経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

企業論理を知らない人たち

2006年12月19日 | Weblog
九州ミサワの逆粉飾が、大きく報道されている。 

目新しいことでもないこうした企業犯罪が起きると、ジャーナリストは「企業倫理の欠如」と言う。
 いつも申し上げていることだが、果たしてそうだろうか。ゆずって、人の倫理問題である、と認めるにしても果たして倫理の問題だけだろうか。この際、繰り返し論じてみたい。

そもそも人でない企業に倫理などあろうか、というのが私の本意である。
人が為したことを企業に責任転嫁かと揶揄したくなる。法的に人権を付与する、ということで法人という、実態のない企業上の道徳や倫理の話にしてしまうところに、問題の本質を曖昧にし、繰り返される要因がある、と私は思っている。

粉飾や談合事件はまさにその典型的事例であろう。企業が考え、コンピューターが自動計算して粉飾したわけはない。誰か人が命じて、人がコンピューターを曲げて動かさねば粉飾はできない。談合でも他のケースでも然りである。

元来、組織は有機的結合されたシステムである。だから「組織ぐるみではない」という言い訳をし、「会社のための思ってやった」、「組織維持のためにやむなくやった」、といった弁明になるのだが。それにも疑問がある。

自分の出世、成績、名誉、維持、保身、在籍中の業績維持、そうした「ため」に、というのが本当のところではないか。心の中の話だから断定は出来ないが、そうしたことが一切なかった、とはいえまい。またよしんば、会社のため、組織のためであったにしろ、結果的にも、より会社や組織はより追い込まれ、往々にして命取りになっている。

「企業存亡の危機を賭して、消費者を裏切り、背を向けさせる」、こうしたことは、まさにこれまでのおびただしい企業犯罪の歴史からみて、「企業の命取りになる」ことは自明の理である。

すなわち、「間尺に合わないこと」。採算という企業の論理でみて、やったら損すること(投資)であることは、考えるまでもないことなのである。

自らの破滅、所属する企業の破滅を、自ら招くことこそ、自分たちの信条としている、採算の合わない投資は見合わせるという「企業の論理」に合わないことなのである。

企業の論理に合わないことを、あえてやるということは、企業論理、たとえばそろばんを知らず、損得計算や採算判断が出来ないか、最初から企業なり組織なりを潰してもかまわないという自滅志願主義者が経営をやっているということになる。

もちろんそうした連中の倫理の問題もあろう。だがよしんば倫理観が欠如していたにしろ、正しい企業の論理で判断する能力があれば、そんな馬鹿な意思決定が出来るはずがない。短期的視野だけではなく、長期的に見て、といった戦略のイロハすら知らない輩(やから)、経営者として組織人として適格性を欠く者が、経営をやっていた、と考えた方が正解に近いのではないか。どうも最近、多発するこの種の事件をみて、そんなふうに思うのである

友と合う、3分。

2006年12月18日 | Weblog
 雨の日曜日。予想では雪になるという。その中を、列車で鹿児島市へ。風邪も完治していなかったので、少し迷ったが、県の交流センターで、商工会連合会主催で「ふるさと特産品フェア」が開催されている。それと10分千円床屋へ行ってみたい。つまんないことでも理由がなければ、動かない。やはり行動力が落ちたのかな、と自戒。

 途中、12時近くになったので、吉野家で牛丼。すでに込んでいて二回へ。ここは少しおかしげな高校生らしい男たちのたまり場風。アルバイトのこれまた高校生らしい女の子がもてあましていた。出されたお茶に七味唐辛子をたっぷりいれ、それを一気飲みしたものが、5人分の支払いをする、ということらしい。
 勝負を観たい気もしたが、幸か不幸か牛丼は、彼らの勝負が決まらない前に、胃袋に収まった。

「ふるさと特産品フェア」で、お茶屋の大坪さんもテント店を出していた。狭いテントの中に、大坪さんを入れて5人。他のテントは2-3人がせいぜいだから意気込みが感じられる。
事実、大坪さんと話している間もひっきりなしに、お客が。
 20年以上も、鹿児島の県を代表する村おこしのリーダーとしての彼が、「ブランド」になっているのである。

