2001年9月11日のことはよく覚えている。その時、おいらは失業者だった。その夜、10時からのNHKのニュース番組で、ツインタワーへの2番目の航空機突入が、生放送された。それをおいらは見た。並び立つビルに2機も航空機が衝突にしているのに、これはテロだ、という確信にはすぐにはいたらなかった。でも「特攻機」というイメージはすぐ湧いて、ネットの掲示板に「カミカゼごっこかよ~」と書きこみした。おいらは米国にふくむところがある。というかそんなもってまわった言い回しをすることもなく、直截に言って、対米ルサンチマンを抱えている。それでも、テロとわかった後も「ざまぁ~みろ」とは特に思わなかった。「あ~なんか世の中まわってるよね」、って感じ。「歴史の終わり」とか、やはりありえないじゃんって気持ち。当時は既に『文明の衝突』も『ジハード対マックワールド― 』も出ていた。 (ちなみに、おいらは、両方ともカナダにいた時買った。後者は表紙(こんなの)に引かれて買った。その点訳書はその表紙が使われていないので、インパクトが薄い。)
失業していたので丸一日部屋にいた。当時の報道番組とかの記憶はあまりない。ただ、事件翌日、筑波山麓に来て初めて、FENを自覚的に聞くと、warning! warning! warning!でけたたましかったことを今思い出した。
失業者になったのは2001年3月末でポスドクの任期が切れたからである。10年前は35歳の壁が歴然としていたので、次がなかった。もちろんそれまでパーマネントの研究職の公募には応募していた。採用されることはないまま、ポスドクの任期が切れた。"この業界"においらは不要であるという現実に直面したわけだ。そういう現実に対し、やはりアタマおかしいと思わざる得ないおいらは「そうですか、おいらがいなくて"その業界”がやっていけるならどうぞ」と憤激して、業界を去ることを決断した。
当然、"故郷の業界"はおいらなぞいなくてもなんらかわらず順調だった。あたりまえだ。(さらには数年後業界で世紀の大発見が起き、業界は新時代を迎えた。おいらの活躍する余地なぞない。でも、新時代前からの世紀の大発見に貢献しなかったパーマネントの研究者は、新時代を切り開けなかった責任を取らされるわけでもなく、世紀の大発見の知見と技術を分配されて、ぬくぬくとやっているのだ。うらやますぃ。)
さて、その業界引退の憤激には伏線があった。それは学位を取った頃に出たある文章であり、これは、と思いずっと手元に置き、ポスドク時代にもたまに読み返していた。その文章には例えばつぎのようなことが書いてある;
たかが、博士の学位を取得したからといって、日本社会は、自分に研究を続けさせるべきあるといううぬぼれた感じを持ってはいけない。教授は、そのような感覚を学生に持たせてはいけない。学位取得は、いろいろな場で実力を発揮する基礎資格を獲得したにすぎないことを弁えさせるべきである。どのような場に置かれても、自分の専門研究で培われた能力を発揮できることがらはあるはずである。それを見つけ、問題に取り組み、所属する組織に貢献することが大切である。自分のために社会があるのではなく、社会のために自分がある。それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。文筆業、芸術家、発明業など好きなことを存分にすればよい。逆に、それだけの実力がないなら、組織の研究要請に従うか、職を変えるべきである。 (坂元 昂、「若手研究者者における研究マインドの確立」1996年、学術月報 vol.49 No4 p451-454)
別においらは必ずしもこの文章の主旨に殊勝にも賛同していたわけではない。でもすごい正論だよね。それがうれしくてずっと手元においといた。そして、今もある。なにより、その時は、それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。という挑発に非常に反応したのだ。ポスドク任期切れの断末魔におかれ、税金使ってるパーマネントの奴らがどれだけのことをやっているんだ!と憤激した。”故郷の業界”から袖にされた現実の前で、やはりアタマおかしいおいらは、「"自ら恃むところ頗る厚い"」ので、すがりつくのも癪であり、未練がましくもあるので、次のようにすることにした;
それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。 そうですか!それでは自分の能力一つで社会に立ち向かってみせましょう!と決意したのだ。
それはちょうど、親の叱責を平静な心で耐えることのできない少年や青年たちが、逃避して軍隊にはいり、家庭的にはいり、家庭的な幸福や父親の忠告より戦争 の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるのにも似ている。(スピノザ、『エチカ』)
これが、Across a Death Valley with Distillated Resentment の縁起である。その底の浅さには、ずぶんでも驚く。
■失業して半年くらいはメーカーを中心として普通の日本の会社に就職活動をした。50くらい応募したが、書類選考以前でだめ。略式の履歴書の選考ではねられた。本式の履歴書を見てくれたのは外資の3社のみ。今だから言うと、サムソンと名前忘れた台湾の会社とオランダのフィリップス。面接まで行ったのはフィリップスだけ。結局落ちた。
from 博士の異常な卒業 または私は如何にして心配するのを止めて就職活動をするようになったか [現在リンク切れ]
▼で、失業後半年の就職活動の結果をうけて、「普通の日本の会社に就職」できないと気付く。2001年の9.11テロ事件はそんな時の事件だった。"故郷の業界"からばかりではなく、産業技術界からも「いらない人間です」と判断されたのだ。失業後半年のこの就職活動中はそんなに上記の「戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受ける」という気持ちは強くなかった。でも、これだけ該当世間に袖にされると、自分の能力一つで社会にたち向かえばよいという憤然たる気概が湧いてきて、戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるということになってきた。
●秋からは日雇いにでることにした。文字通りの「皿洗い」をやった。一生、「皿洗い」をやって生きていこうと思った。でも、よわっちぃおいらにはできなかった。
2001年の暮れの頃、人材募集情報で「ベンチャー」の会社を見つけ、応募した。2002年4月から働くことになった。日本で「ベンチャー」といえば当然(?)ブラックである。ちなみに、このあと今に至るまで、バイト先はずーっとブラック企業である。それも超ブラック企業だ。今のバイト先のブラック企業はここ1年に、ニュースのトップに来る不祥事を2件もやっている。そして、2002年から働いた「ベンチャー」の会社/親会社は、極超ブラック企業。政府を巻き込み、社長が辞任する不祥事で有名。でも、これら超ブラック企業は、「人をひとり殺せば殺人者だが、戦場で数千人殺せば英雄だ」といわんばかりに、ぬっぽんに君臨している。 (もっとも、D・フリードマンによれば、「国家」は社会で最大の犯罪者集団である、とのことなので、やはり食税研究者さまが一番のブラックということだ。うらやますぃ。)
このブラック・ベンチャーこそ、今に至るまでおいらに、戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるという機会を与えてくれているのだ。 Living well is the best revenge. 思いもしなかったのがIndian serviceで、タージマハルに行けた(愚記事;憧れのタージマハル)。そういえば、9.11テロの3年後のワシントンも行った。ワシントンは3~4泊したなぁ。結構、歩いた。
愚記事;ワシントン散歩⑧:北米出張30
■復讐の方法、あるいは、Living well is the best revenge.
復讐/報復の方法の選択は重要だ。米国は9.11で被害を受けた上、イスラムにこういう復讐をしたので、将来も安心して枕を高くして眠れないだろう。
やはり、復讐/報復の方法の選択は重要だ。
■リンク;
ブラック企業でもブラック研究室よりはマシ
関連愚記事; この「子」の50のお祝いに、あるいは、死んだ子の年を数える。