呑む気オヤジ/蔵王山麓蓬莱庵便り

蔵王山麓暮らしのオヤジの日記。合唱も映画もドライブも温泉も、たまには俳句も・・・😄

妻の4回目の命日~八日目の蝉は幸せか?

2011-05-29 | 家族のこと

5月27日は、妻の4回目の命日だった。2007年5月27日の日曜日、午後6時25分。その時から丸4年が経ったということだ。
毎年命日には書いているが、この4年は長かったのか、短かったのか。「あれからいろいろあったのに、まだ4年?」と「昨日のことみたいなのに、もう4年?」という想いが織り交ざった気持ちだ。
でも、この4年間にあったこと、それぞれの夏や冬や春にやってきたことを一つひとつ思い起こせば、やっぱり4年という歳月が確実に過ぎ去ったということで、長くも短くもなく、まさに相応の年月であったのだと思う。
墓参りに行く頻度も少しずつ間が空いてきた。前は毎月行っていたのに、今は2カ月に一度、場合によっては3か月ぶりだったりする。
もちろん家の仏壇には毎朝晩線香をあげて、手を合わせている。でもご飯とお水はたまにしかあげていない。家で夕飯を作らなくなったからなぁ。せめて水は替えてやらないとなぁ。でも、毎朝出勤する時は遺影に向かって「行ってくるよ!」と声を掛けているし、ちゃんと忘れていないから、まぁ許してよね!

妻のいない生活、息子もいなくてほとんど独り暮らしの生活にはもう慣れたが、家の中が荒れ放題になって来たのには参る。まさに自分で掃除・整理をするしかないのだが、自分一人なのだから誰に気を使うわけでもなく、汚れていて文句をいう者もいない。たまに帰ってくる次男もオヤジのことを言えた義理ではないから何も言わず。
誰かがやってくるなどのきっかけがないと、この状況は変わりそうもない。どこかで心機一転気持ちを改めないと、我が家はずるずるとゴミ屋敷化の道を辿りそうだ。妻よ、ゴメン!
さて、チョンガー5年目に突入。今年は、このオヤジのお気楽生活に転機が訪れるのでありましょうか…?
(再婚とかじゃないですよ)


【八日目の蝉は幸せか否か?】
小説「八日目の蝉」の題名の意味は?
蝉は7~8年も土の中にいて、漸く地上に出れたと思ったら7日目には死んでしまう。でも中には、8日目も生きる蝉がいる。仲間がみんな死んでしまって、自分だけ生き残った「八日目の蝉」は幸せなんだろうか。
主人公の恵理菜は「仲間がみんな死んじゃったのに、自分だけが生き残ったらかなしい。見なくていいものも目にすることになる」と考える。しかし、その後いろいろな経緯により(本か映画でご確認ください)、「でも八日目に見るる光景は、そんなにひどいものでもないかもしれない」と思い直す。

そりゃそうです。人生、長生きすることで余計なトラブルや悲しみに巻き込まれることもあるだろう。体が不自由になったり痴呆になって家族に迷惑を掛けるかもしれない。だったらそれなりの年齢で、ぽっくり逝ったほうがどれだけ幸せか…。
でも50歳で逝ってしまった妻は、やっぱり不幸。生きている僕の人生、これから何があるか分からない。必ずしも幸せな結末になるかも分からない。でも、でもやっぱり生きていれば、良いことだってあるんだよ。
今生きていることに感謝して、大事に前向きにやっていかないとね。


追伸)
土曜日は、久しぶりに何も予定がなかった。雨の中、一日遅れの命日の墓参りに行って来た。
「想望」=おもいしたうこと。思慕。
「思慕」=恋しく、なつかしく思うこと。(以上、広辞苑より)
想う、慕う、という言葉が、僕は好きだ。




コメント
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