見もの・読みもの日記

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平治物語絵巻・信西巻を見る/東洋絵画の精華・日本絵画(静嘉堂文庫)

2012-05-10 23:53:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 受け継がれる東洋の至宝 PartⅠ『東洋絵画の精華-名品でたどる美の軌跡-』珠玉の日本絵画コレクション(2012年4月14日~5月20日)

 この春、東京に揃った『平治物語絵巻』現存3巻。『信西の巻』は、3回に分けて巻替えされる計画だが、最初の回は見逃してしまった。まあ、これまで何度か見ているし。最近では、2006年の『国宝 関屋澪標図屏風と琳派の美』展の感想に『信西の巻』の感想は「また別稿にて」と書いているのに、別稿を書いた形跡がない。レポートを書くのは今回が初めてになるようだ。

 チケット売場で、色摺り8ページのきれいなパンフレットを貰った。うわー主な展示品がカラー図版で載っている!! さすが「静嘉堂文庫創設120周年・美術館開館20周年記念」ということで、瞠目すべき大サービスである。『平治物語絵巻・信西の巻』も、小さい図版だが全場面(詞書は一部略)が載っていて、大変ありがたい。

 展示室入口。普段なら「導入」役割の作品が置かれる場所に、もう『平治物語絵巻』が展示されている。私が見逃してしまった巻頭について、貰ったパンフレットで補完しておこう。朱塗りの柱、白壁、黒い瓦屋根の重厚なコントラストが美しい、内裏の門。門前では慌てふためく馬と牛車の狼藉ぶり。門の内側には、数名ずつ固まって居並ぶ武士たち。詞書を挟んで、次の画面は、伊賀山中で自害して果てた信西の様子である。第1期の展示はここまで。

 第2期(4/27~5/8)は、再び信西自害から始まっていた。傍らにひざまずく従者の姿は、何度も描線を修正した跡がある。もう一人の従者が遺骸を埋める穴を掘っている。次の場面は、発見され、掘り出された遺骸。無表情な下っ端武士が、信西の頸に刃を当てている。まるで夕餉の魚に包丁を入れるような仕事ぶりだ。

 あ、この発見者が出雲前司(源)光保なのか。Wiki記事を読むと、この人の境遇も転変きわまりないなあ…。最後は薩摩国に配流されて誅殺だという。短い詞書(2行)をはさんで、光保邸の門前での首実検。質素な土塀の屋敷の前に美々しい鎧姿の武士たちが勢ぞろいしている。

 この第2回巻替えの場面は、背景にゆったりと波打つように起伏する丘陵の姿が美しい。単調にならないよう、色彩や形に変化をつけている。近景の木々は、漢画(水墨画)の描き方だ。聳え立つ岩も。信西の遺骸を、見守るように枝を差し伸べる松の木。枝先の茂みは、墨にわずかに緑を重ねたような色をしている。光保邸の場面に登場する広葉樹は、墨に赤茶のような色を重ねる。『平治物語絵巻』現存3巻の中では、登場人物の少ない地味な巻だと思っていたが、他の巻にない自然描写を、あらためて堪能した。

 会場内の日本絵画も名品揃い。仏画は、南北朝もの多し。『如意輪観音像』にしろ『弁財天像』にしろ、海の中に湧き出た岩座を、陰鬱な緑と金泥で構成的に描いた表現は、光琳の『松島図屏風』を思わせる。新出の『釈迦三尊像』(南北朝時代、額装)は、全体に生々しい肉体が感じられる。白象も、この時代としては珍しく写実的な動物顔。

 水墨画は、伝・周文筆『四季山水図屏風』が好き。これは、平面写真でなくて、折るべきところを折って、立てたところを鑑賞するのがいい。出っ張る画面に何を描けばいいか、きちんと計算されていると思う。

 江戸絵画では、酒井抱一『波図屏風』。銀は劣化しやすいので、なかなか制作当時の意図を感じられる作品は少ないのだが、これはよく残ったなあ、と思う。メタリックな質感が斬新。あと、私は応挙の『江口君図』(小山のような白象に乗った遊女)がむかしから好きで、なぜか静嘉堂文庫の日本画と聞くと、最初に思い浮かべるのがこの作品なのである。『四条河原遊楽図屏風』は、細部が面白くて見飽きない。若衆の能楽にかぶりつく男たちとか。

 『駒競行幸絵巻』は初めて見るような気がした。絵師は『春日権現験記』などと同じ高階隆兼と推定されている。この人の作品は、モブシーンのところどころに遊びがあって、それを探す楽しみがある。遊楽図と同じ。

 酒井抱一の『絵手鑑』。無料パンフレットの表紙、若冲っぽい蓮池に蛙図はここから取られている。国貞や豊国の錦絵も。中世初期から近世末期まで、日本絵画の幅広さと歴史の長さを実感する展示会だった。

 パンフレットとともに貰った『静嘉堂120年の歩み』も熟読。関東大震災を教訓に、高輪から岡本に引っ越してきた。これによって、多くの貴重な文化財が空襲による戦火を免れた。昭和23年から45年まで、国会図書館の支部だったのか。そういえば、東洋文庫も最近まで国会図書館の支部図書館だった。Wiki東洋文庫の項目には、散逸の危機に瀕した蔵書を救うためにとられた措置とあるから、意味のあることだったのかな…。文庫の歴史「120年」に対し、美術館の歴史がわずか「20年」というのは、ちょっと意外な気がする。
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