経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

接点と付加価値

2006年12月08日 | Weblog
通常、画一化、省力化、合理化は、「人の画一化、省力化、合理化」を意味している。つまり現場の消費者接点をそぎ落とすことを、結果的に要求している、といってよい。

 自動販売機では、消費者からの情報を取り込むことが出来ない。大型店のレジは、人間の形をしたマシンが一方的に接客六大用語を唱えつつ、お金を吸い込むだけだ。ルートセールス・マンは自販機相手では口を交わせない。
 販売員の多くは一方的に「売り」を言うだけで、消費者から直接情報を取り込むことはしない。呼吸に例えるまでもなく情報は相互交流である。

 せっかく人件費を使いながら、なんというもったいないことであろう。見えない機会損失を掲載に入れない経営者は、はっきり言おう。馬鹿である。あるいは底知れぬお人好しだ。

 消費者から直接情報を得ることをせず、レジスターから得た数字をグラフにするといったことに手暇を掛けている。セミナーや本や外部データーからの情報収集にも熱心だ。これらはいわば全て二次加工された情報である。多くは他者の主観により作成されたモノである。だからだめだ、と全面否定しているのではない。優先順位を無視するな、と申し上げているのである。

 どうして肝心な直接的な生の情報に限られたエネルギーを注がないのか。ここを削ぎ、一円も稼がずグラフを縦にしたり横にしたり、階段を上り下りして忙しそうに運動をしているいる人たち。難しい顔をして、小田原評定のための作文に金と時間を浪費しているスタッフに給料を払うのであれば、その分トンカツを食べ終えたお客の顔、レジでお客が見せる表情やシグサなどを読み取れる人に回すべきだ。化石情報より、鮮度のある生情報をとることにエネルギーを注いで欲しい、と言いたいのである。

 これからは、真の意味の「1人当たり付加価値生産性」を重要な指標として、上に述べた意味での「いい人を消費者接点の箇所に投入すること」が戦略的課題になろう。人を増やせば増やした分、企業は大きく強くなれ、かつ社会に貢献できるからである。

劇場型

2006年12月07日 | Weblog
かって大勝した。それも党として方針に反逆した者を候補から外す、といったことを、国民の多くが喝采したから、さきの選挙で勝てたのである。このことはその、ことの是非ではなく、「選挙のための安易ななれ合い、妥協を排す」といった、これまでの自民にない論理の明確さ、そして国民にわかりやすい白黒の付け方が支持されたものと理解していい。
 
今度は、その逆だ。これまたことの是非ではなく、前回反対した者が、今度は賛成している。復党したくて賛成した者を、いとも簡単に受け入れた。それも参院の、Aという人物の押しでだ、といううさんくささ、わかりにくさ、そうしたものを国民はひとかたげに「選挙のための安易ななれ合い、妥協」、すなわち以前の体質返り、とみて、またあの小泉政権以前の自民に戻るのではないか、という不安に陥った。
 
 「これからのこと」と「過去のこと」を比較した場合、国民の頭の中における記憶蓄積は、前者にはなく、過去で占められていう。その過去が忌まわしければ忌まわしいほど、その記憶を基に未来を想像する。そうなると、人は未来をバラ色に描けず、むしろ未来に不安や恐怖すら覚える。

 こうして、頭の中での投票の結果、今朝の新聞であったとおり、内閣支持率はさらに低下した。これが支持率低下でとどまればまだ幸い。そこでは絶対にとどまらない。なぜなら率は数字である。数字の多寡、上下には、理由が存在する。その理由は、上に述べたように一種の国民のイメージ、心理的な要素なのである。だからいくらでも心の中で広がったり縮む。今回の場合、広がる原因が明らかにあって、広がっているのであるから、その要因を取り除かない限り、広がり続ける。こうして徐々に、あるいはいっきに国民は、「安倍政権では、結局元に戻ってしまう」という思いになってしあmす。弱体政権と見てしまう。事実がどうかは、国民はわからない。報道をとおしてしかつかめないのだから、報道を通した抽象的なイメージで、「断定」という具体的な行動、形を出すことになる。国民が支えていた手を離す。 このムードを一掃する何かが、でない限り、この「形」が、将来(さき)の近いところでは、参院選の大敗、ひょっとしたらその選挙までに、政権自体が持たない、といったことさえ起きかねない。
 これは、まさにうがった見方という誹りを受けるが、ここにきて元総理が山崎さんと階段。また北朝鮮に行ってもいい、といったのは、この「何か」どと思えないこともない。