 次のブースへと振り向いたら、見覚えのある顔。「おおい、中村君」
一介の新聞記者から小さいながらも新聞社の常務まで上り詰めた彼だが、還暦と同時にその新聞社が倒産。それ以来だ。大学時代からの無二の親友。ちなみに彼は、長州・下関の男。私が内定していた鹿児島の新聞社へ。そして私の留守に私の実家にかってに居候し、私が勤めていた会社の、愛ちゃんと結婚。以来、私が都会に出た後も、鹿児島に住み着いている。

 彼は、5年ほど前胃を取っている。そのせいもありやせて、頬のこけぶりはひどく、一緒にならんでいて、だれも同じ年とあてたことはない。2年ぶりの彼は、さらに老け込んでいるように見えた。「久しぶりだから、お茶でも」とは、どちらも言わず。

 今、ローカル紙の嘱託記者をしている。「実際は、年金でくっているんだけどな」、「同じよ。」それだけで別れた。背を向け、ブースにカメラを向ける後ろ姿は、うらやましいぐらい若かった。やはりプロだ。

 それが嬉しかった。「俺より先だろうけど、当分はいけるな」。
なにせ大学時代兄弟以上の仲だ。つもる話などしなくても、わかる。お互い将来(さき)の話だけをして、青春を共有した仲なのだ。ばたっと、出会って、3分。立ち話。元気を確認したらそれで良し。

 雨の中を、3分1000円で、丸坊主になった頭に、コートのフーズをかぶせて、駅まで4キロ、歩く。

いないだろうな

2006年12月18日 | Weblog
市町村合併で誰が困るかと言ったら、他所から訪れる人だろう。目的地に行くのに、市町村名が変わり、大混乱しているからである。住民には読めても、他の地の人には読めない看板にふりがなはない。地元の人に尋ねたら、代わる前の旧名で教えてくれることがしばしば。案内看板も、新旧入り乱れである。議員定数が変わってどうのこうのという論議は時折新聞などに出ているが、こうした問題が取り上げられたことはない。
地元の人など、わかる人に看板はいらない。

 ここで、国と国のトップ同士の会談で、通訳の場合を考えてみよう。
 この場に同席する通訳の役割は、如何。
 通訳には通訳の役割に関しての定義やルールがあろうが、無知な私がかってに想像するに、両国の両者の考えを忠実に意訳して、お互いの意思疎通をはかり、もって両者の所期目的の具現に間接的に貢献すること。
 だから、どちらにとっての代弁者であってはいけないし、どちらかに偏った、都合のいい通訳をすることであってはならない。といったことではなかろうか。建前は建前としてお互いの国から、それぞれ通訳を付けている。理由は、もちろん、自国民でなければ表現できない微妙さをお互いカバーする、ということもあろうが、相互に少しでも自分側に不利な意訳をされないように牽制し合うという側面があることは間違いがない。これは、お互いの国益が絡むのだから、公正さの側面からも当然であろう。
 では外国からきたタレントにインタビューするときとき、どちらに通訳をつけるか。日本語を話せないタレントに通訳がつく。

 経済における取引、契約でも然り。公平、対等という原則でみて弱い立場の方にサポートを考えるということが自明の理である。政治にも、弱者対策という概念はある。

 こんなことを考えてみたら、お客、消費者に必要なもの、考え方、歓迎される組織といったものを、たとえば、多勢に無勢、専門的に知っている立場と素人の立場、強者と弱者、といった視点から、どちらに代理なりサポートを置いた方がいいか。考え、ひとつうちの組織でも、と言って実行する人がいてもいいと思うのだが。

代理について

2006年12月17日 | Weblog
 近未来社の事件で、今朝の新聞に「代理店」という言葉が、目に入った。代理店、目新しい言葉ではない。横浜タイヤ代理店、京セラ代理店、新日鐵代理店、○△保険代理店、、課長の代理の課長代理などなど、普通に何気なく使われている。

お客様係は、どうか。多分に支店長に代わってお客様のことを担当する係ということだろう。カスタマーサービスは、どうか。店長はどうか。課長代理はどうか。販売員はどうか。レジ係はどうか。
 
