がこのほど開催されました。

遠野市約10,000世帯のうち、約2,000世帯が菊池姓・・・

尋常な数ではない・・・

遠野市内の地域にもよるけど、ほぼ全域にまんべんなく菊池さんは居て、吾輩の周囲からすれば小学校の同級生15名に対し菊池姓は6名・・・

中学のクラスでは40名?のうち、15名前後は菊池姓だったはず・・・

無論、高校でも同じような感じ・・・(;'∀')

 

そういう環境の遠野ですが、平成10年か11年頃、遠野を会場に全国の菊池さんが集う、菊池の会総会が開催され、遠野でも俄かに遠野菊池の会が発足ということだったらしいです。

当初の会員は80名とも70名とも云われますが、今現在は42名となっている。

会員の高齢化も進み、存続も危ぶまれてはおりますが、毎年、きちんと総会をし、少ないですが事業もこなし、なんとか存続というところです。

 

会員各位、若い世代を主に会員募集も随時行うも、なかなか集まらず・・・

(-_-;)

最年少は未だ吾輩で役員改選の今年もそのまま留任となりました。

もちろん役員全員留任でこれから3年間頑張ることに・・・

 

遠野市在の菊池さんばかりではなく市外或は県外で暮らす遠野出身または関連の菊池姓の方の加入も歓迎ですので是非にご参加ください。

特典は特にないですがルーツに関すること、同姓との集いということで興味ある方は重ねてご参加をお願いします。

会費もたいした金額ではありません・・・

(年2,000円です)

 

滞りなく総会も終了・・・

 

 

今年は遠野菊池の会メインの遠野市民ツアーが組まれるとのこと・・・

菊池姓縁で友好都市の熊本県菊池市及び宮崎県西米良村の訪問ツアー

今年のテーマは「菊池一族」とのこと

併せて菊池一族のシンポジウムも開催ということらしい

 

どうやら吾輩が遠野市代表のパネリストとなり何やら発表というか遠野の菊池姓に関してプレゼンを行う羽目になりそうな・・・(;'∀')

行く行かない以前に既に机上で決められた雰囲気・・・

ステージ上で数百人の前での発表・・・

果たしてできるのか、もちろん否定というかまんざらでもないのが本音ですし、言いたいことも結構ありますが・・・

口下手であがり症、さらに言語障害の気があるので自信は限りなく低いですがね・・・

でもこの機会に菊池市や西米良に行ってみたい気は確かにあります。

菊池市を訪ねてから早10年になろうとしてますし・・・

いずれ遠野菊池の会から10名の要請・・・

これから調整になります。

 

本田遠野市長さんはじめ、みちのく菊池の会(花巻市)からも代表の方が参加、総会は盛大に行われました・・・。

 

 

平日開催、翌日も勤務なので、中締めをした後に退散・・・。

 

おっ家内さまを呼んで帰宅の途に・・・

 

遠野菊池関連過去記事

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/aa79394130a0d2a780fc2541ea113fe5

 

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/01e7a700ce1702041e6e860ca6e64aa1

 

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/a093ff073bf8b6ea6c0248bf0bd3045d

 

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/a83ee5ef66056e055c74a3ced0364265

 

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/ee4c87dd237c64c8a4827e5c06dc2ce9

 

http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/d92df3176842305ca5e6381c7fc2dfad

 

 

 

 

 

途中で・・・

軽く口直し

ごちそうさまでした。

 

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2013 遠野菊池の会 総会

2013-07-30 19:58:46 | 菊池氏

ちょっとだけ久しぶりの街飲み 

 

夕方の遠野駅付近

 

いつしか駅前東側にあった農協ビルは3階建施設に改修され、駅周りも様変わりという昨今・・・

ということで・・・

 

今月中旬に行われた役員会につづいて、月末の某日、「遠野菊池の会」2013年(平成25年度)総会が開催されました。

 

会場は、当会御用達のお店にて・・・

 

 

平成11年(1999)結成

平成11年秋、全国菊池の会が遠野市を会場に開催されるにあたり、遠野菊池の会が結成発足したそうで、当初は80名近い会員を有し、ルーツを探求する勉強会や他団体との交流、菊池姓発祥の地とされる熊本県菊池市との交流等に参加と活動も活発だったとのことですが年々会員も減り、今は高齢化?(謝)が進み、45名程度会員数となっております。

会員では最年少の小生、先輩会員の皆さんからは「わげもの(若者)」と言われますが、それでも老眼をかけ◎風に苦しむいい歳したオヤジなんですが、先輩の皆様から見れば若いんでしょうね・・・(ーー;)

求む遠野の菊池さん・・・できれば若者の菊池さん・・・(ーー;)

このままでは20年・・・いやっ、10年で活動休止に追い込まれるかも??