 極論を言っているのではない。これまでの政治の歴史上にないぐらい、国民は、政治を、政権を、政治家を「観ている」のである。舞台の彼らの一挙一動を、観ている。ただしあくまでマスコミを通して観ている。つまり「劇場型」に変化しているのである。

 だから、入場料は無料、お気に召さなければ、観客はいつでも席を立つ。気に入れば席は満席になる。だが善きにつけ、悪しきにつけ、観客席に国民がいないでは、政治家はなしようがない。


それを断りなしに、筋書きを変えた。それを国民は、今の政権の「奢り」、と観客席の国民はみた。「のど元過ぎれば、痛さ忘れる?、観客を馬鹿にするな」と、国民は思った。それが今回の支持率低下の背景要因と考える。

 政治の話で書いたが、企業も然り。ちなみに上場とは、そうした舞台に立ってた、ということだ。そういう意識が強くないと、若くして舞台から去る経営者は、今後も多発するだろう。

あきない

2006年12月06日 | Weblog
やはり、1ページがせいぜい。いやそれもおぼつかない。別のソフトに長い間なじんできた分、想像以上にビルダーでのHPの改築に手間取り、まごつく。なまじっか、なじみがあるために、だろう。
 
そうか。これが革新の難しさか。「こんな当たり前のこと、それも金がかからずすぐやれることで、やれば大きく増収増益になるのに」、と大きなニンジンを手にかざしながら、話をするのだけれども、ほんとに実践してくださるのは、ほんの一握り。「しゃあーないや」、と思っていたが、こうして長く使っていたソフトにすら、囚われ、縛られる自分自身を昨日一日、現実に体験して、改めてわかった。

昔、植木等が歌っていた「わかっちゃうるけど、止められない」だ。
 ひねくれの私は、そんなことあるかい、という思いもあって、たばこをやめること試みた。ちゃんとやめることができた。酒も、自在にコントロールすることにした。これもうまくやっている。1月やめて、1日のみ、また3日休んで7日飲む。自分の意思で自在にできる。
 こうしたことが自分の慢心だ。その証にたかが「ソフト」に、縛られているではないか。

昨日、青森・黒石商工会議所の三上課長からメール。7日に私が、エキスパートでアドバイスしたKさんが、さっそく改革に取り組まれているとのご報告だ。
 はっ、と思った。「Kさん、すごい」。
30余年つづけてきた「やり方」を、わずか2時間程度の話で、変えられる!
 「Kさん、すごい」
 
 難しいのは、自分のなかにいつの間にか滞積された保守性、慣れ。そしてそれらが怠慢やリスクを生む。
 その怖さがわかっているから、たとえば事務所のレイアウトや、ものの置き場所を変えたり、機器の設定を手動にしたり、リモートにしたり。パンツを右足からはいたり、左足からはいたり、ワードをつかったり、一太郎にしたり、できるだけそうしたことに陥らないように日常の生活で、対策は講じているのだが、実はそのこと自体がマンネリだったのかも、しれない、とおもった。
  
 たしか、あの白圭が、と思い、確認した。

 「人を助ければ、自分が助かる。(中略)助けてくれた人に礼を言うより、助けてあげた人に礼を言うものだ」(宮城昌光著「孟嘗君」5巻P270-271 講談社)。
 
 Kさんに、お礼を言いたい。それを知らせてくださった三上さんにも。
おかげで1日棒に振っていなかったことが、わかったことも添えて。

 商いって、いいな。売った人から教えてもらえるから。
 飽きない、って怖いな。頑迷のおおもとになるから。

情報の偏りをどうするか

2006年12月04日 | Weblog
昨日の続き。
人すべてが知らずして入り込んでいる危うい「トコロ」で、私たちは生きている、といったことを述べた。

 では、どうしたらいいか。その解は、手前味噌ながら、師の城野 宏が提唱してきた「脳力開発」にある。これはキーワードで示せば、「動く」ことと「協力関係」、それに「普遍性」、もの3つで、思うことを述べてみたい。

