三たび、読売新聞の医療サイトから、長文であるが、高野先生のコラムをご紹介したい。
※ ※ ※(転載開始)
がんと向き合う~腫瘍内科医・高野利実の診察室~2012年10月17日
がんを小さくするより重要なもの
今から13年前、私が研修をしていた病院に、他の病院で治療中の乳がんの患者さんが受診されました。私が外来で対応したのですが、今から思うと、これが私にとって、最初の「セカンドオピニオン外来」でした。
Oさんは、当時59歳。49歳で乳がんと診断され、右乳房を切除する手術を受けたあと、10年近くは何事もなく過ごしていましたが、4か月前に骨転移がみつかり、放射線治療を受けている間に、肝臓にも転移がみつかりました。
担当医は、「末期がん」と説明し、「あと何年生きられますか?」と聞いたOさんに対して、「年ではなく、月単位です。6か月ももたないかもしれない。治療しなければ1か月か2か月ですよ」と告げたそうです。
Oさんは、どん底に突き落とされたような気持になりながら、自分が世を去った後のことを考え、自分の思い出につながるもの、たとえば、アルバム、洋服、身の回りの持ち物などを一斉に処分し、自分のお墓も用意してから、担当医の提示した抗がん剤治療に臨みました。
行われたのは、乳がんに対して広く使われている標準的な抗がん剤治療でしたが、Oさんは、この治療で、「体が溶けるような苦しみ」を味わいます。「人が死ぬというのは、こういうことなのか」と思ったそうです。
迫りくる「死」への恐怖と不安に、治療の苦しみが加わり、先が見えない闇の中をただもがいている感じでした。治療の意味や副作用の対処法の説明があれば、よりどころになったのかもしれませんが、それもなく、次々と起こる副作用で心も体も疲れ果てていたそうです。
結局、この抗がん剤治療の効果は認められず、担当医から、抗がん剤を変更すると告げられました。そして、次の治療のために入院する前日になって、意を決して私の病院にやってきたのでした。
Oさんは、思い詰めた表情で、深い悲壮感を漂わせていました。これまでの経過を一通りうかがったあとで、私は、担当医の提示した治療が、標準的なものであることを説明し始めましたが、Oさんは、いわば「パニック状態」で、私の言葉一つ一つに過敏に反応しました。「私は末期なんです」「もう1~2か月の命しかないって言われてるんですから・・・」。
Oさんは、医療によって深い傷を負っていました。ただ、よく話をうかがってみると、がんそのものによる症状はほとんどありませんでした。私は、具体的な治療方針を説明するよりも前に、がんじがらめになったOさんの気持ちをほどく必要があると感じました。たまたまその日は、時間に余裕があったため、私は、数時間にわたってOさんとお話しました。
私からは、必ずしも切羽詰まった状況ではないこと、治療は、がんとうまく長くつきあうために受けるものだということなどを説明し、納得できていない治療は受けなくてもよいのではないかとアドバイスしました。
結局、Oさんは、予定されていた入院を断り、私の外来に通うことになりました。2週間後、私の外来に来た0さんは、見違えるような明るい笑顔で、身も心も軽くなったと語ってくれました。
事実上、標準的な治療をやめさせたわけですので、腫瘍内科医として正しい行為とは言えないかもしれませんが、私は、この2週間で得られた「効果」を目の当たりにして、抗がん剤でがんを小さくする効果よりも重要なものがあることを実感しました。
その後、Oさんは、ご主人が赴任していたブラジルに行き、自らの人生を再び歩み始めました。アルゼンチンの大平原や南極の氷河へも旅行に出かけ、その様子は、メールで頻繁に報告がありました。
しかし、ブラジルに行ってから数か月たった頃、それまでになかった痛みが出てきて、骨転移の悪化とわかり、Oさんは急きょ帰国します。それ以後は、私の外来や入院で、痛みのコントロールなどの緩和ケアを行いました。帰国から半年の間、全身状態は少しずつ悪化していきましたが、ご家族の献身的なケアもあって、ご自宅で多くの時間を過ごされました。
そして、「あと1~2か月の命」という言葉でどん底に突き落とされてから15か月たった秋の日、ご家族に見守られながら、安らかに息を引き取りました。
抗がん剤治療をやめたことが、Oさんの命を長くしたのか、短くしたのかは、誰にもわかりません。でも、生きた時間の長さ以上に、その時間の意味が重要なのだということは、Oさんの笑顔が教えてくれた気がします。
(転載終了)※ ※ ※
再発抗がん剤治療に何を求めるか、である。
