見もの・読みもの日記

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帰れない故郷/硫黄島(石原俊)

2019-04-25 23:17:05 | 読んだもの(書籍)

〇石原俊『硫黄島(いおうとう):国策に翻弄された130年』(中公新書) 中央公論新社 2019.1

 日本の歴史には、まだまだ私の知らない事実があるものだと思って感慨深かった。もちろん太平洋戦争の激戦地として「硫黄島(いおうとう、英語圏ではIwo-jima)」という名前は知っていた。本書でも触れられているが、2006年の映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』も記憶に新しい(見てはいない)。しかし、しみじみ地図を眺めたことはなかった。硫黄列島(火山列島)は北硫黄島・硫黄島・南硫黄島から成り、中心の硫黄島は、東京都心から南方に約1,250キロメートル、小笠原群島の南、北回帰線のすぐ北側に位置する。

 そして、戦地のイメージが強いこの島に生活者がいたことを、著者はゆっくり解説していく。1880年代の日本では南進論が隆盛し、小笠原群島以外の「南洋」(北大西洋)の島々が次々と入植・開発のターゲットになっていく(これに少し先立つ小笠原群島の領有・開発史も面白いが省略)。はじめは硫黄採掘が期待されたが、採掘可能な鉱区に限界があることが分かり、プランテーション経営のサトウキビ栽培、コカ栽培が営まれ、入植者は拓殖会社の圧倒的な支配の下で小作労働に従事した。やがて蔬菜や果実類の栽培、トビウオ漁(本土の漁船に買い上げてもらう)も行われた。1944年4月時点で、硫黄島の総人口は1,100人を超えている。

 ところが戦争が始まる。1944年に入ると米軍は反撃に転じ、「大本営は本土の南方の離島群を地上戦またはその兵站(後方支援基地)として利用するための、体系的な作戦を立てはじめた」。これは本文中にさらっと書かれていることの抜き書きだが、ぞっとする。あるとき、自分の住んでいる土地が「地上戦」想定地に決められてしまうのだ。それも本土決戦までの時間を稼ぐために。

 1944年6月、小笠原群島・硫黄列島民に対して本土への引揚(強制疎開)命令が下る。多くの島民が全ての財産を放棄し、着のみ着のまま疎開船に乗り込んだ。その一方、16~59歳の男性は多くが軍属として残留させられた。中には徴用令状もないまま、会社に呼び出されて島に残され、地上戦で命を落とした人々もいる。

 硫黄島の住民にとって、それは住み慣れた故郷で起きた「地上戦」だった。しかし、戦後日本では「沖縄=唯一の地上戦(あるいは、住民を巻き込んだ唯一の地上戦)」という、やや不用意な言説が定着してしまい、硫黄島民の経験は見逃されがちであった。なお著者は、硫黄島の戦いを「もう一つの地上戦」と呼ぶことにも慎重である。なぜなら、現在の日本の国境外を見わたせば、さきの大戦で多数の住民を死に至らせた「地上戦」はいくらでもあるからだ。

 さて、戦後を生きる私たちが目をそむけてはならないのは、むしろここからである。サンフランシスコ講和条約の締結によって日本は主権を回復したが、沖縄・奄美・大東の「南西諸島」と小笠原・硫黄列島の「南方諸島」の施政権は、引き続き米国が行使することが認められた。長期化する離島生活。補助金の打ち切り。「難民」状態の旧島民は困窮化し、生活苦による自殺や一家心中も多かった。

 1968年には小笠原群島・硫黄列島の施政権返還が実現する。しかし帰還が認められたのは小笠原群島民だけだった。1980年頃から自衛隊施設の整備・拡充が本格化し、硫黄島は日米共同利用の訓練施設となり、暗黙裡に有事の際の作戦(戦闘)基地と目されるようになった。戦後70有余年の2018年現在、島民とその子孫は、年1、2回の訪島・墓参だけを許されている。日本政府は、島民一世が全員この世からいなくなるのを待つ方針である、と著者は厳しく指摘しているが、そのとおりであろう。

 そして、これは硫黄島の人々だけに起きたことではない。多くの自然災害、各地の戦争、あるいは福島原発事故でも、同じことが起きているように思う。運悪く辺境に生まれた人間は、「本土」の幸せのための犠牲にされがち。でも本当にそれでいいのか。あなたが辺境に生まれたら、その不公平を恨まずにいられるだろうか。まずは、近代日本の(日本だけじゃないけど)政治権力が、離島や辺境の住民に何を強いてきたかをしっかり記憶しておきたい。

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