 動くこと、協力関係。これを私流に簡単に説明すると、「前だけしか見えないのであれば、後ろを見よ」。「自分の足りないところは、協力関係でカバーせよ」、ということになる。
 (普遍性については、後述する)
 
以下、「情報」を例に取り、画竜点睛の誹りを受けたい。
情報を集めて、そのほとんどが共通、同じ方向にあったとする。たとえば敵は右の道から来るだろう、という意見が90%だった、ということ。多数決や重要性の原則ではこの10%は無視される。ここでも大を取り、小を捨てる、といった、とんでもない論理が、一見正論として大きな顔をしてまかり通ることになる。こと選択の問題として、例を挙げればわかりやすい。選択は択一だから、小さいもの、ここでは10%は切り捨て、つまり存在しないものとして、無視されることだ。これは、ないもの、みえないものを見えないと、とするのではなく、明確に見えるものを、無「視」、つまり見えないものとして扱おうということだ。

よくいじめ問題ででる、この「無視される」ことが、どんなに残酷なことであるか、ここで述べることもなかろう。

話を戻す。
敵(=対応すべき対象物)は、当方の情報の確率、その読み方に従って行動しているのではない。むしろ相手が右と読むなら左の道から来ることを選択するということになる。大を取り、小を捨てるありかたでは、対応できない。確率論も過去のシュミレーションも然り。

ではどう考え対応したらいいのか。
ここで、味方の90人が右といっているのなら、なにもそれに反対することなどない。そのこと自体が、情報の一つとして、受容し、あなたは他との10%に対して、情報を収集し、備えればいいのである。みんなが上を向いているときには、あなたは下を見る。これで上下を見ていることになる。欠けているところを見る。少数派にたってみる。これでまさか、といったことを避けることができるのである。

もう一度整理しておきたい。
 目は前方180度、見える距離にも限界がある。足を使ってぐるりと回れば360度みることができる。遠くが見えないなら、近づけばよい。そのために足がある。双眼鏡を使う手もある。自分でみることができないところは、同志に頼む。

 1にその口もある。手と足と口を使って動くこと。
 2に、仲間、同志、友達との協力関係づくり

 この二つが、生きていくに不可欠なことだ。
 だから、「それみろ、俺のいった10%の方で、敵は来ただろう」と思ったり、言ったりしたのでは、リーダーとしては完全失格。2の要件を失うからである。

 他の大多数が、90%を一挙に消去法で絞ってくれたからこそ、自分は10%に集中できたのである。この世、こうした協力関係の存在で成り立ち、その成り立ちの中に生きているのが、この私たちなのである。

 ならば
 
 国はどうあるべきか
 企業はどうあるべきか
 自分はどうあるべきか

 皆々、同じ式で解を得ることができる。

 余計なことだが、経営指導をして25年、つくづく思うことは、経営者というのは実にまあ、普遍性を無視し、特殊性を追いかけるのが好きだな、ということである。
 見よ、今朝の朝刊にも、宝くじを当てて成金したような輩の本が、絶賛売り切れごめんだって。

 これが脳力開発でいう、「特殊性」と普遍性」の意味である。やれることとやれないことがある。やれないことは特殊性。やれないことは、やれないから、何の足しにもならない。

 世の中には、見えるものと見えないものがある。
 見えないものは、形として現れない限り、他人はいざ知らず、凡夫の私は見ることができない。見たいとも思わない。なぜなら見えるものを、見過ごしたり、見逃したり、見違ったり、見落としたり、見て見ぬふりをしたり、見誤ったり、見下したり、見上げたり、そういったことばかりにかまけている日々だからだ。残りの一生を掛けて、見えるものだけでも、正しくみたいものだ。積み残しの「見えないこと」は、あの世への宿題。むこうでゆっくりやろう、と考えている。