その目指すところはもはや完治ではない、少しでもQOLを保ちながら、普通の生活を出来る限り長く続けること、である。となると、今私がやっているこのきつい抗がん剤治療は何のためか、と考え込んでしまう。言わずもがなであるが、抗がん剤はがんだけを叩くのではない。正常細胞も容赦なく徹底的にやっつけてくれる。1回投与すれば、ほぼ1週間は全く使いものにならない。さらにはその翌週・翌々週にわたって白血球が下がって、発熱による緊急入院、というおまけまでついてくるかもしれない。となると、1投2休のうち元気でいられるのは一体何日なのか。
今回のEC治療は最低4クール、出来れば6クールと言われているからこそ、何とか頑張ろう、と思うのであって、では、効いているうちはずっとやりましょう、というエンドレスの治療が提示されているとしたら・・・。情けないかもしれないが、私にはとても無理だ、と思う。軟弱かもしれないけれど、この生活がこの後延々と続いたら、普通の生活はおろか、生きる喜びはどこへやら、である。
家族は出来るならもっと頑張ってほしい、と言うかもしれない。けれど、私はもう勘弁してほしいというのが正直なところだ。
前回のタキソテールでも6クール。後半は殆ど廃人のようになりながら治療を終えた。けれど、そうまでしたけれど、両肺の影は薄くはなりはしても消えることはなかった。その後、ホルモン治療とハーセプチン、ゾメタだけの治療が出来たのは、ホルモン剤を変えながら粘りに粘ってみたものの、結局、僅か1年ちょっとだった。1年経たずしてマーカーはしっかり上がりだしたのだから。
つまり、半年の休職期間プラスその後延々と続いた副作用の手足の痺れや脱毛や浮腫、手足の爪の脱落という対価を払って手にすることが出来た少し穏やかな治療生活は1年ちょっと。全く使いものにならなかった時間を引けば、正味半年にも満たない時間。
それをもってどう思うか、は、人様々だろう。もちろんどんな状況であろうと「生きている」ということに価値を見出すならそれでもよいかもしれない。けれど、最初に抗がん剤を投与した時とは違うことが今回明らかになっている。その後、ナベルビンを1年9カ月続けたことで間違いなく私の骨髄は弱ってきているのだ。夏の間、しっかり3カ月休薬したはずなのに。この後、私の骨髄機能が一体どれだけ持つかどうかわからない。
となれば、半年永らえるために半年以上の時間を犠牲にすることは果たしてどうか、と考え込んでしまうのだ。もちろん、初発の場合なら完全に叩けば完治するかもしれない。目的が全く違う。完治するならば頑張れる、かもしれない。
まだ、答えは出ていない。そしてまだ答えを出す段階でもないとは思っている。けれど、頑張りすぎないで休むという選択肢を入れて行かないと、先行きはかなり厳しいと思うようになっている。
昨夜は気持ち悪さより空腹が勝って、塾帰りの息子も待てずに、夫にあれも食べたい、これも食べたいとリクエストするほどだった。かといって、委縮してしまった胃がいきなり大量の食べ物を受け付けてくれるわけでもない。けれど、とにかく食欲が出てきたのは大きな進歩だ。
早く寝たが、夜中に2度ほどお手洗いに起き、やはり空腹で眼が冴えてしまう。
結局、今朝も1時間半ほどベッドでぐずぐずした後、目覚ましを消してからリビングへ。お弁当を作って、横にならずにそのまま食卓に付けたのも大きな進歩だ。青汁が飲めない程度の気持ち悪さは残っているけれど、それ以外はナウゼリンの助けも借りずに、しっかり朝食を摂ることが出来た。
お昼も久しぶりに学内レストランで友人と一緒に楽しむことが出来た。見上げれば外は日差しが降り注ぎ、本当にいいお天気。気付けば、今週初めて学内を上を向いて歩いたように思う。青空と色づき始めた銀杏の黄色のコントラストが美しい。これから濃淡の赤も加わって、学内は紅葉の季節になる。来月頭の大学祭の頃が一番のシーズンだ。が、その頃は残念ながら予定通りに行けば第3回の投与とバッティングする。
午後は2時間早退して、病院へ急いだ。
外来の受付時間ぎりぎりに入れば、化学療法室でG-CSF(グラン)の注射だけしてもらえる。注射1本のために病院往復3時間はきついと言えばきついが、いきなり別の病院に飛び込むわけにもいかない。この後また発熱して緊急入院などということになったら目も当てられない。とにかく出来る対策は、全てする。明日からは抗生剤クラビットの服用も開始だ。
残っていた前髪を触ると、またひょろひょろと抜け出した。2回の投与でいよいよマルコメか。今のところ爪の変色や脱落はないけれど、手指がどす黒く色素沈着してきた。自慢の白魚の指だったのに(すみません。ちょっと言ってみたかっただけです・・・。)