こうして考えていて、ふと思った。様々な会社の役職をすべて並べてみても、恐らく消費者の代理、お客の代理を果たす役職は、存在していないのではないか。もちろん実態として、実質的にお客に代わって、代理を務めてくれる仕事は、結構あるだろう。仕事としてだけではなく代理妻、代理母、代行業などもある。だがこれは、松阪の代理人が、彼の代理として交渉に当たり、莫大な報酬を手にする、つまり個人ないしは団体が、個別に代理役として契約した場合に限られる。あるいは代議士のように、主権者である民の代理もある。課長代理は、課長より威張ることはないが、代議士は主人の民より偉いと思っている違いはあるが。

今 ほとんど見かけなくなったが、会社の組織図を、それまで会長なり社長を上に、落下傘型に表していたものを、消費者を一番上に持ってきて、逆落下傘型に、といったことが流行ったことがあった。

 まさに小手先。組織図をさかさまにしても実態は変わらない。変えていないから変わらない。変えるとは、「あなたの職務は、御客様の代理です。ですから会社の損得ではなく、お客様の損得を優先して仕事してください」といったことであろう。
だが、こうしたことが組織的に行われている例は、私は1社しか知らない。
身近に、そうパソコンに関してのお店に、私に代わって一生懸命になってくれるお店があったら、とつくづく希っている。
昨夜、ホームーページをいじっている間、一部のファイルが消えた。



ヒーロはなぜ一人で勝てるか

2006年12月16日 | Weblog
 「信頼」、「信用している」、「友達」という言葉が、いかに空しいものであるかはスエーデン映画の秀作「太陽の誘い」をみたら実感できる。
主人公のオロフ(ロルフ・ラッスゴル)が、文字の読み書きも出来ないことをいいことに、年下の友人が親切ごかしにいろいろズルをする。それがストーリィの縦軸になっている。

この映画を観た翌日、ソフトバンクなど携帯電話会社のCMが公取から問題指摘があった。「消費者の味方、親切ごかしに、消費者を誘導した」というのが、公取の見解。

 これはあまりにもひどすぎるから公取が動いたのであるが、日常、多分にお店の販売員も、企業の営業マンも、否、国も、行政も、政治も企業も、自分たちにとって都合のいい情報を流して、情報開示。情報を秘匿して、個人情報保護、と上手に使い分け、映画の主人公 オロフのズル友人みたいに操作している、といったことは珍しくはない。いやごく普通に、当たり前のごとく行われているのではないか。

手元も新聞広告、チラシ、TVのCM、IT上でなにかダウンロードするたびにでる、「同意する、しない」、保険の契約書などなど。
共通していることは、すべて作り手・売り手なりが用意した文面を、買い手、受け手側が、判断する、という流れになっていることだ。
 ここでは事の是非、だからだめだ、といった指摘や論議をしたいのではなく、最初からそうした流れになっている、ということを確認しておきたいのである。
 
だから、流す側の意図、もっというなら作り手、売り手に都合のいい文面になっている要素は、もう一方の当事者である受け手、買い手側の判断に委ねられる、ということになる。だがそうした文面は用意周到にその道の専門家が練って作られたもの、それを判断する消費者なりは、そんな知識など持ち合わせている方が例外。ましてやたいてい短時間での判断で決済する。

こうしたことが本来、対等の関係にある売買契約における片方にハンディが生じることになるのだ。上に述べた映画の主人公オロフには、文盲というハンディがあったように。 ハンディがある方に、フォローを付加することで、はじめて対等になる。これがごく常識的な考えである。だが企業の多くは、こうしたハンディを逆手に取った売り方なり宣伝をしている。

このことを如何、どう思うか、と問うているのである。いつもの通り念を押しておきたいが、道徳的とか倫理とかといった観点からではなく、企業としてどちらが消費者から支持されるかという企業論理から見て如何、と問いたいのである。
 
 以下、実験の実例。
 新潟の有名な笹団子の話。お土産品店では、「日持ちが良いです。」、「何日までは持ちますよ」と、こうした売りにしている。
 これを、「当店の笹団子は、2日しか持ちません」というショーカードを付け、事実、2つにしか持たない笹団子を売り出した。 そうしない場合の6倍売れた。
 