情報、その偏りー前編

2006年12月03日 | Weblog
 自分を中心に置く。自分の周囲、自分の外は360度に展開されている。だが目は自分の向いた方向、最大で180度が最大の視野である。耳は360度の音が入るし、鼻が担当している嗅覚も後ろからの情報も入る。だが視覚だけは、向いている方向しか見えない。

 個々で見えないということの意味を明確にしておかねばなるまい。思うに、「見えない」ということは、大きく分けて、1にもともと存在していないので見えない。2に、存在しているのだけれど自分の視野に入っていないため見えない。(たとえば目を閉じるといったことで見ようとしないため見えない、といったこともこれに含める)の2つがある、と考える。
 
 多くをはしょるが、問題は、1と2の区分がつきにくいことである。その根本には、人みな、否ほとんど自分を中心に、自分の位置を軸に、「俺には見えない」といった言い方をするからである。むろんこれは視野の問題だけではない。「自分にはわからん」、「自分には理解できない」、「そんなはずはない」、「俺には聞こえない」、といった言い方、すべてが前提として、「自分を中心」においての思い、コメントなのである。

 これでは、端的に言えば、
自分の視野の範囲はわかるが、それ以外はわからない。
自分の視野の範囲なら対応できるが、それ以外には対応しようがない。
自分の視野に入る範囲の敵とは戦えるが、それ以外に背後には無防備。

 入ってくる情報には対応するが、入ってこない情報には、入ってこなかったのか、もともと存在していないものなのかがわからないから、対応しない。対応しても行き当たりばったりになる。
自分の範疇(かたよった情報)だけで判断、決済している。

 といった様々な弊害が出てくる。
否、そうしたことを認知せず、「俺の判断は正しい」と思って、判断しているのが大方であろう。
 
そうした人すべてが知らずして入り込んでいる危うい「トコロ」で、私たちは生きているのである。
「だから、俺は、俺は、というなよ」と、今でも72歳にしては若すぎる声で、故城野宏は、説く。(対応編、次に続く)



リーダの素養

2006年12月02日 | Weblog
人は、他人を動かせない。人が動くのは、他人が動かすのではなく、動く人の脳の指示による自らの意志により、自分の手足を使って動くのである。 師の城野宏は「他人は、思う通りにならないもの」と断じていた。

だからこそ「自らの意志で動くように」、こちらが動かねばならない、と説いた。むろん恫喝したり、強権を発したりして、それらにおののき、強制的に動いたことも「自ら動いた」ことに変わりはない。しかしそれは恨みや反発が必ず伴う。長く続くものではないことは歴史が証明している。だから愚策である。

真のリーダーは、相手が喜んで自らの意志で、こちらの狙い通り動いてもらうことを旨とする。だからこそリーダーなのである。このことがわからない者には、リーダーの素養はない。

 ここでいう真のリーダーは、組織上、上であろうと下であろうと、上の形で人を動かせる人を言う。地位が高い人、命令を下せる一にいるからリーダーだ、と思っている人がいるが明らかに誤りである。リーダーの素養がない人を上に置いた組織がおかしくなるのは、その「誤解」による。

念のため一例を示す。突然、停電。暗闇の中で、右往左往する大勢の中から、「だれか懐中電灯を持ってこい!」とわめく者がいる。社長だ。だが混乱の中では、だれもその命令を聞く者はいない。そこへ、これまた突然、ぼうっと灯りがつく。みなその灯りの方を向く。かすかな灯りに今年入社した新入女子社員の小さな手にマッチの火が見える。彼女が裏のリーダーである。このことをじっくり考えたら、リーダーの本質がつかめるはずだ。
 だれしもこうした経験は、大なり小なり幼いときから体験してきているはずなのだ。それを大人になって、「リーダーとはなんぞや」と、頭で考え、本でつかみ、定義に現実をはめ込もうとするから難しくなる。
 