そして目下の目標は、明後日日曜日の校友会音楽祭の本番ステージに乗ることだ。
※ ※ ※(転載開始)
がんと向き合う~腫瘍内科医・高野利実の診察室~2012年10月17日
がんを小さくするより重要なもの
今から13年前、私が研修をしていた病院に、他の病院で治療中の乳がんの患者さんが受診されました。私が外来で対応したのですが、今から思うと、これが私にとって、最初の「セカンドオピニオン外来」でした。
Oさんは、当時59歳。49歳で乳がんと診断され、右乳房を切除する手術を受けたあと、10年近くは何事もなく過ごしていましたが、4か月前に骨転移がみつかり、放射線治療を受けている間に、肝臓にも転移がみつかりました。
担当医は、「末期がん」と説明し、「あと何年生きられますか?」と聞いたOさんに対して、「年ではなく、月単位です。6か月ももたないかもしれない。治療しなければ1か月か2か月ですよ」と告げたそうです。
Oさんは、どん底に突き落とされたような気持になりながら、自分が世を去った後のことを考え、自分の思い出につながるもの、たとえば、アルバム、洋服、身の回りの持ち物などを一斉に処分し、自分のお墓も用意してから、担当医の提示した抗がん剤治療に臨みました。
行われたのは、乳がんに対して広く使われている標準的な抗がん剤治療でしたが、Oさんは、この治療で、「体が溶けるような苦しみ」を味わいます。「人が死ぬというのは、こういうことなのか」と思ったそうです。
迫りくる「死」への恐怖と不安に、治療の苦しみが加わり、先が見えない闇の中をただもがいている感じでした。治療の意味や副作用の対処法の説明があれば、よりどころになったのかもしれませんが、それもなく、次々と起こる副作用で心も体も疲れ果てていたそうです。
結局、この抗がん剤治療の効果は認められず、担当医から、抗がん剤を変更すると告げられました。そして、次の治療のために入院する前日になって、意を決して私の病院にやってきたのでした。
Oさんは、思い詰めた表情で、深い悲壮感を漂わせていました。これまでの経過を一通りうかがったあとで、私は、担当医の提示した治療が、標準的なものであることを説明し始めましたが、Oさんは、いわば「パニック状態」で、私の言葉一つ一つに過敏に反応しました。「私は末期なんです」「もう1~2か月の命しかないって言われてるんですから・・・」。
Oさんは、医療によって深い傷を負っていました。ただ、よく話をうかがってみると、がんそのものによる症状はほとんどありませんでした。私は、具体的な治療方針を説明するよりも前に、がんじがらめになったOさんの気持ちをほどく必要があると感じました。たまたまその日は、時間に余裕があったため、私は、数時間にわたってOさんとお話しました。
私からは、必ずしも切羽詰まった状況ではないこと、治療は、がんとうまく長くつきあうために受けるものだということなどを説明し、納得できていない治療は受けなくてもよいのではないかとアドバイスしました。
結局、Oさんは、予定されていた入院を断り、私の外来に通うことになりました。2週間後、私の外来に来た0さんは、見違えるような明るい笑顔で、身も心も軽くなったと語ってくれました。
事実上、標準的な治療をやめさせたわけですので、腫瘍内科医として正しい行為とは言えないかもしれませんが、私は、この2週間で得られた「効果」を目の当たりにして、抗がん剤でがんを小さくする効果よりも重要なものがあることを実感しました。
その後、Oさんは、ご主人が赴任していたブラジルに行き、自らの人生を再び歩み始めました。アルゼンチンの大平原や南極の氷河へも旅行に出かけ、その様子は、メールで頻繁に報告がありました。
しかし、ブラジルに行ってから数か月たった頃、それまでになかった痛みが出てきて、骨転移の悪化とわかり、Oさんは急きょ帰国します。それ以後は、私の外来や入院で、痛みのコントロールなどの緩和ケアを行いました。帰国から半年の間、全身状態は少しずつ悪化していきましたが、ご家族の献身的なケアもあって、ご自宅で多くの時間を過ごされました。
そして、「あと1~2か月の命」という言葉でどん底に突き落とされてから15か月たった秋の日、ご家族に見守られながら、安らかに息を引き取りました。
抗がん剤治療をやめたことが、Oさんの命を長くしたのか、短くしたのかは、誰にもわかりません。でも、生きた時間の長さ以上に、その時間の意味が重要なのだということは、Oさんの笑顔が教えてくれた気がします。
(転載終了)※ ※ ※
再発抗がん剤治療に何を求めるか、である。