 次に、これを青森の銘菓専門店でもやってみた。やはり1月で13%ほど売上が伸びた。

 これはなにも私のアイデアではない。伊勢市の赤福が、2日しか持たないことをきちんと伝えている。それを用いたに過ぎない。

 昔、「正直者が馬鹿を見る」、すなわち「作り手、売り手は消費者に馬を鹿と、うまい話をし、儲けた」
 今、「正直者が、金銭を得る」、すなわち「作り手、売り手は、馬は馬、鹿は鹿と、消費者にしかと伝えることで、儲かる」。

 なぜなら、「正直者が、馬鹿を見る」の、馬鹿になりたい消費者は皆無。たいして後者は、みな望むからである。正義の味方は、何処の国でも、どの時代にも少数派。紫ずきんも、怪傑ハリマオも月光仮面も水戸黄門(例外的に少集団ティームであるが)も、ヒーローになるのはたいてい一人で、一人勝ちしている。

 そういう目で、どの企業が消費者のヒーロになり、どの企業が消費者をだます悪代官なのか消費者はよく見ている。観ているだけではなくヒーローを押し上げる。このことを企業経営者は、もっと重視し、活用すべきである。

的外れで失ったもの

2006年12月15日 | Weblog
                                    
 調べてみるとわかることだが、商店街の衰退と商店主の職住分離が始まった時期は、ほぼ重なっている。さらにその頃から商店はご用聞きや配達をやらなくなっている。

 それぞれ得たものは何か。
 前者では、商店主が、お店以外に居を得た。
 後者では、商店側は楽、あるいは時間を得た。

 では失ったものはなにか。
 これらにより、お客様のこと、とりわけ日常生活がわからなくなった。「わからない」ということは、商売が「わからない」ことを意味する。仕入れや品揃えの「的」がわからないのだから、的外れ当てが起きるのは当然である。的はずれが起きる分、消費者から見たら気に入ったもの、買いたいものがないということだ。

 このことで商店、その集合体である商店街は、おびただしい機会損失を生じさせ、商店街に消費者が背を向けることになった。これはマクロの数字として結果としては、認識できるが、日々には見えない。機会損失の怖いところである。

 それで、今、大変している。
 それでも消費者と会話を交わすことで、ある程度はお客様のことがつかめるのであろうが、その会話が、一方的な接客用語をはき出す自動販売機か自動ドアと大差がない。スーパーのチェッカーと同じ、人間の姿をしたロボットと同じでは、どうしようもない。

 「いやいや、うちはそのため熱心にITをやっているし、問屋さんからも絶えず情報を得ているからね」という人もいよう。

 それは違う。
 それらは後ろから入ってくる間接情報だ。個々のお客さんの情報は、五感で前から入ってくるものなのである。
 そもそもメーカーや問屋さんみたいに、小売店より消費者に遠い人たちに、消費者のことがわかるはずがない。

 手暇を惜しみ、さらに人手を減らし、忙しさを機械化や省力化で補う、といったことは、消費者とは関わりのないところであれば、まだ良し。
 だが肝心な消費者との接点を減らし、自分たちのお客さまとは無関係なところで、情報を得て、無関係な項目で商談をし、当然の結果として、ハズレの多い商いしている。
 それで肝心な消費者が背を向けて、大きな売上げを失ってもともこもなくしている。このことに対応せず店づくり、商店街振興をやってさらに大きな的外れ、大きなムダを生じさせている。

 ではどう対応したらいいのか
 たとえば少ない例でも今も見られるのは、リャカーでの引き売りのおばさんは、物干し台の下で、そこの奥さんと世話話をする。だから、あそこの子供が、今朝おねしょうようの癖で、このお母さんが困っているな、とわかる。相手を知っていることで、相手の喜ぶ対応が可能になる。そうするとお客様が、逆に売り手との接点を求めてくる。これがお店からみたら、「鴨が葱を背負って来店」という行動になる。こうしたお客様が増え、支えられることでお店は大きくなれるである。
 
 遠くから的を射ることは難しい。だが街のお店は、その的に近い位置にいる。この最大の恵まれた条件、得手を活かすことだ。そうした図式、シクミを構築することである。それ以外ない。断定していい。

