読売新聞の医療サイトyomiDr.の連載を何度もご紹介させて頂いている大津先生のオフィシャルブログ(医療の一隅と、人の生を照らす)1月25日の記事で、「あるブログから~ロッキングチェアに揺られて~さんより」というものを見つけた。
私が20日に書いた記事(直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!)を引用してくださっているのである。
単細胞な私は、三たび(1度目はなんて素敵なグレイトジョブ!、2度目はなんて素敵なグレイトニュース…再び!)、嬉しくて、“木に登っている”ので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
皆さん、こんにちは。大津です。
ヨミドクターの記事『がん患者だって「働きたい」』
について、~ロッキングチェアに揺られて~さんがブログで触れてくださっていますが、実際に体験されている方の言葉として学びとなりましたのでご紹介します。
2015.1.20 直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!
(以下転載)
(以上転載)
貴重なご体験のお話、ありがとうございます。
皆さんもきっと経験があると思いますが、一部の大作家さんを除いて、何かを書いて、著者に反応が感じられるくらいの反響を得るというのはなかなか稀なことなのではないかと思います。
例えば、論文を書かれる方もそうだと思いますが、一生懸命書き上げてようやく専門誌に掲載されても、「おそらくこの存在を知る人はほとんどいないのだろうな」というくらいの感触しか得られないことも少なくないのではないかと思います。
また往々にして、「共感できる」という場合と同様に、「まったく共感できない」という場合こそ、何かひと言伝えたい、と思う動機となることが多いのではないかと思うのです。
すると、結構厳しいご意見のみ頂戴することになったり。それはそれで非常に貴重な経験であり、感謝しています。
そのようなわけで、取り上げて頂けるというのはとても嬉しいことです。
もちろんペタ、いいね、メッセージ、私としてはすべて大変励みになっています。
ありがとうございます。
(転載終了)※ ※ ※
そう、先生が書いておられるとおり、こうして日々ブログを綴りながら全く何の反応もないと、やっぱりちょっと寂しい。閲覧人数や頁は機会的に判る。ああ、これだけの方が見てくださっているんだな、平均してお一人が数ページ閲覧してくださっているのだな、と判るから、その数字が増えていくのは嬉しいものであるが、それでもコメントで実際の声が頂けるのはもっと嬉しい。
そして「共感できる」場合以上に「全く共感できない」場合にこそ伝えたい、一言言わせてということになるのだ、ということが最近良くわかってきた。
私はヘタレなので、あえて共感できないことに一言コメントさせて頂く、までのエネルギーはない。そのまま(ふーん、私はそうは思わないけれど)と読み逃げすることが多いのだけれど、考えてみれば、一言物申す!とあえて厳しいご意見を寄せてくださる方は大切にしなければならないと思う。
もちろん、それは真摯に考えてくださっての物申すであって、ただ相手を傷つけるためのネガティヴコメントではないのは言うまでもないのだけれど。
尤も、そういうものに対していちいち落ち込まないで、上手にスルーする術も身につけてやり過ごさないと、不特定多数の方に対して発信するブログを続けていくのはとても厳しいな、とも思う。
とにかく、取り上げて頂けるということはとても嬉しいことだ。これをお読み頂いている方々は、何かのご縁で辿り着いてくださった方なのだととても感謝している。
書くことはとても孤独な作業だ。そして自分の身を切り刻みながら書くことも多い。もちろん、自分の気持ちを整理する上で書くことはとても大切なことだと思うけれど、やはりこうして発信していながら全く反応がないとそれはそれでつまらない。
だからこそ先生から三たび、こんな大きな励みを頂いて、また頑張って書き続けるぞ、と思う単純な私なのである。
私が20日に書いた記事(直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!)を引用してくださっているのである。
単細胞な私は、三たび(1度目はなんて素敵なグレイトジョブ!、2度目はなんて素敵なグレイトニュース…再び!)、嬉しくて、“木に登っている”ので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
皆さん、こんにちは。大津です。
ヨミドクターの記事『がん患者だって「働きたい」』
について、~ロッキングチェアに揺られて~さんがブログで触れてくださっていますが、実際に体験されている方の言葉として学びとなりましたのでご紹介します。
2015.1.20 直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!
(以下転載)
(以上転載)
貴重なご体験のお話、ありがとうございます。
皆さんもきっと経験があると思いますが、一部の大作家さんを除いて、何かを書いて、著者に反応が感じられるくらいの反響を得るというのはなかなか稀なことなのではないかと思います。
例えば、論文を書かれる方もそうだと思いますが、一生懸命書き上げてようやく専門誌に掲載されても、「おそらくこの存在を知る人はほとんどいないのだろうな」というくらいの感触しか得られないことも少なくないのではないかと思います。
また往々にして、「共感できる」という場合と同様に、「まったく共感できない」という場合こそ、何かひと言伝えたい、と思う動機となることが多いのではないかと思うのです。
すると、結構厳しいご意見のみ頂戴することになったり。それはそれで非常に貴重な経験であり、感謝しています。
そのようなわけで、取り上げて頂けるというのはとても嬉しいことです。
もちろんペタ、いいね、メッセージ、私としてはすべて大変励みになっています。
ありがとうございます。
(転載終了)※ ※ ※
そう、先生が書いておられるとおり、こうして日々ブログを綴りながら全く何の反応もないと、やっぱりちょっと寂しい。閲覧人数や頁は機会的に判る。ああ、これだけの方が見てくださっているんだな、平均してお一人が数ページ閲覧してくださっているのだな、と判るから、その数字が増えていくのは嬉しいものであるが、それでもコメントで実際の声が頂けるのはもっと嬉しい。
そして「共感できる」場合以上に「全く共感できない」場合にこそ伝えたい、一言言わせてということになるのだ、ということが最近良くわかってきた。
私はヘタレなので、あえて共感できないことに一言コメントさせて頂く、までのエネルギーはない。そのまま(ふーん、私はそうは思わないけれど)と読み逃げすることが多いのだけれど、考えてみれば、一言物申す!とあえて厳しいご意見を寄せてくださる方は大切にしなければならないと思う。
もちろん、それは真摯に考えてくださっての物申すであって、ただ相手を傷つけるためのネガティヴコメントではないのは言うまでもないのだけれど。
尤も、そういうものに対していちいち落ち込まないで、上手にスルーする術も身につけてやり過ごさないと、不特定多数の方に対して発信するブログを続けていくのはとても厳しいな、とも思う。
とにかく、取り上げて頂けるということはとても嬉しいことだ。これをお読み頂いている方々は、何かのご縁で辿り着いてくださった方なのだととても感謝している。
書くことはとても孤独な作業だ。そして自分の身を切り刻みながら書くことも多い。もちろん、自分の気持ちを整理する上で書くことはとても大切なことだと思うけれど、やはりこうして発信していながら全く反応がないとそれはそれでつまらない。
だからこそ先生から三たび、こんな大きな励みを頂いて、また頑張って書き続けるぞ、と思う単純な私なのである。