と、存続も危惧されるところですが、それでもまだまだ皆さん健在で、今年もこうして総会が出来るような事業もこなし、活動も継続というところです。

 

さて・・・

総会後、懇親会前に恒例の講演会ということで今年は全国菊池の会の役員をされている東京都在住の渋谷氏をお迎えしまして、菊池一族と遠野との関係を主にご講演いただきました。

 

 

各地の菊池関連の古文書、系図等を基に色々とご教授いただき、さらに肥後(熊本)の菊池氏は藤原氏と伝えられていたが、その説をさらに印象づける見解をお聴きすることができましたし、久々にその道の研究者のお話を直にお聴きしたということでたいへん有意義でもありました。

 

素晴らしいご講演内容ながら総会に参加の会員が少なかったこと、ほんともったいないというか残念という気持ちでもありました。

 

講演の後は懇親会

遠野市長さんをはじめ、みちのく菊池の会の役員の方々のご参加もあり、話題も豊富に飛び交い、短い時間でしたがこちらも有意義に過ごすことが出来ました。

 

この後、会長さんとご講演いただいた渋谷さんと3人で二次会というか飲み直し・・・

(ーー;)

個人的に知らなかった菊池一族の事柄についてご教授いただいて、こちらでも有意義でありました。

さらに、最初にご挨拶した際に、即、当ブログの存在を口にされ、遠野関連の菊池氏に関して既読していたとの内容や時折、遠野話題も含みブログを観られているとのことで恐縮という場面でもあり、正直、嬉しくもありました。

心地良い酔となった晩となりました。

 

 

 

PC傍に陣取り、なかなか開くことができず・・・(ーー;)

 

 

マウス?

足でネズミを捕まえているつもりなのか?・・・笑

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遠野菊池の会総会2012

2012-07-13 16:08:45 | 菊池氏

 遠野市の世帯数の約2割強が菊池姓・・・!

そんな遠野の菊池さんの集い「遠野菊池の会」総会が、このほど開催されました。

 

不肖、私は会員のおそらく最年少・・・汗・・・ですが、会計の任に昨年から就いておりますが、今年の総会は当直日でしたが、会計報告やら会費の徴収に管理、そして賄い等への支払い、さらには僭越ですが総会後の講演を依頼されてましたので、時間休で対応して参りました。

 

 

 

結成当時(平成11年)は会員数70名を数えていたということですが、今現在は47名、平均年齢も70歳前後?高齢化が進んではおりますがけっこう活動的な会運営がされていて、まだまだ健在でもあります。

 

熊本県菊池市や宮崎県西米良村との交流も含み、遠野菊池の会は、これらに欠くことのできない存在でもあるようです。

 

時間休なのでアルコールはダメ・・・涙

 

会費分はしっかりといただきました・・・笑

 

でっ・・・

 

諸先輩方、さらには郷土史に詳しい会員もおられる中ですが、菊池一族に関する私の今までの研究、調査の一部で何か講演いただきたいと早くから依頼されており、いつまでも逃げるわけにもいかず、今回、話下手ながら少し語って参りました。

 

遠野の城館跡から遠野での菊池一族を探る内容といたしました・・・汗

 

皆さん、全員菊池姓ということで、真剣に聴いていただき、たいへんありがたかったです。

ありがとうございました・・・。

 

 

(取材を受けるT会長)

 

河北新報の記者さんも取材に訪れ、来賓は「みちのく菊池の会」の幹部の方と「本田遠野市長」ということで会も大いに盛り上がりましたが、私は講演の後、少し懇親会に顔を出した後、仕事に戻りました。

 

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遠野菊池の会・2011

2011-07-29 16:43:31 | 菊池氏

 我家、そして隣接の菩提寺、福泉寺の境内は、山百合が最盛期を迎えております。

 

我家の鈴なり山百合

 

福泉寺境内は至るところに山百合が咲き乱れ、蝉の大合唱と共に今時期、夏の風物詩的な景色となっている。

 

終盤となっている紫陽花とのコラボ

 

 

さて、本題ですが・・・。

 

 「平成23年度(2011) 遠野菊池の会総会」が、このほど開催され、2年ぶりとなりますが、出席いたしました。

 

 遠野において、何かの催し物で、群衆に向かって小石でも投げれば、菊池さんの誰がに当たると言われるほど、菊池姓が繁華な土地で、約1万世帯の内、2千世帯は菊池姓のお宅となっております。

 そんなことから菊池姓縁の地とも語られますが、熊本県菊池市とは菊池一族つながりで友好都市となっておりますが、遠野菊池の会の発足は平成11年(1999)で、花巻では「みちのく菊池の会」、奥州市江刺区では「江刺菊池の会」と岩手県において菊池姓が繁華な地域を主に会が結成されております。

