ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.8.22 冷蔵庫のありあわせ

2010-08-22 12:47:41 | 日記
 先日、村上春樹さんの本を読んでいて、とても腑に落ちた比喩があった。
 齢をとっていくということは、冷蔵庫の中のありあわせの材料で文句を言わずに美味しいものを作ること。本当にそうだ、と思う。

 ありあわせで美味しいものが作れるのは主婦(当然、主夫でもよいのだが)の強みだとも思う。日常生活において3度3度の食事作りに際し、レシピどおりに全て材料を揃えて作り続けるのはなかなか敷居が高いこと。もちろん必須の食材が欠けては成り立たない料理は沢山あるだろうけれど、それ以外の食材をちょっとしたアレンジで使って、思いもかけずに美味しいものが作れた時は結構幸せだ。(もちろん失敗することもあるが・・・。)

 確かにお金にも時間にも糸目をつけず、レシピ通りの材料をふんだんに使って時間をかけて料理すれば、美味しいものが作れるに決まっている。しかし、人生、だんだんそうはいかなくなる。だからこそ、今、あるもの=つまり今ある自分の状況、若い時とは気力も体力も劣るかもしれないけれど、そして何かしらの病気やウィークポイントを抱えているかもしれないけれど=で、これまでの経験をエッセンスに作る。そして若い時には出せなかったであろう自分らしい味を出す。もちろん、ただのんべんだらりとありあわせの材料を受け入れて甘んじるのではなく、出来るだけ自分の中のありあわせ度を高めておくことは必要、ということなのだろうと思う。

 それと同じことなのだと思った。
 今ある自分-ありあわせの材料-を受け入れて、それでも前を向いて生きて-果敢に料理して-いく。
 冷蔵庫の中のありあわせが一体どんなものになっているかは、これまで自分がどう生きてきたかによるのだろうし、今後ありあわせがより使い勝手がいいものになるか、使いにくいものになるか、も結局これからの自分の生き方次第なのだと思う。

 期せずして生涯付き合うことになった病も、人生という料理の貴重なエッセンスになりうるかもしれない。

 昨朝訪れた東京カテドラル聖マリア大聖堂で献金に際して頂いた言葉。おみくじのように細長い紙が丸められてリングで止められていた。上は私が頂いたもので、下が夫である。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命にいたる。」              (ヨハネによる福音書12章24節、25節)

「私は世の光である。
 私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
                         (ヨハネによる福音書 8章12節)

 それでも、私は自分の命は憎めないなあ、と思う。たとえ冷蔵庫のありあわせのような余生でも・・・。
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