JA6VQA 日々新たに

趣味のアマチュア無線で海外との交信や写真などを中心に、日々感じることを書き綴ってみます。
 

JA1AN原氏の訃報に接して

2018-06-10 15:36:00 | 6m
 昨夜の21時から大分コンテストが本日の15時まで行われ、50MHzで参加して
みましたが、CQコンテストを連発すれども応答がなく、なんと一ケタの交信に
終わりました。まじめに運用しないためでしょう。こちらの都合のいい時に
CQを出しても、聞いている局はいないものです。朝方弱いESも発生していたようですが
県外局は周南市の1局のみ。とりあえず、参加したよとLOGの提出はしておこう。

 JA1AN元JARL会長の訃報が流れてきました。
 もうハムフェアで車いすを使っておられた姿をお見かけしたのが4,5年前ですが
可なり弱られた感がありました。

 今のJARLが存続しているのも、いってみれば原さんが音頭を取って蓄えた
JARL会館建設、衛星積立金があるから、毎年の赤字分を取り崩して補てんできている
事は間違いありません。
 もう古い話でしょうが、昭和47年にJARLの会長になられ、今の地方本部制と
支部制を敷きました。
 わたしは昭和49年の2回目の戦挙の時支部長に当選し、まだ若気の至りで良く原さん
と支部長連絡会の時いいあったのが思い出にあります。
 車社会が進む中、VHFの運用が盛んになり、JARLの会員もそれこそうなぎ登りに
増加していった時代です。
 朝霧高原での第1回のハムフェア、小笠原への初めての本格的ぺディションなど
色々新しいことに取り組まれました。

 あまりにも会長職に長年勤められましたため、批判もありましたが、本当に
アマチュア無線が好きだったと思います。
 出身が出身だけにその顔がものを言ったのか皇族がJARLの催しに出席されたのもです。
 また郵政省にも顔がきいたと聞いております。
 その顔をまた再び利用しようという試みをしたJARL会長も居ました。
 しかし総通時代になり、お役人の顔ぶれも変わってしまい、あの老人はだれ?と
言われてしまう時代に様変わりしているのが、時代の流れというものでしょう。

 兎に角、余人には到底及びもつかないカリスマ性のあった原さんでした。
 原さんといえばJA6の6をロクといわれるのもくせでした。
 ロクAVの井波さんと副会長だったJA6AV井波さんを呼びましたね。
 昔の局免には六が使われていたためだったのでしょうか。

 偉大な足跡をアマチュア無線界に残された故人のご冥福を祈ります、 合掌。

 
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