 遠野においては会員50名ほど、当初は熊本県菊池市や宮崎県西米良村といった縁の地域との交流も盛んになりかけた頃で、その活動も活発化していたようでもありますが、今は会員が減少傾向、みちのく菊池の会に至っては、活動休止中なのかホームページが10数年間更新された形跡がないといいますか、形としての活動はみえていない。

 遠野においては、活動はそれなりに継続という感じですが、新会員の加入がほとんどなく、会員の高齢化と、なんといっても最年少会員が私ということで、これでは10年後には、消滅か縮小といったことが危惧される・・・汗

 私の場合は、郷土史に興味があって、その過程において自分の姓「菊池」のルーツを探る手立てとして遠野菊池の会に入会したのですが、最初は、遠野政治経済会で名を刻む地元の名士の方々が籍を置く、遠野菊池の会は敷居が高く、その関わりを敬遠していたほどでした。

 まっ、入ってみれば、さほど堅苦しくもなく、そこは皆、菊池姓、ルーツの何処かで繋がっているという思いがあるのか、意外と普通な集まりでもあります。

 会員が減少傾向、遠野の菊池姓の皆さんの入会をよろしくお願いします。

 

 遠野の菊池氏に関しての歴史関連は当ブログ右上の検索バーにて「遠野の菊池」とうって、ウエブ欄で、このブログ内で・・・とすれば菊池氏関連の過去記事が出て来ますので、ご参照ください。

 

 総会での定番、「事業報告、決算報告」に「事業計画案、予算案」 に関して承認をいただくと、懇親会のはじまり・・・。

今回は、約20名の参加。

来賓としては遠野市副市長様と花巻のみちのく菊池の会、幹事長様。

 

 

大雨警報ということで・・・

終始、↑これで・・・

 

若輩者ながら先輩の皆さまより早めに退散となりました・・・

 

 

  数日前から仮話程度に事務局の方から役員改選につき、事務局入りを打診されておりまして、案の定、会計担当になってしまいました。

 前任者は職場の元上司ですが、会の発足当初から会計の任だったとかで、なんとか解放させてほしいとのこと、最年少なので、こういった役回りは仕方なしと云うことでお受けすることにしました・・・

  いずれ高齢化が進む会ですので、同年代か若い年代の菊池さんの入会をお待ちしております。

 

山百合も一気に最盛期となって終盤に突入・・・。

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橋野菊池一族

2009-12-03 18:24:28 | 菊池氏

 まずは、タイトルの内容に関しましては、その記述はほとんど根拠が薄く、参考図書、資料を見ての内容ではなく、ほとんど小生の推測によるものであることを予めお含みおき願います。

 

 さて、天気予報ではお昼頃から雨との予報、今にも泣き出しそうな空模様ながら、どうしても探訪したい館跡があり、午前中勝負ということで釜石市橋野を目指して自宅を出発しました。

 今回は最短距離の笛吹峠越え・・・・

 やはり立丸峠同様、真冬の峠越えは危険、積雪前にということですが・・・・

 そういえば小生がかなり若い頃、職場の先輩が雪道の笛吹峠から谷底に車ごと転落したことをいつも通る度に思い出す・・・・。

 常人なら絶対助からない程の高さ、しかしその先輩は身体中骨折しながらも急斜面を這い上がって来て、軌跡の生還を果たしたタフガイであったこと、そして今もなお、谷底に車がそのまま残っていること・・・必ず思いだしてしまう・・・汗

 

 ということで、今回の目的地は橋野の「橋野館跡」・・・・

 その昔、大槌氏の家臣、橋野氏が居たという館跡ですが・・・・まずは麓の林宗寺の駐車場で長靴を履いてヘルメット装着、お寺さんの画像を撮って、いよいよ裏山へ入ろうとすると、大粒の雨が降ってきた・・・・汗

 

 林宗寺・・・釜石市橋野町中村

 これでは探訪にならない、即決断して館跡探訪は中止とする。

 隣接山野に義経北行伝説の地、中村判官堂があって、二度程訪れたことがあった。

 その際に隣のお寺さん側山野に館跡らしい地形を確認しており、その後、調べると橋野館跡と判明して、いつかは探訪と思っておりました。

 雪が積らなければ今月中に・・・ダメなら来春ですかね。

 

鶏石山林宗寺(曹洞宗)

 以前から知っておりましたが、遠野上郷の曹源寺の末寺である。

 慶長2年(1597)曹源寺の旦室俊朔和尚による開基と伝えられる。

 当初は現在の地より鵜住居側へ少し行った早栃というところに創建と伝えられる。

 現在の地へは著名である牧庵鞭牛和尚により寛延7年(1794)に移されたとある。

 

