読売新聞に自分史のことを書いたらという記事があり書いてみました。
色々とブログとして書いてきていますが自分の仕事の歴史というのを考えてみました、最近今までの釣りの
歴史「釣り三昧」として書き始めてますが、これだけ釣りに没頭してこれたというのは、亡き女房のおかげで
あると、日ごろから言ってはいますが、仕事もたくさんしてきました、一時は24時間営業なんて言ってました
その当時を振り返って、この年になるまでに自分の設計した作品を亡き女房と見て歩きたかったのですが
かないませんでした。
特に独立してから主に35年に渡りやってきた、上水と下水の処理施設をどのくらい設計に従事したのか
調べてみたら100カ所近くありました、北は金沢から南は沖縄までで、関東方面はありません。
すべて、コンサルタント会社の協力会社として、当時の下水道事業団などに登録されています。
その中でも一番記憶に残り今までにもない最大の規模の処理場は大阪の津守のポンプ場です。
これは天下の日建設計さんのお手伝いでした、昭和62年から7年近く工事はかかったと思います、規模が
平面が約90m×85mで、地上21m、地下がなんと32mもあり、延べ床面積が35000平米からのものでした。
大きさを説明するときに心斎橋の大丸を例にとり、この建物を地下に埋めた大きさと話していました。
建屋としての規模はこれが最大ですが、一般的な処理場としての最大は高松の水処理場などのほうが
面積的には大きいものがあります、100m×300mの平面で屋上が公園としました、これには大変なエピソードが
ありましたが、また聞いてもらいます。
少しは自分の設計屋としての人生での自慢のものですので見てください。
当時の設計図より
立面図
断面図
この地下の盤の厚みは3mからの所もありました、このぐらいに深くなると海の中にもなるので
建物が浮き上がるのです、水圧というのはものすごいものです、そのためにも重量で対抗して
持たさなければならないために、このように地下が深い工事は水との戦いです。
追記
昨日コメントいただきました、2017年8月22日の書いた小島(児島)氏の所で
写真に続いて男女群島にてお世話になÞぅた田中氏のことを書いたのが児島氏と混同するような
書き方になり済みませでした、その時に田中氏がなくなられたとの事、お世話になった
田中氏のご冥福をお祈りします。