喜びの一里塚

2006年12月14日 | Weblog
つい最近まで、
一里塚で、自店の決算書をみるのが怖かった。
まず目にいるのは△印、赤字が目に入るもの。
売上は減り、借り入れは増える。
どうしてやりくりしていけばいいのか。

そんなのがいっぱい詰まった決算書だ。見たくなるはずがない。
なんとかしなくちゃ、なんとかしなくちゃ、と考えこんでいたよ。

あるときに、商工会からきた人から言われた。
「そんな悩みは自分のこと。自分のことばかり考えていてはだめだ」って。
俺、怒ったよ。いや俺だけじゃない。
おとなしい妻までが顔色を変えたもの。

難しい経営のお説教かと思ったら、自分の子供も頃の、こういう話だよ。
小遣い帳を見る。見開き1ページに一つぐらいで、「貯金」という言葉ある。
ここに、おじいちゃんの肩たたきでもらったお金。
お母さんの手伝いでもらったお金が入っているのだ。
二人とも、「有り難う。おまえのおかげで助かったよ」
と、ニコニコしてお駄賃をくれた。
それを郵便局に持って行った。小銭は狸の貯金箱に入れておく。
家族のみんなを喜ばした分だけお小遣いが貯まっている。
嬉しかった。

「商売はお客様を喜ばしたお駄賃をいただくのと同じ」。
そんなふうに考えてみたら、って。
妻が、あとからいったよ。「今のやり方とずいぶん違うね」。
それで思わず二人で笑った。それが5年前。とても寒い日だった。

赤字や借金を減らそう。少しでも儲けようとがんばってきて、これだ。
どうせ金のかからないことならだまされても損はないのだから、
やってみようと思った訳よ。
素直じゃないから、そのときは返事しなかったがね。

俺たちだって、だてに商売24年やってきた訳じゃない。
少しはその人の話で、わかるところもあったし。意地もある。
だから、俺だって思ったのだよ。
いつの日かは、きっと。必ず。絶対に、と。
決算書を手にして、「俺たち、今年はどれだけ客様に喜ばれたか」って。
わくわくして決算書を見る日のことを。そんな時がくることを。
夢でもいい。同じ夢なら資金繰りに追われる夢よりましだし。

そのために朝早くからお店開いて、なにか一つでも、
お客様が喜んでくれることないかな。工夫はないかな、と、
できることから始めたよ。
なあーに、金も知恵もないのだから
たいしたことなどやれっこないのだが。
こんな老夫婦二人のお店でも、
お客様に喜んでいただけることがあるに違いないと、
始めたよ。思った。「孫を喜ばすのと同じ要領だ」。

5年目だ。夫婦で、孫をつれて納税に行ったのは。
前夜から税務署に行くのが楽しみだった。ほんとうだ。
なんだか、おばあちゃんに通知票を見せに行くような気持ちだ、
といったら、妻が笑った。
うまくいけば3代目になる1歳の孫も笑ったよ。

暇つぶし、時間つぶし

2006年12月12日 | Weblog
 停車中の列車に乗っていて、左右の列車が反対の方へ走っていると、こちらの列車が走っているように錯覚する。

うかつにも錯覚と何気なく書きましたが、私の人生を考えたとき、なんだか錯覚ではない。毎日、何かがあって一日が過ぎていくのですから、じっとしているだけでも、私は前に進んでいる。私自身がじっとしていても、進んでいる。

 それは私が進んでいるのではないけれど、進んでいるように見える。だから錯覚、と書いたのですが、「考えてみたらそれは錯覚ではなくて、人生ってそんなものだ」、というところがあるのかも、と朝からそんなつまんないことを考えています。

それじゃつまんないし、第一退屈でたまらないから、人は暇つぶし、時間が通り過ぎていくように上手に、時間つぶしする。
それでは自分が悲しく、わびしくなるから、それを「勉強」、「仕事」といったりしている。

単に暇つぶしで人生を過ごすのが不安だから、「一生、勉強なんだよね」、といったり、「今日は付き合いゴルフなんだ」、とか、「今日は、3つも会合をこなしてね。疲れちゃったよ」とかいったりする。