 ここで、ピンと来たのは、上郷曹源寺は大檀那を板沢館主の板沢氏であること、そういえば釜石には板沢姓の方々が案外多いという印象があって、阿曽沼氏が没落した後、板沢氏の一族や家臣達は釜石の橋野に来たのではないのか?或いは遠野南部家臣にも板沢氏が居たので明治になって釜石へ移ったのか?・・・なんて考えたりしまして、その後、大槌町の図書館に行って何故か釜石市関連の郷土史やら民俗の書籍を調べる・・・と著名な人物では「板沢武雄博士」についての記述を発見・・・国史学者、東京帝国大教授と凄い先生ですが、旧制遠野中学、今の遠野高校卒・・・でも生まれは釜石の中妻、観音寺ということで橋野とは関係ない雰囲気、電話帳でも板沢姓のお宅が橋野にあるかといえば皆無であったので、これはボツ・・・。

 ならば板沢氏の本姓は菊池なので、菊池姓関連ということで、境内に僅かではあるが墓地もあって、少しだけ失礼して墓石調べ・・・大汗

 なんと菊池姓のお墓もある・・・・そして・・・・。

 

旧制遠野中学(現遠野高校)の教諭をされた方の碑のようです。

 

 橋野地区には菊池姓の方々が結構いそうな雰囲気・・・・。

 そうしますと、上郷から曹源寺縁の林宗寺があるということで、橋野へ移り住んだ上郷関係の菊池一族が居たのか?・・・なんて妄想が湧いたり・・・・でも何やら菊池姓に関しては遠野と無関係ではない雰囲気も感じますので、いずれ機会があったら調べてみたいなあ・・・と思ったりして・・・・。

 

 

 マストの湯(大槌町)

 

 雨が降ったから湯っこを堪能したというわけではなく、館跡の探訪の後は湯っこで汗を流してサッパリ・・・という予定でもおりました。

 少し時間が早まっただけですが、考えてみれば年に5回は来てますね・・・。

 マストの湯は天然温泉ではありませんが、小奇麗で設備もまあまあで好きな施設でもあります。

 沿岸方面に来た際は外せません・・・笑

 

 そして帰りは釜石経由で・・・・

 少し遅い昼食・・・・最近は馬鹿のひとつ覚えで大概同じお店・・・?

 

 

ビビンバとハーフ冷麺セット

 

 盛岡冷麺とくれば盛岡や国道4号線沿いがメッカですが、釜石でもそれなりに美味い冷麺が食べれるということで、時折、食べております。

 隣の蕎麦と回転寿司のお店も良く行きますが、最近はこちらの方が多いですね。

 

 冷麺通としましては、最高というわけではないので、普通盛りの冷麺ではなくハーフにしてセットをいただいております。

 でもまずまずといったところ・・・・本日も満足でした・・・・。

 

 

 少年時代、遠野の在郷に生まれ育ち、花巻ならマルカンや花巻デパートに志戸平温泉、釜石なら丸光デパートと憧れの地でもありました。

 釜石には叔母も住んでおりますし、遠戚もいましたので、来る度に街だなぁ~と思ったものでした。

 社会人に成り立ての頃も友人達と用もないのにドライブがてら来ては共栄でボーリングしたり・・・・。

 当時、釜石には珍しいマツダの車(コスモ)に乗ってましたので、結構注目されいい気分になったことや、ツッパリ達に追いかけられたりと苦い思い出も蘇ります。

 今はひとり史跡めぐりやら湯っこ、年寄り染みた趣味でしか来ることはない、ましてや親父ひとり寂しく昼食をいただく・・・むなしいなあと思いながら、若かった頃を思い出しながら帰って来ました・・・・汗

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遠野菊池の会09

2009-07-08 21:35:27 | 菊池氏

 遠野の菊池姓の皆様で構成される「遠野菊池の会」総会に出席いたしました。



 2009.7.8 午後6時より・・・むら耕


 遠野菊池の会は平成11年(1999)発足しておりますが、この会を意識しながらもメンバー各位が遠野政治経済で活躍される言わば地元の名士といった方々がほとんどで、小生のような社会的に小物に含まれる者としてはどうしても馴染めない団体、さらに敷居が高いといった位置付けでもありました。

 遠野の菊池姓に関して興味があって調査研究も一応はしておりますが、これといった内容は乏しいながらも、こういった団体に加入してまで、何かを得ようとは思ってませんでした。

 こんな思いながらも何年か経過した昨年、人生の先輩である知人から加入を持ちかけられ、断りきれずに一応加入、会費要員になりそうな思いはありましたが、少しは何か得るものはあるのか?ダメなら脱会すれば良い・・・そんな安易な内容含みで加入してみました。

