「経済学的思考のセンス」(中公新書刊)という本がある。
著者は大竹文雄氏(大阪大学社会経済研究所教授)だが、序文の終わりに「身近にある”さまざまな格差”を経済学で考えてみることで、経済学的思考のセンスを体得していただければ幸い」だとある。
さて、その身近にある格差にもいろんなものがあるが、日常で一番意識に上るのは「所得の格差」、つまり「お金持ちか、貧乏人か」という区別だろう。
ただ、これは運、不運もたしかにあるが個人の「才能」や「心がけ」、「努力」などもまったく無視するわけにもいかず、多分に因果応報の面もあって「まあ、しょうがないか」と思うこと無しとしない。
ところが、人間の努力とは一切関係がない単なる生まれついての「容姿」による格差がどの程度人生に得失を生じさせるかというのは不条理な面があってなかなか興味深いテーマである。
ということで、本書の14頁に次の小節があった。
☆ 「美男美女は本当に得か?」
これの正確な解答を得るためには、昔「美男美女」だった該当者に人生の終末になって、「あなたは美男美女だったおかげで人生を得したと思いますか?」と沢山のアンケートをとって、集計するのがいちばんだろうが、本書では経済学的な視点から労働市場において「いい就職機会を得るのか」、「より高い賃金を受け取るのか」、「昇進が早いのか」といったことに焦点を絞って考察している。
以下、要約してみると、
残念なことに「美男美女は得か」の実証研究は日本ではまだなされていないが、アメリカではこのテーマでの事例がある。(テキサス大学ハマメシュ教授)
それによると、「美男美女」は「不器量」な人よりも高い賃金を得ていることが明らかになっており、さらに重役の美男美女度が高いほど企業の実績がいいとあって、むしろ業績がいいからその会社に美男美女の重役がいるという逆の因果関係も確認されている。
ここで一つの疑問が出される。「美人」の定義である。
「たで食う虫も好き好き」という言葉にもあるように、人によって美の尺度はさまざまなのでそのような主観的なものが、厳密な実証分析に耐えられるものだろうかということと、さらに、そもそも「美人の経済学的研究」は意味があることなのだろうか、ということなのだが、実際には、
〇 美人が労働市場で得をしているかどうか
〇 得をしているとしたらどういう理由なのか
この2点を明らかにすることは「労働経済学的」にきわめて重要なことだという。
なぜなら、公平かつ機会均等の観点から、生まれつきの容姿の差による所得格差を解消するとしたら、ハーバード大学のバロー教授が提案する「美男美女に税金を課す」「不器量な人間に補助金を交付する」が経済学的に正しい政策となるからだ。
つまり、美男美女は努力なしに生まれつき得をしているので税金を納める必要があるし、不器量な人はもらった補助金で「リクルート整形」をするのも自由だし、うっぷん晴らしに娯楽に使うのも自由となることで社会的な調和が保てるというわけ。
ただし、これは具体的な手段が難しい。たとえば自己申告制にした場合「美男美女税」「不器量補助金」の申請者数がどの程度になるのか皆目分からないのが難点。「美男美女税負担者証明書」を発行することにすれば大幅税収アップを見込めるかもしれない。
かいつまむと以上のような内容で、バロー教授が提案する「美男美女税」には思わず笑ってしまったが、結局「美男美女はほんとうに得なのか?」の正しい考察には経済学的視点以外にも遺伝学、社会学、哲学、心理学、芸術などいろんな分野を総動員することが必要ではないかという気がする。
たとえば、ベートーヴェンは醜男だったそうで生涯にわたって女性にまったくモテずずっと独身を通して子供もいなかったが、それが逆にエネルギーとなって内面的に深~い進化を遂げ、跡継ぎになる子供の存在なんかとは比較にならない程の偉大な作品を次々に後世に遺していった。
現代のクラシック音楽界は彼の作品抜きには考えられないので、ベートーヴェンがもし美男だったとしたら私たちは音楽芸術を今のようには享受できなかったかもしれず、音楽産業にしても随分と縮小したことだろう。これは人類にとって大きな損失ではなかろうか。
また、鎌倉時代の古典「徒然草」(兼好法師)では「素性とか容貌は生まれついてのものだからしようがないけれど、それ以上に大切なのは賢いことであって、学才がないとかえって素性の劣った憎々しい顔の人にやり込められる」という「段」がある。
というわけで、このテーマは大上段に振りかぶってはみたものの「外見よりも内面が大切」という「ありきたりの結論」で終わりにするのが無難のようだ。
アッ、いちばん最後になって「色男 金と力は なかりけり」という言葉を思い出した! これでまずは ひと安心(笑)。
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