子供の中にすばらしいリーダーがいるが、彼らや彼女たちは本やセミナーで身につけたわけでない。仲間との遊びの中で、体験を通して体得したものである。そもそも「リーダー論」といったタイトルの本やセミナーに強い関心を抱く人は、自分がリーダーとして自信を喪失したときである。
 命令や権威で、人を動かすのは、その人にリーダーとしての素養が乏しいからである。その分を強権や札束やご褒美を上げることでカバーしようとしている。そのことで、自らがリーダー失格者であることを、他者に晒しているのである。

ではその素養の根本にあるものはなにか。
 一つだけ、と言われたら私は「自分一人では生きられない」というをあげたい、「一人では何もできない」ということだ。そもそも他の人の助けを相互に欲している、というところに組織の存立要件があり、その組織を戦略的に動かすための存在としてリーダーが求められる。

 こう考えてみたら、今の国家で長く存続し繁栄する国と、近い将来に滅亡する国家とが浮き彫りにできるはずだ。
 こう考えてみたら、今は繁盛している企業が、これから先も繁栄するのか、消えさるのかも、つかめるはずだ。
 こう考えてみたら この総理総裁が長期に任期を全うするか、短命化も、つかめる。
 こう考えて見たら、自分のことが一番難しいが、それでも今のあり方でいいか、そうではないかは、つかめるはず。

 こう考えてみたら、こう考えてみたら、と一つの仮説を立て、置き換えてみる。そうして仮説の普遍性の有無を検証する。これが学びである。進歩発展思考ではなかろうか、と思う。

 言葉を換えて繰り返す。「人は、自分を自分では持ち上げることはできない」。このことを知るものが、大仰に言えばどう生きていけばいいかを知っている人である。

「雪国」に似合う旅籠「井仙」

2006年12月01日 | Weblog
あの「トンネルを出ると雪だった」(だったかな)の川端康成著「雪国」の越後湯沢にご縁をいただいて、もう14年になる。訪れるたびにいろんな宿にお世話になったが、ここ数年、この「いせん」(改築前)が定宿だ。わがままな私がここをお気に入りと知って世話をしてくれる高村さんが、言わなくても取っておいてくれる。改築前の「いせん」について、「商業界」に、以下のようにご紹介したことがある。

「いせん」
新潟・越後湯沢、駅前の小さなホテル「いせん」では、高齢者の同窓会にターゲットを於いて、閑散期に対応している。この戦略は見事である。またそれをフォローする戦術の細やかさも素晴らしい。同窓会場などでランダムに撮った写真のアルバムをつくり、ロビーにおいてある。販売が目的ではない。別の日に再来館した人たちが、その日のことを懐かしく思い出していただくために、である。
何年か経てリピートしてきたお客にとっては、これを見ての感慨もひとしおである。
 「今、みなカメラ持っている時代だからね。そんなことやることもない」。こうした聞いたようなセリフが先に出る経営者は、結局何もしないダメ経営者なのだ。
 戦略は大胆に、そして戦術はこうした小さなことの積み重ねを、というのが、私が主宰する脳力経営塾のテーマの一つである。私は、「いせん」に泊まるたびに、多くのことを学ばせてもらっている。(前後省略し、要約)

それが、一昨年、HATAGO「井仙」に、生まれ変わった。前の「いせん」を少しでも知っているものに取っては、そのあまりにもの様変わりに驚くであろう。また初めてのお客も、感嘆するだろう。まさにコンセプト、その外観も中も、昔の旅籠そのものなのだ。それでいて、今の良さは大いに生かしている。「旅籠を作りたい。それが私の長い夢でした」、と語る井口さんの話を聞きながら、これぞ私のイメージしていたものだと、私もはたと手を打った。
 お客がこれなら少々高くても、泊まりたい、とする意味での高級化していかないと、急激な入り込み減が続いているこの越後湯沢ではやっていけないだろう、というのが私の持論だったからである。
 詳細は、泊まって体感してもらう以外にないが、さわりはここ→HPでみることができる。
こまかな料金もきちんと公開している。こうしたところにも井口さんの、革新の姿勢が伺える。和風とうたいながら、ホテルと変わらない、ムード破りのフロントもここにはない。
 「雪国」、越後湯沢にもっとも似合う旅籠「井仙」。自分の宿みたいにPRして歩きたくなった。