ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2015.1.26 お別れの儀式は誰のものか

2015-01-26 19:54:12 | 日記
 今年は早々から悲しいお別れが続き、お別れの儀式に出席させて頂くにあたって、想うことがあった。
 自分の葬儀はいくら希望を言ったところで、結局のところ、自分で取り仕切ることはできない。自分プロデュースの生前葬でもするなら別だけれど、ということ。
 つまるところ、遺された方たちによる遺された方たちの為のお別れの儀式なのだろうな、と思う。

 クリスチャンでもないけれどクリスマスケーキは頂くし、仏教徒でも神道でもないけれど、神社仏閣にはお参りする私。
 実家も夫の実家もそれぞれ仏教だし、これまで記憶にある限り親族縁者の葬儀は全て仏式だった。
 このまま私が何も言わなければ、夫の郷里の菩提寺のご住職にこちらまでご足労頂き、戒名を頂き、お経をあげて頂くのだろう。
 だが、私のように世俗まみれな存在、戒名を頂いたところで仏様になど到底近づけそうにない。
 50数年生きてきた俗名のままで良いし、特定の宗教に拘らず、好きなお花と好きな音楽に囲まれて、親交のあった方たちにいらして頂ければそれで十分なのだけれど、と言ったのだが、やはり夫は困っている様子である。

 では、位牌はどうする、仏壇に入れていいのか、その時に俗名のままでいいのか、などなど。うーん、確かに戒名を頂いていないで仏壇には入れないだろうから、ならば家のちょっとしたスペースに写真でも置いてもらえればそれで十分、などと答えていたのだけれど。

 親しい親戚が殆ど住んでいない、夫の郷里にあるお墓に一人で入るのは切ないし、何しろ夫や息子にお参りに来てもらうのも難しいだろう、ということで再発が判ってまもなく、夫と息子の代位までは入ることが出来るものは準備してある。 出来上がった時は、正直やっぱりまだこの暗い穴の中には入りたくないな、と思ったし、今やすっかり図々しく、備えあれば憂いなし、用意していればなかなか使わないもの、とまで呑気に考えている。
 墓石にはそのままの名前を書いてもらえば良いと言ったのだが、じゃあ、俺はどうするのかな?ときた。先日、夫は叔父の一周忌から帰ってきて「聞いてもわからないお経を聞かされるは苦痛だし、そんなものがなければ成仏できないっていうのも変だよな」と、私の話が分からないでもないらしい。
 それでも、夫は郷里の菩提寺では墓守の長男である。夫がそこで「戒名はいりません、住職にお越し頂かなくても結構です」とまでは言えないだろう。そして、同じお墓に入る時に、方や戒名、方や俗名というのもバランスが悪いのだろうか。

 こう考えてみると、そうそう自分の我儘だけは通せないのかなとも思う。
 もちろん菩提寺を持たず、葬儀の時に初めて来て頂く一回ぽっきりのお坊さんに、積んだお金レベルの戒名を頂き、それっきり・・・というケースも多々あるのだろう。
 それに比べれば、私はご住職とはこれまでに何度もお目にかかっているから、この人誰だっけということはないのだろうけれど。

 余計なことは考えず、特に主張せず、遺された人たちが気の済むようにお願いします、と言ってしまった方が世話なしなのだろうか。
 お別れの儀式を完全に仕切ることなど、とても出来ないだろう。けれど、どこまで本人の希望が通せるものなのか、どこまでお任せしてよいものなのか、答えはなかなか出そうにない。

 とりあえず希望だけは聞いておく、出来るだけ叶えるようにするよ、と言ってくれる夫には感謝なのだけれど。お経を読んで頂きながら、結婚式の時のように好きな音楽をバックミュージックに、というわけにはいかないのだろうな、とぼんやり想っている。

 あっという間に1月も最終週になった。仕事も第四四半期の繁忙期に突入。朝から夕方まで会議やら来客やらで、息をつく暇もなかった。
 今日は日中とても暖かかったけれど、また夜半からお天気が崩れる模様。とはいえ、日が長くなってきたのがとても嬉しい。春が一日一日と近づいているのを感じる。甘味好きの夫が出張帰りに買ってきてくれたお土産は鶯餅と桜餅。眼も舌も、体中が“春よ来い”という気分である。
コメント (4)
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