ヨブ記 9:1-4
『ヨブは答えて言った、 「まことにわたしは、その事のそのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。 よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることができない。 彼は心賢く、力強くあられる。だれが彼にむかい、おのれをかたくなにして、栄えた者があるか。」』
神様は罪のない者を裁かれない正しいお方であると主張するビルダデに対し、そんなことは私もよく知っているとヨブは反論します。更にヨブは、人の正しさは神の義に優ることがないと答えました。だからこそ人は神様に対して言い開きをしても何一つ反論できないのです。
神様に向かい、自分の方が正しいと主張して逆らうことは愚かなことです。しかし世の人々はこの真理に気付かず、自分本位の考え方で自己正当化しようとします。義なる神様の御前に心を頑なにしてこのような過ちを犯すことのないよう、主の御前に遜ることを学ばせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.9.1-4.ja1955
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ヨブ記 9:10, 12, 14-15
「彼が大いなる事をされることは測りがたく、不思議な事をされることは数知れない。
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見よ、彼が奪い去られるのに、だれが彼をはばむことができるか。だれが彼にむかって『あなたは何をするのか』と言うことができるか。
…
どうしてわたしは彼に答え、言葉を選んで、彼と議論することができよう。 たといわたしは正しくても答えることができない。わたしを責められる者にあわれみを請わなければならない。」
神様のなさる御業はまことに不思議で、人知をはるかに越えた奇跡をも、いとも簡単に成し遂げられます。私たち人間には神様のなさることを止める力などありません。ですから私たちは自分に試練や苦しみが降りかかっても、神様のなさるすべてのことをそのまま受け入れ、自らの正義を主張することなく、主の憐れみを乞い求めるしかありません。
どうして私がこんな目に遭わなければならないのか?と思うのは、自分には何の非もないと自己主張している証拠です。自分には理解できなくとも、納得できなくとも、神様のなさることには間違いがないと信じてありのまま受け入れ、この苦難を乗り越える力を与えてくださいと神様の憐れみを乞い求めさせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.9.10,12,14-15.ja1955
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ヨブ記 9:20-22
「たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、彼はわたしを曲った者とする。 わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。 皆同一である。それゆえ、わたしは言う、『彼は罪のない者と、悪しき者とを共に滅ぼされるのだ』と。」
神様から撃たれたヨブに何かしら罪があるはずだと責め立てる友人たちに対し、ヨブは自分の身の潔白を訴えますが、同時に、たとい自分では正しいと思っていても、自分の知らない罪に気付くことはできないと、自らの無知を告白します。何の罪のない者が故なく悪しき者と共に滅ぼされるのは、自分の罪に気付かないからです。
神様がいるならばどうして災害や戦争などで多くの人々が死ななければならないのか、といって神様を信じようとしない人々がいますが、そもそもそのような考え方自体が神様を認めようとしない罪、自分が正しくて神様が間違っていると反抗する罪なのです。これが単なるヒューマニズムの限界です。天地万物を統べ治められるまことの神様を知る私たちは、このような人間的な考え方に陥ることのないように注意しなければなりません。
http://bible.com/81/job.9.20-22.ja1955
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ヨブ記 9:28-29, 32-35
「わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことをわたしは知っているからだ。 わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。
…
神はわたしのように人ではないゆえ、わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。 われわれの間には、われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。 どうか彼がそのつえをわたしから取り離し、その怒りをもって、わたしを恐れさせられないように。 そうすれば、わたしは語って、彼を恐れることはない。わたしはみずからそのような者ではないからだ。」
裁判では自分一人で自ら罪のないことを立証することはできません。ヨブの罪をあれこれ指摘する友たちに対し、ヨブは自らの身の潔白を立証してくれる仲裁者がいてくれたらよいのに、そうすれば私は神様の前に立って正々堂々と無罪を主張できるのにと嘆きました。
ヨブの嘆きは、私たちには不要です。なぜなら私たちには最高の弁護者であられる主イエス様が共にいてくださるからです。そして神様の御前に無罪を主張するだけでなく、サタンが私たちの知らない証拠をもって責め立てても、イエス様ご自身がその身代わりに十字架についたのだと、最後の切り札となる完全な証拠を提示して弁護してくださいますから、私たちは何者も恐れる必要はありません。このイエス様の御臨在に心から感謝し、どんな試練や迫害をも耐え忍ぶ力とさせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.9.28-29,32-35.ja1955