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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

2001年 9.11、米国同時多発テロ事件、十年ひと昔。あの時おいらは失業者で、death valleyのとば口だった。

2011年09月11日 12時35分38秒 | ぐち

2001年9月11日のことはよく覚えている。その時、おいらは失業者だった。その夜、10時からのNHKのニュース番組で、ツインタワーへの2番目の航空機突入が、生放送された。それをおいらは見た。並び立つビルに2機も航空機が衝突にしているのに、これはテロだ、という確信にはすぐにはいたらなかった。でも「特攻機」というイメージはすぐ湧いて、ネットの掲示板に「カミカゼごっこかよ~」と書きこみした。おいらは米国にふくむところがある。というかそんなもってまわった言い回しをすることもなく、直截に言って、対米ルサンチマンを抱えている。それでも、テロとわかった後も「ざまぁ~みろ」とは特に思わなかった。「あ~なんか世の中まわってるよね」、って感じ。「歴史の終わり」とか、やはりありえないじゃんって気持ち。当時は既に『文明の衝突』も『ジハード対マックワールド― 』も出ていた。 (ちなみに、おいらは、両方ともカナダにいた時買った。後者は表紙(こんなの)に引かれて買った。その点訳書はその表紙が使われていないので、インパクトが薄い。)

失業していたので丸一日部屋にいた。当時の報道番組とかの記憶はあまりない。ただ、事件翌日、筑波山麓に来て初めて、FENを自覚的に聞くと、warning! warning! warning!でけたたましかったことを今思い出した。

失業者になったのは2001年3月末でポスドクの任期が切れたからである。10年前は35歳の壁が歴然としていたので、次がなかった。もちろんそれまでパーマネントの研究職の公募には応募していた。採用されることはないまま、ポスドクの任期が切れた。"この業界"においらは不要であるという現実に直面したわけだ。そういう現実に対し、やはりアタマおかしいと思わざる得ないおいらは「そうですか、おいらがいなくて"その業界”がやっていけるならどうぞ」と憤激して、業界を去ることを決断した。

当然、"故郷の業界"はおいらなぞいなくてもなんらかわらず順調だった。あたりまえだ。(さらには数年後業界で世紀の大発見が起き、業界は新時代を迎えた。おいらの活躍する余地なぞない。でも、新時代前からの世紀の大発見に貢献しなかったパーマネントの研究者は、新時代を切り開けなかった責任を取らされるわけでもなく、世紀の大発見の知見と技術を分配されて、ぬくぬくとやっているのだ。うらやますぃ。)

さて、その業界引退の憤激には伏線があった。それは学位を取った頃に出たある文章であり、これは、と思いずっと手元に置き、ポスドク時代にもたまに読み返していた。その文章には例えばつぎのようなことが書いてある;

 たかが、博士の学位を取得したからといって、日本社会は、自分に研究を続けさせるべきあるといううぬぼれた感じを持ってはいけない。教授は、そのような感覚を学生に持たせてはいけない。学位取得は、いろいろな場で実力を発揮する基礎資格を獲得したにすぎないことを弁えさせるべきである。どのような場に置かれても、自分の専門研究で培われた能力を発揮できることがらはあるはずである。それを見つけ、問題に取り組み、所属する組織に貢献することが大切である。自分のために社会があるのではなく、社会のために自分がある。それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。文筆業、芸術家、発明業など好きなことを存分にすればよい。逆に、それだけの実力がないなら、組織の研究要請に従うか、職を変えるべきである。 (坂元 昂、「若手研究者者における研究マインドの確立」1996年、学術月報 vol.49 No4 p451-454

別においらは必ずしもこの文章の主旨に殊勝にも賛同していたわけではない。でもすごい正論だよね。それがうれしくてずっと手元においといた。そして、今もある。なにより、その時は、それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。という挑発に非常に反応したのだ。ポスドク任期切れの断末魔におかれ、税金使ってるパーマネントの奴らがどれだけのことをやっているんだ!と憤激した。”故郷の業界”から袖にされた現実の前で、やはりアタマおかしいおいらは、「"自ら恃むところ頗る厚い"」ので、すがりつくのも癪であり、未練がましくもあるので、次のようにすることにした;

