十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

無我説と輪廻説の矛盾

2021年12月01日 | 一法言

ヤフーの知恵袋でタイトルのような質問があったので、以下の通り回答した。
参考にされたし。

 

仏教は素朴実在論です。世界は認識されたものでできている。だから、正しい認識を持ちなさいとはいうが、論争はしないと言うという立場です。

無我説は説くがあえてバラモン教の有我説を否定しない。それがバラモン教の人達の認識なのですからね。お釈迦さんも元はバラモン教の行者です。

ですから、修行者には解脱を説き、そうでない者には生天(天に生まれること)を説いたのです。
子供には子供の立場に立って話さないと導くことはできません。対機説法です。

そういう甘いところがあるものだから、輪廻説なんてものが残ってしまい、それどころか仏教の中に取り込まれしてまっているのです。

無我だと言ったら、有我じゃないことぐらいは分からなくては駄目でしょうね。
でも、俺がいないというのは分かりにくい話です。ですから、無我と有我と切り替えてやっている、ダブルスタンダードです。
それをお釈迦さんも方便としてやってきたのです。
生天したい人によって仏教教団は支えられてきたのです。
そして今日でも死んでから成仏したい人によって寺は支えられています。
本来、死んでからの生天も成仏も仏教ではありません。

永平寺も道元さんのストイックさで坐禅ばかりやっていたら、どんどん衰退、6代目に瑩山さんが在家寄りの経営方針で立て直したのです。
今の葬式の形式は瑩山さんの発明です。

まあ、無我一本でやってきたら仏教はとっくの昔に消えてなくなっていたでしょう。(笑)

コメント
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