「人生は、いわば巨大な空の器。それに何を入れるかは君の自由な選択、君次第なのだよ。それで君の人生が決まるのだからね」

 遠い昔、読んだ本でしたか、あるいは英会話の勉強のために通っていたいた教会の牧師さんでしたか、あるいは萬福寺での座禅の後のお説教でしたか、そんなことを読んだか、聞いたことを思い出します。

いえ。誤解しないでください。私の話です。仕事をしてもしなくても、忙しい時でも忙しくなくても、なぜか私は一日中忙しいのです。そのことを思って、考えを整理してみて、そんな風に思ったのです。

私は忙しさに飢えていて、あるいは忙しさにあこがれていて、あるいは暇に恐怖していて、一生懸命、時間つぶし、暇つぶして、それで一定以上の忙しさを確保、維持することで、安心と心のバランスをとっている。
 そうしたことを人生の幸せ、充実した一日と思いこんでいる。

どうせ、じっとしていても1日の方がかってに過ぎ去って、その分自分が、それが錯覚であろうと前に進むのです。 ですから、師走で多くの人が走っているときぐらい、自分はじっとしていようと、朝目が覚めたときには思うのですが、一時間もたたないうちに、今日の「時間つぶし、暇つぶし」のテーマを探している自分に唖然とするのです。

 こうしてここまでキーを叩きながら、頭に浮かべていることは、「これ、老子の”空”の考えにあったな。今日確認しとこう」。

 老子ではなくこうして、 昨日より忙しい今日をと、走っている列車の中で、走っり始めるのです。

忘年会、高齢化対応

2006年12月11日 | Weblog
 9日、忘年会から帰り、風呂に入り、パソコンに向かい、そのまま寝てまった。UPしたつもりの日記を、忘念していた。代わりに3日おいて、11日、久々風邪を引いた。思えば、昨朝から兆候があったが、忘年とは年も忘れるが体のメッセージも忘れてしまうのか。
 以下、9日の日記。

 今日は、自治会の忘年会だった。毎年思うことは、取り寄せた仕出しの大半が残ること。
仕出し選定の基準が、「予算内の1.8000円内で25人分ぐらいの仕出しを頼むよ、と言った具合で、内容物に関しては、先方に任している、というのがこれまでの。あり方であった。

 ここ数年、残った食材をメモしておいたから、今回はそれを外すように、仕出し屋にお願いした。第二の注文は、「参加者はオール入れ歯。それでも容易にかめるもの。第三は、「ほとんど高血圧。高血圧の人が避けるべき食材、料理法のものは使わないで欲しい。この3点を、お願いした。仕出し屋の南さんは、「いや、そうした言い方をしていただくと、他のトコロにも使えますので、有り難いです」、言ってくれた。が、顔は「面倒だ」という顔をしていた。

 19時に始まり、22時に終えた、我が自治会の忘年会。例年との違いは、出した食材がほとんどたいあげられていたこと。例外はある。それは例年波の子供の参加を予測して、おにぎりをたくさん用意していたのに、今年に限り子供の参加ゼロで、おにぎりが余ったことである。
 
 だがこれも子供のいる家庭には、折を作りお土産に持って帰ってもらったから、実質廃棄ゼロ。参加した皆さんから、「今年は最高だった」のお声をいただけた。

 何にしろ、「相手の方に、どうしたら喜んでいただけるだろう」といったアプローチは、それをやったものを、いい気持ちにさせてくれるのだな、とつくづく思うことだった。

人と組織

2006年12月09日 | Weblog
 組織に最大有効性を発揮させるためには、理念、戦略、戦術の3つへの理解が不可欠である。それぞれの意味するところは、以前にこの通信でふれているので、今回はその機能に軸をおいて、考えることを述べてみたい。 

まず理念。
 そもそも理念は、被せた物言いや強制、命令では、浸透できないものである。なぜならば理念そのものがそうしたことに否定的な概念だからである。
 人の心のことは、その人に属している。だがその心の持ち主すら、自分の心がわかっているかどうか。他の人のことは図るすべはないが、私自身のことを鑑みると、そう思う。
心は、また見えないものである。だから他者からの強制的な心への介入には、しぶしぶ(心にもない)言葉や、(意に沿わない)形として、従ったそぶりで逃げようとする。