 昨年の総会は勤務で参加できず・・・今年は丁度休みに当り、しかも会発足10周年記念ということで地元郷土史家の先生の講演もあるとか、これは名だたる地元の名士の方々に交じって埋もれてしまおうとも是非とも拝聴したい・・・そんな思いもあって参加いたしました。




 某郷土史家先生による「青笹菊池氏について」

 当ブログでも過去に取り上げた経緯がありましたが、さらに詳しく見解が述べられ大変参考になりました。
 自身の足で採取した内容が多く含まれ、郷土史分野を目指す者としてはもの凄い刺激と参考になりました。


 ブログ仲間の笛吹氏に郷土史家の先生で小生と親戚の方がおられるようだが、知ってますか?・・・と以前から聞かれておりましたが、今回講演された先生が小生の親戚と判明・・・実は小生としては面識がなかったもので驚いております。
 いずれ多方面にわたってこの分野のご教授をいただければと思っております。





 想像はしてましたが、遠野菊池の会、会員では小生が最年少の雰囲気、少なくても今回参加した総会では最年少でもありました。
 前出の内容でも地元の名士の皆様・・・と記しておりますが、そこは皆同じ菊池姓、菊池一族との流れで立場や年代を超えてお話しができて有意義な集まりでもありました。

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遠野菊池一族Ⅳ・江刺角懸

2008-11-23 18:24:24 | 菊池氏

 遠野の菊池姓、その広がりの中において、ひとつの流れとして江刺(奥州市江刺区)からの菊池一族の遠野流入が一部ささやかれますが、歴史的な何かがあったものだろうという推測的雰囲気が大いに感じられるも、実際はその痕跡を示す資料等は皆無に等しく、ただその思惑のみというのが現実でもあると思います。

 ここでは江刺における菊池氏の流れ等を中心に、遠野菊池一族との関連を少しですが紐解いてみたいと思ってます。


○江刺角懸菊池一族


 
「岩手県史 巻1」より

 岩手県内における代表的な菊池系図である角懸菊池系図(江刺)

 江刺人首川下流地帯に、九州菊池氏の裔と称する菊池一族がみられる。
 菊池肥後守武重七世の孫氏恒を祖とし、その祖先は応永年中奥州葛西家の許に下向、葛西家に出仕、江刺郡の田谷、伊手の2邑を采地に給され、角懸邑に住したという・・・・。

 関連する系図には、江刺での祖を蔵人武恒の裔としている。


 江刺郡内に散見する菊地一族は、この角懸菊池氏から分派したものといわれ、角懸菊池氏は江刺郡における菊池一党の惣領との位置付と考察されており、史家達による考察の多くも角懸近在に在住した菊池武恒の存在は史実であろうという大方の見方でもある。

 武恒四代の孫、右近丞定恒の代に郡主江刺家の重臣となっていたことは葛西晴信からの書状により明らかであるとされ、先にエントリーしております当ブログでの「青篠館」の説明板にもあるように江刺氏の執権職、家老という表記に間違いはないものと思われる。

 ここでの疑問は、他資料に多く登場の菊池右近恒邦の存在、遠野における新谷菊池系図に記されその祖とされる菊池右近、角懸菊池系図に示される人物に右近恒邦の名はみられない・・・・。




「岩手県史 巻3」

 こちらも角懸菊池系図と同様に引用される代表的な菊池系図「立花菊池系図」

 和賀氏に仕えた菊池氏の系図であるが、江刺角懸菊池氏からの分流といわれ、祖先の中に角懸菊池系図にみられる武恒(菊池蔵人)の名がみられ、歴代やその兄弟の名の相違もありますが、ほぼ同系統の系図である雰囲気が大いに感じられる。

 菊池蔵人武恒の弟、恒光を祖とし、少なくても永禄元年(1558)に和賀郡立花郷(北上市)を和賀主馬により菊池重長が給されたとする見解でもある。
 
 和賀主馬とは少し代が下るが和賀忠親であると見解が示されている。

 立花菊池氏は、恒光の代に江刺から和賀領へ移住、立花郷主である和賀氏家臣、高橋宮内少輔の家老となったと伝えられ、立花郷17貫文を和賀氏より給されたのが始まりとも伝えられる。


 
 そして遠野への流入、その関連はとなりますが・・・・



「遠野市史 巻1・・・等より抜粋、一部加筆」


○菊池右近

 菊池右近とは角懸菊池氏当主である菊池右近恒邦といわれている。
 各系図には見えない名ではあるが、他資料等では右近恒邦の名が散見され、その多くは天正末期における江刺氏の内訌に関わる主要人物として登場する人物である。
 また、江刺青篠館の舘主であり、江刺氏執権職、さらに角懸郷主、角懸菊池一族惣領という極めて重要な立場でもあった。
 
