経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

劇場型

2006年12月07日 | Weblog
かって大勝した。それも党として方針に反逆した者を候補から外す、といったことを、国民の多くが喝采したから、さきの選挙で勝てたのである。このことはその、ことの是非ではなく、「選挙のための安易ななれ合い、妥協を排す」といった、これまでの自民にない論理の明確さ、そして国民にわかりやすい白黒の付け方が支持されたものと理解していい。
 
今度は、その逆だ。これまたことの是非ではなく、前回反対した者が、今度は賛成している。復党したくて賛成した者を、いとも簡単に受け入れた。それも参院の、Aという人物の押しでだ、といううさんくささ、わかりにくさ、そうしたものを国民はひとかたげに「選挙のための安易ななれ合い、妥協」、すなわち以前の体質返り、とみて、またあの小泉政権以前の自民に戻るのではないか、という不安に陥った。
 
 「これからのこと」と「過去のこと」を比較した場合、国民の頭の中における記憶蓄積は、前者にはなく、過去で占められていう。その過去が忌まわしければ忌まわしいほど、その記憶を基に未来を想像する。そうなると、人は未来をバラ色に描けず、むしろ未来に不安や恐怖すら覚える。

 こうして、頭の中での投票の結果、今朝の新聞であったとおり、内閣支持率はさらに低下した。これが支持率低下でとどまればまだ幸い。そこでは絶対にとどまらない。なぜなら率は数字である。数字の多寡、上下には、理由が存在する。その理由は、上に述べたように一種の国民のイメージ、心理的な要素なのである。だからいくらでも心の中で広がったり縮む。今回の場合、広がる原因が明らかにあって、広がっているのであるから、その要因を取り除かない限り、広がり続ける。こうして徐々に、あるいはいっきに国民は、「安倍政権では、結局元に戻ってしまう」という思いになってしあmす。弱体政権と見てしまう。事実がどうかは、国民はわからない。報道をとおしてしかつかめないのだから、報道を通した抽象的なイメージで、「断定」という具体的な行動、形を出すことになる。国民が支えていた手を離す。 このムードを一掃する何かが、でない限り、この「形」が、将来(さき)の近いところでは、参院選の大敗、ひょっとしたらその選挙までに、政権自体が持たない、といったことさえ起きかねない。
 これは、まさにうがった見方という誹りを受けるが、ここにきて元総理が山崎さんと階段。また北朝鮮に行ってもいい、といったのは、この「何か」どと思えないこともない。

 極論を言っているのではない。これまでの政治の歴史上にないぐらい、国民は、政治を、政権を、政治家を「観ている」のである。舞台の彼らの一挙一動を、観ている。ただしあくまでマスコミを通して観ている。つまり「劇場型」に変化しているのである。

 だから、入場料は無料、お気に召さなければ、観客はいつでも席を立つ。気に入れば席は満席になる。だが善きにつけ、悪しきにつけ、観客席に国民がいないでは、政治家はなしようがない。


それを断りなしに、筋書きを変えた。それを国民は、今の政権の「奢り」、と観客席の国民はみた。「のど元過ぎれば、痛さ忘れる?、観客を馬鹿にするな」と、国民は思った。それが今回の支持率低下の背景要因と考える。

 政治の話で書いたが、企業も然り。ちなみに上場とは、そうした舞台に立ってた、ということだ。そういう意識が強くないと、若くして舞台から去る経営者は、今後も多発するだろう。