 そうした形のものを、理念の浸透とはいえまい。浸透とは、皆が心から受容したものを「良し」とするものだ、と思う。

 そう考えると、理念を浸透させるには、同じ場で、同じ釜の飯を食い、いわゆる寝食を共にするといったこと、運命共有している組織の上下といったものに拘束されない対等の、同志として、仲間として、自らのロマンを、自分の言葉で語りあえる、そうしたところにあるのではないか、と思っている。少なくとも理念やロマンを浸透させるのに、命令や強制はそぐわないといえる。
 なぜこうしたことを書いているかというと、「なのに、命令や強制しているじゃないか」といった現実が主流という、認識が私にあるからである。

 次に戦略。
 戦略の浸透には、まず経営者は自分の理念なり、ロマンに賛同し、それらを共有する仲間、同志に対して、その具現のための方向を、択一のうちの一本に絞り、共有することだ。そのことに関しともに熱く語り合うことだ。空気が、一定の方向性を持たせれば勢いになる。流れになる。エネルギーになる。これは風に例えられよう。
ここで忘れがちなのは、否ほとんど無視されていることは、自分の、あるいは企業の理念や戦略を語り合うことだけに関心が行き、相手の戦略にはほとんど無関心であることだ。
 これを、「一方的」という。
 本来戦略は、こちらの意向を相手に通すことではなく、「如何にしたら、自分の思いに、相手自らの意思により協力してくれるか」という要素を内包しているものである。だからここでは相手の戦略も聞いて、まずお互い共有しあうこと。それが前提になければ、他者は協力してくれない。戦略の主眼は、「協力関係作り」といわれる所以はここにある。
だから望むらくはその結果、両者の戦略が重なり合うことがベスト。

 トップは、「俺の戦略は・・・」と語る前に、「君の夢と戦略を聞かせて欲しい。そしてその君の夢を実現のために会社とこの私が、何をもって協力支援できるかを考えたいのだ」というべきである。

 上の2つを、手を変え、品を変え、繰り返し、繰り返し、一所懸命語るとこと。これが経営者の一番重要な仕事である、と思う。

 最後に、戦術。
 以上ができたら次は、それを具現するための方法だ。理念も戦略も形がないものだ。形にないものを、第三者(他者である消費者なりお客など)に、理解させることは難しい。 だから理念、戦略を具体的な形として見せる、具体的行動として相手に伝えることが不可欠にある。
こうした戦術は部下に委ねる。任す。それも、企業外からのエネルギーやお金を取り込むことで存続している組織の本質を考えれば、当然、外部(消費者)との接点部分にそれを重点配分するありかたが、望ましい。
 念押ししておきたいことは、戦術に関わることは、強く請われる以外、ああしろ、こうしろ、こうやれといちいち方法まで、指し示してはならない、教えてはならないということである。これも多くの経営者が、「任せるぞ!」という口とは裏腹に、いちいち戦術まで口を出し、しかもその功を部下と競う、といった「殿様ご乱心」的な愚行が珍しくないのである。それぐらい出来ていないと、いいたいのである。

 こうしたものが組織の本来である。
本来の組織の活動を100としたら、上に示した理念、戦略、戦術、いずれかが機能していない分、組織機能を減じて、60なり、50なりの働きしかしていないとしたら、100の人件費を投じて、60か50しか回収できていないことにある。組織力の凄みは、その機能の発揮に次第で、100を投じて300にも1000の成果を得ることができる、点にある。この点、一定数を限度、限界としている機械(時間当たり.千個作れる機械は、それ以上は作れないし、それ以下では効率を減じることになる、といった意味で)根本的に違うことを強く意識するべきである。

人の力を活かす組織、言い古された言葉だが、実は効率・能率を上げる側面のアプローチに関心が集中しており、個々の能力を最大限引き出し、それでもって組織の働きを最大限に、という側面のアプローチは、ほとんど手つかず、と私はみている。
機械と人の根本的な違い、まずはそこから人の活用、組織の活かし方を考えて欲しい、というのが本稿の意図である。