 年代に関する見解はまちまちながらも天正15年(1587)、右近は主君である江刺兵庫頭重恒に諫言を入れるも、逆麟に触れ、角懸郷は江刺重恒勢に攻められ、右近の子と伝えられる太田代伊予は討たれ、右近は九死一生を得て遠野へ逃れたとされる事件である。
 この時、菊池右近の呼びかけに応じた遠野孫次郎(阿曽沼広郷)や気仙郡世田米勢が江刺岩谷堂攻めに江刺郡内へ侵攻するも、郡内の諸勢力が江刺氏に合力したことにより遠野勢等は敗れ撤退、残された菊池右近は成す術もなく郡内より逃亡といった内容だったと推察される。

 遠野市史では、菊池右近は南部信直に以来仕えたと記しているが、南部領とは遠野のことで、遠野の小友に一時的に隠遁、匿ったのは平清水景光(後の新谷禅門)であったのではないのか・・・と思われる。

 角懸菊池系図には恒元(左近)・・・天正18没・・・と記されているが、この人物が右近恒邦か?・・・江刺郡内より逃がれ、江刺菊池党の権限一切を失ったが為に天正末期に亡くなったことにされたのか?或いは系図の信憑性はともかく、後に伊達藩時代の江戸期に書かれたであろう角懸菊池系図、南部領との関わりを知る術もなく、そのまま記した可能性も大いにあるものと推測もできます。


 然らば・・・



「安俵菊池系図」・・・現花巻市東和町

 旧和賀郡東和町も菊池姓が繁華な土地でもありますが、上記の系図に菊池右近恒邦の名が示されている。

 遠野においては小友平清水家や上郷板沢家の祖と記される菊池右近ではあるが、遠野での足跡がほとんど不明である点、角懸菊池氏に関しては「恒」「武」の字が多く用いられているが、何故平清水氏は「景」なのか?

 遠野菊池党(入内島氏 著)で見解が述べられておりますが、菊池右近は菊池一族である遠野の小友平清水氏に草鞋を脱ぐも、豊臣秀吉による奥州仕置により葛西氏と共に江刺氏も没落し、江刺郡が後に伊達領となってから故郷に帰ったものかもしれないと記している。

 新谷菊池系図は遠野菊池氏である平清水氏と江刺角懸菊池氏の合作系図であること、これは大いに考慮すべき内容でもあると私も考えますし、安俵菊池系図に示される菊池右近恒邦の存在、これも大いに興味が覚えることでもある。


 菊池右近は遠野菊池一族である平清水氏に家系的な何か、大いなる影響を及ぼし、後年遠野を後にして同じ南部領となった安俵に移住したのではないのか、つじつまが合いそうにありませんが、旧和賀郡土沢近在は、史実として右近のかつての主家、江刺恒重が南部信直に仕え、給された地でもあり、この時、江刺氏の家臣達の中には菊池一族もいたものだろうと推測もでき、その筆頭的立場であった菊池右近は江刺氏に許されたものかもしれません。



 ということで、江刺からの菊池一族の流れの概略を少し掲載してみましたが、遠野への流入に関する事項は、ほとんど見えてこないが現状でもあります。

 葛西氏没落、これに合わせて江刺郡からも遠野へ入っただろう諸氏・・・栃内氏、下川原氏、男沢氏、及川氏、高屋氏・・・・等・・・多くの武家の名が散見されますが具体的な菊池氏の名はほとんど出て来ないのは何故なのか?

 平倉氏、平原氏、駒木氏、内城氏、切懸氏・・・これらの諸氏は一応に遠野では館主となっていた史実も伺えますが、こちらもどのような経緯でひとつの地域やら館を領有するに至ったか不明でもあり、江刺からの菊池氏遠野流入への説、天正末期から葛西、大崎一揆の後年説、これが第一に考えられるという思いが、仕切り直しという場面に変わりつつある現状に陥ってしまったようです・・・・。


 さらなる精進と、少し頭を切り替えて、そして改めて原点に返って、今一度調べ直しが必要と痛感しているところです。

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遠野菊池一族・参

2008-06-26 17:17:38 | 菊池氏

 しつこくもまたまた遠野の菊池姓関連のエントリーということで、お付合い願います。

 菊池氏と熊野信仰との関連、このことは「遠野菊池一族・序」で簡略掲載しましたが、遠野における菊池氏と熊野社の関連付けの核心に迫るといった事柄へは至らずの段階でもあります。