その目指すところはもはや完治ではない、少しでもQOLを保ちながら、普通の生活を出来る限り長く続けること、である。となると、今私がやっているこのきつい抗がん剤治療は何のためか、と考え込んでしまう。言わずもがなであるが、抗がん剤はがんだけを叩くのではない。正常細胞も容赦なく徹底的にやっつけてくれる。1回投与すれば、ほぼ1週間は全く使いものにならない。さらにはその翌週・翌々週にわたって白血球が下がって、発熱による緊急入院、というおまけまでついてくるかもしれない。となると、1投2休のうち元気でいられるのは一体何日なのか。
今回のEC治療は最低4クール、出来れば6クールと言われているからこそ、何とか頑張ろう、と思うのであって、では、効いているうちはずっとやりましょう、というエンドレスの治療が提示されているとしたら・・・。情けないかもしれないが、私にはとても無理だ、と思う。軟弱かもしれないけれど、この生活がこの後延々と続いたら、普通の生活はおろか、生きる喜びはどこへやら、である。
家族は出来るならもっと頑張ってほしい、と言うかもしれない。けれど、私はもう勘弁してほしいというのが正直なところだ。
前回のタキソテールでも6クール。後半は殆ど廃人のようになりながら治療を終えた。けれど、そうまでしたけれど、両肺の影は薄くはなりはしても消えることはなかった。その後、ホルモン治療とハーセプチン、ゾメタだけの治療が出来たのは、ホルモン剤を変えながら粘りに粘ってみたものの、結局、僅か1年ちょっとだった。1年経たずしてマーカーはしっかり上がりだしたのだから。
つまり、半年の休職期間プラスその後延々と続いた副作用の手足の痺れや脱毛や浮腫、手足の爪の脱落という対価を払って手にすることが出来た少し穏やかな治療生活は1年ちょっと。全く使いものにならなかった時間を引けば、正味半年にも満たない時間。
それをもってどう思うか、は、人様々だろう。もちろんどんな状況であろうと「生きている」ということに価値を見出すならそれでもよいかもしれない。けれど、最初に抗がん剤を投与した時とは違うことが今回明らかになっている。その後、ナベルビンを1年9カ月続けたことで間違いなく私の骨髄は弱ってきているのだ。夏の間、しっかり3カ月休薬したはずなのに。この後、私の骨髄機能が一体どれだけ持つかどうかわからない。
となれば、半年永らえるために半年以上の時間を犠牲にすることは果たしてどうか、と考え込んでしまうのだ。もちろん、初発の場合なら完全に叩けば完治するかもしれない。目的が全く違う。完治するならば頑張れる、かもしれない。
まだ、答えは出ていない。そしてまだ答えを出す段階でもないとは思っている。けれど、頑張りすぎないで休むという選択肢を入れて行かないと、先行きはかなり厳しいと思うようになっている。
昨夜は気持ち悪さより空腹が勝って、塾帰りの息子も待てずに、夫にあれも食べたい、これも食べたいとリクエストするほどだった。かといって、委縮してしまった胃がいきなり大量の食べ物を受け付けてくれるわけでもない。けれど、とにかく食欲が出てきたのは大きな進歩だ。
早く寝たが、夜中に2度ほどお手洗いに起き、やはり空腹で眼が冴えてしまう。
結局、今朝も1時間半ほどベッドでぐずぐずした後、目覚ましを消してからリビングへ。お弁当を作って、横にならずにそのまま食卓に付けたのも大きな進歩だ。青汁が飲めない程度の気持ち悪さは残っているけれど、それ以外はナウゼリンの助けも借りずに、しっかり朝食を摂ることが出来た。
お昼も久しぶりに学内レストランで友人と一緒に楽しむことが出来た。見上げれば外は日差しが降り注ぎ、本当にいいお天気。気付けば、今週初めて学内を上を向いて歩いたように思う。青空と色づき始めた銀杏の黄色のコントラストが美しい。これから濃淡の赤も加わって、学内は紅葉の季節になる。来月頭の大学祭の頃が一番のシーズンだ。が、その頃は残念ながら予定通りに行けば第3回の投与とバッティングする。
午後は2時間早退して、病院へ急いだ。
外来の受付時間ぎりぎりに入れば、化学療法室でG-CSF(グラン)の注射だけしてもらえる。注射1本のために病院往復3時間はきついと言えばきついが、いきなり別の病院に飛び込むわけにもいかない。この後また発熱して緊急入院などということになったら目も当てられない。とにかく出来る対策は、全てする。明日からは抗生剤クラビットの服用も開始だ。
残っていた前髪を触ると、またひょろひょろと抜け出した。2回の投与でいよいよマルコメか。今のところ爪の変色や脱落はないけれど、手指がどす黒く色素沈着してきた。自慢の白魚の指だったのに(すみません。ちょっと言ってみたかっただけです・・・。)
そして目下の目標は、明後日日曜日の校友会音楽祭の本番ステージに乗ることだ。