会やパーティーなどに、頻繁に遅れる人がいる。
彼らは、また予定変更をする人である。
また、ドタキャンを厭わない人でもある。
そして困ったことに彼らの多くは、
それが忙しさの象徴で、自分がモテモテである証である
と、どこかで思っていることである。
宴会やパーティーの途中に、遅れてきて、
来賓の挨拶を悪びれずやる。
こうした連中は自分が大物の証であることを、
それでもってパフォーマンスしている。
あわれ、そのこと自体が、小者の虚勢、
あるいは幼児性がら抜けていない輩。
そのマイナスは、その本人のそれだけではない。
たとえば直接ドタキャンされた人を、
この自分として考えてみたらいい。
言動に出す出さないの個人差はある。
が、例外なく、傷つき、時には怒る。
なぜなら人は自分を無視なり、軽く見られることほど、
尊厳が傷つけられることはないからである。
そしてその彼の怒りは、加速、拡大され、広がっていく。
すなわち、Aがドタキャンしたら、つながっているが故に
その相手のBのドタキャンになる。
Bのドタキャンは、Cの予定変更につながる。
Cもまたドタキャンが発生する。
といったように。リンクされたつながりを通じ、
「かってな人だ」といった情報が、かってに
思いもかけないところまで流れるのである。
「思わぬ所へ波紋が広がる」、
といった言い方があるが、まさにこのこと。
それはそうであろう。
この世は”つながり”で構成されているのである。
社会システム、といった意味は、
社会に内包されて存在している私たちは、
それらが個々独立して生きているとともに、
個々有機的結合されているのである。
このことをわかっていないと、早かれ遅かれ
間違いなく、いずれは災いを招き込む、ということになる。
上に社会システムと書いた。
落語で、よく使われる言葉に、
「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」
があるが、まさに言い得て妙。
だが、これを「俺は駕籠に乗る人、君らは、俺を担ぐ人」、
とあざけったのでは、担ぐ人は駕籠を放り投げてしまう。
滅びの戦略と言わざるを得ない。
では、生きていくためには、
駕籠を担ぐ人だけへの感謝ではない。
その彼らが、自分を担げるのは
篭屋の草履を作ってくれた人がいる。
ここまで、思いを馳せられて、
人生なり企業のあり方を考える。
これが、繁栄の戦略だ。
つまり、感謝の念を、俯瞰的かつ拡げ得る人。
自欲を抽象化出来る人。すなわち、
人間としてのあり方として、経営者なりが
「おかげさま」とか「一人では活きられない」、
「支えてもらう」といったことを、理解している。
これが絶対条件である。
システムとかつながりは、
時には鬱陶しく、足枷になる時もある。
だが、それでも人間は、
「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」
から、逃れては存在できないのである。
ならば、それを意識して「プラス側面に活かす」
姿勢が、人生なり企業なりの戦略に求められる
これは自明の理である。
彼らは、また予定変更をする人である。
また、ドタキャンを厭わない人でもある。
そして困ったことに彼らの多くは、
それが忙しさの象徴で、自分がモテモテである証である
と、どこかで思っていることである。
宴会やパーティーの途中に、遅れてきて、
来賓の挨拶を悪びれずやる。
こうした連中は自分が大物の証であることを、
それでもってパフォーマンスしている。
あわれ、そのこと自体が、小者の虚勢、
あるいは幼児性がら抜けていない輩。
そのマイナスは、その本人のそれだけではない。
たとえば直接ドタキャンされた人を、
この自分として考えてみたらいい。
言動に出す出さないの個人差はある。
が、例外なく、傷つき、時には怒る。
なぜなら人は自分を無視なり、軽く見られることほど、
尊厳が傷つけられることはないからである。
そしてその彼の怒りは、加速、拡大され、広がっていく。
すなわち、Aがドタキャンしたら、つながっているが故に
その相手のBのドタキャンになる。
Bのドタキャンは、Cの予定変更につながる。
Cもまたドタキャンが発生する。
といったように。リンクされたつながりを通じ、
「かってな人だ」といった情報が、かってに
思いもかけないところまで流れるのである。
「思わぬ所へ波紋が広がる」、
といった言い方があるが、まさにこのこと。
それはそうであろう。
この世は”つながり”で構成されているのである。
社会システム、といった意味は、
社会に内包されて存在している私たちは、
それらが個々独立して生きているとともに、
個々有機的結合されているのである。
このことをわかっていないと、早かれ遅かれ
間違いなく、いずれは災いを招き込む、ということになる。
上に社会システムと書いた。
落語で、よく使われる言葉に、
「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」
があるが、まさに言い得て妙。
だが、これを「俺は駕籠に乗る人、君らは、俺を担ぐ人」、
とあざけったのでは、担ぐ人は駕籠を放り投げてしまう。
滅びの戦略と言わざるを得ない。
では、生きていくためには、
駕籠を担ぐ人だけへの感謝ではない。
その彼らが、自分を担げるのは
篭屋の草履を作ってくれた人がいる。
ここまで、思いを馳せられて、
人生なり企業のあり方を考える。
これが、繁栄の戦略だ。
つまり、感謝の念を、俯瞰的かつ拡げ得る人。
自欲を抽象化出来る人。すなわち、
人間としてのあり方として、経営者なりが
「おかげさま」とか「一人では活きられない」、
「支えてもらう」といったことを、理解している。
これが絶対条件である。
システムとかつながりは、
時には鬱陶しく、足枷になる時もある。
だが、それでも人間は、
「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」
から、逃れては存在できないのである。
ならば、それを意識して「プラス側面に活かす」
姿勢が、人生なり企業なりの戦略に求められる
これは自明の理である。