 また諸先生方の探求でも記録等にほとんど顕れていないということで、その関連付けを見出す内容とはなっていないが現状でもあると思います。

 民俗分野からの切り崩しも座礁しかけている現実はありますが、以前、かなり以前に紹介した記憶がございますが歴史雑誌「歴史と旅・臨時増刊号」(平成3年3月)に遠野の郷土史家、菊池照雄氏が寄稿した内容が掲載され、当時、かなり興味深く何度も読み返したことがありました。

 今回記述の参考としている遠野菊池の会「菊池一族の誇り」にも参考として引用されておりますが、菊池照雄氏による熊野信仰と遠野菊池姓に関する考察、民俗学分野からの視点がまさに説得力に長け、秀説といわざるを得ない内容と記されている点に注目しております。





○熊野の巫女の唱導

 歴史と旅に掲載された内容によると、北上山地、陸中海岸方面の熊野信仰の中心的役割は室根山にあり。
 その信仰弘布者は熊野御師とよばれる男性布教部隊と熊野巫女といわれる女性布教部隊だったという。

 その内のひとつ巫女達に関しては3つの目的があったのだろうと解されている。 ひとつは熊野三山信仰の村々への移植、ふたつ目は下級階層の人達の熊野への代参、そして三つ目は、九州肥後の名族菊池一族の栄枯盛衰を村々で語ったのではないのか・・・という内容でもある。

 巫女達は北上山地の村々を移動しながら熊野信仰の布教を軸に下級階層からの献納物を預かり熊野へ代参という役目を担い、その代償として下級武士階級や百姓といった人達に菊池一族の事績が宣伝され、先祖が明らかでない下級階級、特に武士階級に自分達の系譜を明らかにしてもらうよう依頼されると神懸となって菊池一族の末裔であったかのような流布がなされたのではないのか・・・・この蓄積があったからこそ、明治の新姓では、こぞって菊池姓を申告する人々が多く出たのであろう・・・・・。
 
 熊野山と深い関わりがあったのが米良氏、米良氏は菊池一族ともいわれ、巫女達はこの米良氏の支配下にあったのだとも解されている。


 簡略的に記述しましたが、説得力があるといえばその通り・・・後は遠野の熊野社と菊池姓繁華な地との関連やら、その痕跡を一応に確認できればそれなりに道は見えてきそうでもありますが、ここからが実はたいへんな予感がいたします。

 民俗分野と歴史的何かの融合、そして伝承等の収集で関連性を求める、これはしばらくかかりそうですね・・・・汗


遠野の菊池氏関連館跡







 久しぶりに青空を撮影しました。
 宮守館上空に青空がクッキリ・・・・遠野菊池姓探求も青空のようにスカッといけばいいのですがね・・・笑


 

◆遠野ぶれんど「じゃっこ&ジンギスカン」の夕べ

 日時・・・6月28日(土)午後6時30分~
 場所・・・宝飯爺商会(上早瀬橋白岩側東へ約80m)
 会費・・・約2千円位か?飲物はある程度ご持参ください。

 山女、ジンギスカンは事務局、幹事で準備します。(無論割勘・・・笑)

 飛び入り大歓迎なそうですよ・・・・。

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遠野菊池一族・弐

2008-06-24 15:52:32 | 菊池氏

 「菊池、佐々木は馬の糞」・・・馬産地遠野、昔の遠野ならではの言い方で、そこら中に馬の糞が落ちているといったことで、それだけ遠野では菊池さんが多いという例えとなっている。
 無論、今時、落ちている馬の糞を見つけ出すことは難しいことではありますが・・・笑

 他に群衆に向かって小石でも投げれば菊池さんの誰かに当たる確率が極めて高いという言い方もされております。

 そういう小生も菊池姓ですが、高校を卒業するまでは確かに苗字で呼ばれたことはほとんどなく、また、これが普通といいますか何も感じずにいたこと、これはホントのことでもありました。

 今こうして、菊池姓の探求をしているからこそ、あまりにも多い遠野の菊池さんを実感しているところです。

 ちなみに何度か過去にもご紹介しておりますが、4人に1人は菊池姓、世帯でいうなら約1万世帯強の内、2千世帯は菊池姓のお宅でもあります。


 さて、遠野の菊池姓を探求し歴史的な何かを調べれば早期の段階で小友の新谷菊池家由来」菊池家系図に行き当たります。
 平清水氏、新谷氏とつながる系図ではありますが、紐解けば天正年間末期における豊臣秀吉の奥州仕置に関り改易となった葛西氏の配下であった菊池一族の遠野流入がそのひとつであることは間違いなさそうでもある。
 遠野の菊池姓探求では大きなウエイトを占めている天正年間末期でありますが、それ以前の時代に関しても、若干触れられている点もあり、そのひとつに九州肥後国の菊池一族、菊池武時の九男といわれる菊池武敏の奥州下向説、これは南北朝時代まで遡ることになりますが、その系譜を伝えるという宮守氏(宮森・宮盛・宮杜)の存在があげられます。

