自らの破滅、所属する企業の破滅を、自ら招くことこそ、自分たちの信条としている、採算の合わない投資は見合わせるという「企業の論理」に合わない、損することではないか、と先に書いた。
そのことは、またその企業に関係する者自身にとっても間尺に合わないことなのだ。そんなことはわかっているのに、その自身がマイナスになることが明白な判断をする。これは自虐、自殺行為ではないかとまで書いた。
その本意は、「俺が、俺が」、「今が、今が」、「今さえよければ」といった戦略眼を忘れた、短絡的な見方しかできない組織人を、皮肉りたかったのである。その意思決定をすることが、短期、中期、長期、将来からみて、どういう影響を自分に、組織に及ぼすだろう、と冷厳に考えたならば、そうした結論には至るはずがない、と申し上げたかった。
そのためには、企業論理に徹せよ、というのが、以下の本稿である。
そうした修羅場な状況で冷厳、冷静な判断が出来るわけはない、という声もあろう。それは当たらない。逆だ。戦略眼が希薄だから冷厳・冷静な判断力が出来ないのである。またそのことは組織的、個人的双方の、夢、目的、目標といったものが希薄であることも大きな理由と考える。
だから企業の論理性から観ても、組織人、経営を担う者としては不的確性ではないか、と。
人は、生きるか死ぬか、いいか、悪いか、得か損か、右か左か、といった択一の意思決定で生きている。このことは脳力開発を学んだものでなくとも自明の理だからわかっていることだろう。
それが出来ていない人、私は、ここではそうした人を不適格者と呼び、そうした人が経営をやっているところが、企業犯罪を起こしている、と縷々述べている。
私たちは、こうした事件の発生のたびに、多言になる。「世の中、馬鹿な連中がいる者だ。結局ばれるのにね」と居酒屋での肴にする。そして自らが当事者になったら口をつぐむ。
こうした繰り返しが、次の不祥事を呼ぶ。
他社・他者を非難することやさげすむだけでは人として、組織人として、あるいは経営者として大きな機会ロス。すなわち「もったいない。
何のためにゼミにでて、学習効果とか意識的観察という言葉を学んだのか。予算を取って先進地、先進企業から学びたいとアメリカまで研修に行ったのか。
だってそうではないか。せっかく身近に他社・他者が、先進事例、反面教師として、一石も二石も投じ、存亡に関わる学習事例を、無料で提供してくれたのである。こうしたことを常に他山の石として、自分の戒めとして、わが身やわが社を振り返って、組織改善を計る、良き体質作り、良き習慣づくりの強化の契機にし、自社が、未来永劫的に存続し続ける(ゴーイングコンサーン)企業の礎(いしずえ)を積み重ねる。投資少なく、益多し。これが企業の論理ではないのか。
また他社、他者での間題を、現実の自分の問題として取り込み、その痛みを感じることを、人の知恵、謙虚さであり、死を誘う魅惑から逃れえる"おまじない"にする。
こうした人として、経営者として、企業としての学びの姿勢、さらに「しぶとさとたくましさ、どん欲さ」といったものが、企業の論理の本意だと、私は思う。
企業論理の根本は、損得である。これ自体は悪ではなく善でもない。むしろ突き詰めて、「ほんとうに、長い目で見てどちらが企業(自分)にとって得なのか。損なのか」の、全社的見極め、そのことの組織内への徹底こそが重要であろう。
組織内にこうした「短期だけでなく、中、長、未来永劫的に間尺に合わないことはやらない」といったメルクマールを周知徹底させることで、インターナル・チェックシステム(内部牽制制度)が機能し、企業犯罪の減少もはかれるのでは、と考えている。
そのことは、またその企業に関係する者自身にとっても間尺に合わないことなのだ。そんなことはわかっているのに、その自身がマイナスになることが明白な判断をする。これは自虐、自殺行為ではないかとまで書いた。
その本意は、「俺が、俺が」、「今が、今が」、「今さえよければ」といった戦略眼を忘れた、短絡的な見方しかできない組織人を、皮肉りたかったのである。その意思決定をすることが、短期、中期、長期、将来からみて、どういう影響を自分に、組織に及ぼすだろう、と冷厳に考えたならば、そうした結論には至るはずがない、と申し上げたかった。
そのためには、企業論理に徹せよ、というのが、以下の本稿である。
そうした修羅場な状況で冷厳、冷静な判断が出来るわけはない、という声もあろう。それは当たらない。逆だ。戦略眼が希薄だから冷厳・冷静な判断力が出来ないのである。またそのことは組織的、個人的双方の、夢、目的、目標といったものが希薄であることも大きな理由と考える。
だから企業の論理性から観ても、組織人、経営を担う者としては不的確性ではないか、と。
人は、生きるか死ぬか、いいか、悪いか、得か損か、右か左か、といった択一の意思決定で生きている。このことは脳力開発を学んだものでなくとも自明の理だからわかっていることだろう。
それが出来ていない人、私は、ここではそうした人を不適格者と呼び、そうした人が経営をやっているところが、企業犯罪を起こしている、と縷々述べている。
私たちは、こうした事件の発生のたびに、多言になる。「世の中、馬鹿な連中がいる者だ。結局ばれるのにね」と居酒屋での肴にする。そして自らが当事者になったら口をつぐむ。
こうした繰り返しが、次の不祥事を呼ぶ。
他社・他者を非難することやさげすむだけでは人として、組織人として、あるいは経営者として大きな機会ロス。すなわち「もったいない。
何のためにゼミにでて、学習効果とか意識的観察という言葉を学んだのか。予算を取って先進地、先進企業から学びたいとアメリカまで研修に行ったのか。
だってそうではないか。せっかく身近に他社・他者が、先進事例、反面教師として、一石も二石も投じ、存亡に関わる学習事例を、無料で提供してくれたのである。こうしたことを常に他山の石として、自分の戒めとして、わが身やわが社を振り返って、組織改善を計る、良き体質作り、良き習慣づくりの強化の契機にし、自社が、未来永劫的に存続し続ける(ゴーイングコンサーン)企業の礎(いしずえ)を積み重ねる。投資少なく、益多し。これが企業の論理ではないのか。
また他社、他者での間題を、現実の自分の問題として取り込み、その痛みを感じることを、人の知恵、謙虚さであり、死を誘う魅惑から逃れえる"おまじない"にする。
こうした人として、経営者として、企業としての学びの姿勢、さらに「しぶとさとたくましさ、どん欲さ」といったものが、企業の論理の本意だと、私は思う。
企業論理の根本は、損得である。これ自体は悪ではなく善でもない。むしろ突き詰めて、「ほんとうに、長い目で見てどちらが企業(自分)にとって得なのか。損なのか」の、全社的見極め、そのことの組織内への徹底こそが重要であろう。
組織内にこうした「短期だけでなく、中、長、未来永劫的に間尺に合わないことはやらない」といったメルクマールを周知徹底させることで、インターナル・チェックシステム(内部牽制制度)が機能し、企業犯罪の減少もはかれるのでは、と考えている。