イタリア映画、「道」は、何度みても、
人の心の奥底までのぞき込まれるような、
考えさせられる作品である。
人のエゴとその対比の純粋さを
これほど浮き彫りにした作品はまずなかろう。
エゴの固まりといってよい、「道」の主人公のザンバードは、
自らの行動に、良心の呵責のひとかけらも
感じることのない男である。
美しい心をもつ彼の内妻? ジェルソミーナは騙され、裏切られ、
その都度、夫を信じ、ついて行き、また裏切られる。
だが最後は、 夫ゴミみたいに捨てられ、置き去りにされる。
5年後・・・・・・・・・。
ザンバードは、自分の人生でかけがえのないものが
何であったのかを、知る。
この男にも、やはり人の良心の欠片があったのか。
観客は、ここでほっと胸をなで下ろす。
大道芸人の笑顔という仮面の下の悲しみを表情豊かに、
名女優 ジュリエット・マシーナ
(この映画の監督フェリーニの愛妻)が演じている。
彼女は、「カビリアの夜」でも、夫の監督で、
いつも男にだまされているのに
真実の愛に出会えると信じている、
純心無垢な魂を持った娼婦カビリアを好演。
ジェルソミーナは、夫に騙される。
たしてカビリアは、何人もの男に。
そして極めは、これでもか、とダメ押しを受ける。
泣くカビリア。不幸に絶望の声を上げるカビリア。
だが、エンドマーク直前。
カビニアがいとも不思議な笑顔を見せる。
これで、見ている人は、救われる。
この2作品だけでも、この夫妻が、
人生の深い意味を見る者に問いかけていることがわかる。
人は誰しも、両親と良心を持っている。
正しい道を歩んでいないと子供の頃は両親を恐れ、
その顔を伺うことで行動規範の自己調整を行い、育つ。
大きくなれば自分の良心から外れることで、良心の呵責を覚える。
この良心の呵責で、心がチクリと痛んだら、
規範の違反のシグナルと思い、そのチクリの根因を除去。
今後一切同じ過ちは繰り返さない。
こうして少しずつ成長しながら、私たちは大人になっていく。
人は、あの「レ・ミゼラブル」のジャンバル・ジャンみたいに、
過ちをキッカケにまっとうな生き方ができる。
だが、チクリを無視したら、新聞紙上を賑わすことになる。(後述)
なんとなくこんな学科「倫理学」の模範解答みたいなことを書きながら、
先週見た、「オリーバ・ツイスト」のことを思い浮かべた。
それは、生まれたときから両親に育てられた経験がない捨て子のオリーバが、
なんであんなひどい悪人だらけの環境の中で、
あんなにも頑なぐらい純な気持ちをもてたのだろう、という、
いまさら少し照れるが、素朴な疑問である。
「ええが、じゃさかい、ええがけんなものよ」
意訳すると、
映画だから、そのへんいい加減な虚構に決まっている。
そんなものなんでとりあげるの?
と、受け流してしまえば、将来の栄華は遠のくと
堅く信じている私は、こうした疑問にはこだわる。
純、清らか、といった顔形と違い、見えない心を
司っているものは、なんだろう。
遺伝とは思いたくない。
だって自分の心の司りを、親や、ましてや知らない先祖のせい。
つまり、良くないコトしたときの逃げ道、
良いコトしたときのご褒美が先祖に持っていかれる、といったのでは、
私はどうも生きていく楽しみが半減するような気がしてならない。
俺は、俺で生きたいと思っているのだが、
そういうわけにはいかないのであろうか。
昨夜は、名画の余韻に委ねて、そのことを考え続けた。
人の心の奥底までのぞき込まれるような、
考えさせられる作品である。
人のエゴとその対比の純粋さを
これほど浮き彫りにした作品はまずなかろう。
エゴの固まりといってよい、「道」の主人公のザンバードは、
自らの行動に、良心の呵責のひとかけらも
感じることのない男である。
美しい心をもつ彼の内妻? ジェルソミーナは騙され、裏切られ、
その都度、夫を信じ、ついて行き、また裏切られる。
だが最後は、 夫ゴミみたいに捨てられ、置き去りにされる。
5年後・・・・・・・・・。
ザンバードは、自分の人生でかけがえのないものが
何であったのかを、知る。
この男にも、やはり人の良心の欠片があったのか。
観客は、ここでほっと胸をなで下ろす。
大道芸人の笑顔という仮面の下の悲しみを表情豊かに、
名女優 ジュリエット・マシーナ
(この映画の監督フェリーニの愛妻)が演じている。
彼女は、「カビリアの夜」でも、夫の監督で、
いつも男にだまされているのに
真実の愛に出会えると信じている、
純心無垢な魂を持った娼婦カビリアを好演。
ジェルソミーナは、夫に騙される。
たしてカビリアは、何人もの男に。
そして極めは、これでもか、とダメ押しを受ける。
泣くカビリア。不幸に絶望の声を上げるカビリア。
だが、エンドマーク直前。
カビニアがいとも不思議な笑顔を見せる。
これで、見ている人は、救われる。
この2作品だけでも、この夫妻が、
人生の深い意味を見る者に問いかけていることがわかる。
人は誰しも、両親と良心を持っている。
正しい道を歩んでいないと子供の頃は両親を恐れ、
その顔を伺うことで行動規範の自己調整を行い、育つ。
大きくなれば自分の良心から外れることで、良心の呵責を覚える。
この良心の呵責で、心がチクリと痛んだら、
規範の違反のシグナルと思い、そのチクリの根因を除去。
今後一切同じ過ちは繰り返さない。
こうして少しずつ成長しながら、私たちは大人になっていく。
人は、あの「レ・ミゼラブル」のジャンバル・ジャンみたいに、
過ちをキッカケにまっとうな生き方ができる。
だが、チクリを無視したら、新聞紙上を賑わすことになる。(後述)
なんとなくこんな学科「倫理学」の模範解答みたいなことを書きながら、
先週見た、「オリーバ・ツイスト」のことを思い浮かべた。
それは、生まれたときから両親に育てられた経験がない捨て子のオリーバが、
なんであんなひどい悪人だらけの環境の中で、
あんなにも頑なぐらい純な気持ちをもてたのだろう、という、
いまさら少し照れるが、素朴な疑問である。
「ええが、じゃさかい、ええがけんなものよ」
意訳すると、
映画だから、そのへんいい加減な虚構に決まっている。
そんなものなんでとりあげるの?
と、受け流してしまえば、将来の栄華は遠のくと
堅く信じている私は、こうした疑問にはこだわる。
純、清らか、といった顔形と違い、見えない心を
司っているものは、なんだろう。
遺伝とは思いたくない。
だって自分の心の司りを、親や、ましてや知らない先祖のせい。
つまり、良くないコトしたときの逃げ道、
良いコトしたときのご褒美が先祖に持っていかれる、といったのでは、
私はどうも生きていく楽しみが半減するような気がしてならない。
俺は、俺で生きたいと思っているのだが、
そういうわけにはいかないのであろうか。
昨夜は、名画の余韻に委ねて、そのことを考え続けた。