 私の菊池姓探求では、一応この南北朝期までが遠野の菊池氏流入の考察範囲と決めておりますが、もうひとつ、遠野市史や遠野の城館跡関連資料に見える青笹臼館の菊池兵庫助成景の存在、前説のふたつの菊池一族の系譜との接点も考えられますが、こちらも興味が強いものでもあります。


 さて、前回エントリーでご紹介した書籍「菊池一族の誇り」に掲載の内容で実に興味深い系図が記載されておりました。
 まさに驚愕といった場面ではありましたが、新谷菊池家系図の他にも菊池家系図が無いのがおかしいと常々思っておりましたので、やはり在ったかという思いでもあります。





 著者の菊池先生の解説によりますと、2代九郎三郎の頃に阿曽沼氏に仕え、4代重隆から15代長元の時代に青笹の臼館を居舘としていた。
 
 この系図でまさにあの菊池兵庫助成景が登場している。
 10代菊池盛隆の時に陣代(後見役)として君臨、しかも盛隆の叔父である。
 正長元年(1428)~寛正6年(1465)までの37年間にわたり陣代として臼館菊池一族に重きを成していただろうと推測されますが、寛正5年に菊池宗家と総帥権をめぐって対立、遠野領主阿曽沼氏をも巻き込んで戦乱となり寛正6年に討ち死にと記されている。

 さらに14代菊池長光時代に長光が幼いことをよいことに菊池成景の末裔、大弥太成武が宗家に陰謀をめぐらし、一族間の争乱となっている。

 15代菊池長元の時に臼館を放棄して鳥越屋堡に移住、しかし長元は敗れ青笹菊池一族の総帥権を失い、鳥越屋堡も放棄している。

 その後、遠野孫三郎(阿曽沼広長)に仕えるも慶長5年に主家と共に零落、同6年、気仙郡大谷地(住田町)の戦いで討死にと記されている。

 ※鳥越屋堡→糠前鳥小屋・・・・「堡」とりで


臼館跡(青笹町)



 系図によれば臼館は資料による菊池成景の居館ではなく、青笹菊池惣領家の居館となることになります。

 系図では一族間の争乱を伝え、遠野物語拾遺に登場の「戦場」の伝承と思わせる内容も含まれ、興味深いことではあります。

 惣領家と支流であるも一族で力ある菊池成景との総帥権を争った戦乱、この内容に以前から調査探訪を実施している同町沢田の花館の存在をどうしても重ね合わせてしまいます。

 私は花館の妄想考察に、花館の菊池氏、臼館の菊池氏の争いがあったのではないのかと考察しておりますが、まさに一族間の争い、これに阿曽沼氏も巻き込んでの戦乱が記され、大きく展開が変わった思いではないものの、今後の探求の道標的な何かは得た思いがいたします。

 伝承では飯豊の館の主と臼館の館主の争いとも伝えられ、このことが頭から離れませんが、系図でいう惣領家が最後に篭った館を鳥小屋堡としていますが、花館のことではなかったのか?もし鳥小屋付近に館跡が残されているなら新発見でもあり、これはこれでたいへん興味があります。

 しかし、鳥小屋辺りから花館までは直線距離で1キロ位か?近いには近い・・・・?


花館跡・・・青笹町



 私の花館考察では、花館の菊池一族は別グループが臼館に移動、後に糠前辺りを主戦場に領地争い等で争乱となったのではないのか、最後は花館側が敗れたのではないのか?と妄想考察をしております。


 いずれにしても遠野菊池の会刊行の「菊池一族の誇り」・・・なかなかの秀説が展開されており、かなり参考になっております。
 私の妄想考察にもある程度近い内容もありますし、私が疑問と思う点も別方向から考えやすい考察がけっこうあって、取り組みやすい著書でもあります。
 しばらくはこの書籍を中心に遠野菊池一族の考察となりそうです。








 おまけ


 涙・・・・実は今回のエントリー、もっと長文でかなり核心に迫った内容を記述しておりましたが、途中でプレビューにて確認した際に誤字を確認、そのままブレビュー画面をクリックしてしまい、2時間以上かけた労作が水の泡・・・・泡・・・あわわわ・・・涙

 空いた口が塞がらず・・・汗・・・・たまにあるんですが学習しているはずが・・・・涙・・・・。

 今回のエントリーはかなり疲れました・・・汗


 そんな主人の横で・・・・汗




 あきれるも少しだけ癒されました・・・・笑

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