それが不満ならば、自分の能力一つで社会にたち向かえばよい。 そうですか!それでは自分の能力一つで社会に立ち向かってみせましょう!と決意したのだ。

それはちょうど、親の叱責を平静な心で耐えることのできない少年や青年たちが、逃避して軍隊にはいり、家庭的にはいり、家庭的な幸福や父親の忠告より戦争 の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるのにも似ている。(スピノザ、『エチカ』)

これが、Across a Death Valley with Distillated Resentment の縁起である。その底の浅さには、ずぶんでも驚く。

■失業して半年くらいはメーカーを中心として普通の日本の会社に就職活動をした。50くらい応募したが、書類選考以前でだめ。略式の履歴書の選考ではねられた。本式の履歴書を見てくれたのは外資の3社のみ。今だから言うと、サムソンと名前忘れた台湾の会社とオランダのフィリップス。面接まで行ったのはフィリップスだけ。結局落ちた。


from 博士の異常な卒業 または私は如何にして心配するのを止めて就職活動をするようになったか   [現在リンク切れ]

▼で、失業後半年の就職活動の結果をうけて、「普通の日本の会社に就職」できないと気付く。2001年の9.11テロ事件はそんな時の事件だった。"故郷の業界"からばかりではなく、産業技術界からも「いらない人間です」と判断されたのだ。失業後半年のこの就職活動中はそんなに上記の「戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受ける」という気持ちは強くなかった。でも、これだけ該当世間に袖にされると、自分の能力一つで社会にたち向かえばよいという憤然たる気概が湧いてきて、戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるということになってきた。

●秋からは日雇いにでることにした。文字通りの「皿洗い」をやった。一生、「皿洗い」をやって生きていこうと思った。でも、よわっちぃおいらにはできなかった。

2001年の暮れの頃、人材募集情報で「ベンチャー」の会社を見つけ、応募した。2002年4月から働くことになった。日本で「ベンチャー」といえば当然(?)ブラックである。ちなみに、このあと今に至るまで、バイト先はずーっとブラック企業である。それも超ブラック企業だ。今のバイト先のブラック企業はここ1年に、ニュースのトップに来る不祥事を2件もやっている。そして、2002年から働いた「ベンチャー」の会社/親会社は、極超ブラック企業。政府を巻き込み、社長が辞任する不祥事で有名。でも、これら超ブラック企業は、「人をひとり殺せば殺人者だが、戦場で数千人殺せば英雄だ」といわんばかりに、ぬっぽんに君臨している。 (もっとも、D・フリードマンによれば、「国家」は社会で最大の犯罪者集団である、とのことなので、やはり食税研究者さまが一番のブラックということだ。うらやますぃ。)

このブラック・ベンチャーこそ、今に至るまでおいらに、戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるという機会を与えてくれているのだ。 Living well is the best revenge. 思いもしなかったのがIndian serviceで、タージマハルに行けた(愚記事;憧れのタージマハル)。そういえば、9.11テロの3年後のワシントンも行った。ワシントンは3~4泊したなぁ。結構、歩いた。

 愚記事;ワシントン散歩⑧:北米出張30

■復讐の方法、あるいは、Living well is the best revenge.

復讐/報復の方法の選択は重要だ。米国は9.11で被害を受けた上、イスラムにこういう復讐をしたので、将来も安心して枕を高くして眠れないだろう。

やはり、復讐/報復の方法の選択は重要だ。

■リンク;

ブラック企業でもブラック研究室よりはマシ


関連愚記事;  この「子」の50のお祝いに、あるいは、死んだ子の年を数える。 

 


毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 21週目

2011年09月10日 06時26分14秒 | 草花野菜

 

【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

アクセスとランキングの状況を表示します。ランキングは上位10000件まで表示されます。

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今日の筑波山麓、あるいは、今日のユーレカ!「日本語ロック論争」

2011年09月08日 19時30分01秒 | 筑波山麓

―今日の筑波山麓―

■今日(昨晩)のユーレカ! 湯川れい子は、おいらのかぁちゃんより年上だった。

YouTubeを聞いて、のんべんだらりんと過ごしている。関連動画で次々聴いていくのが好きだ。昨晩、たまたま、何の流れか忘れたが、アン・ルイスの「六本木心中」(http://www.youtube.com/watch?v=37YWdRj-k_E&feature=related)を聴いて、そして、見て、思いついた。まず、見ることから。コメントで、「レディガガ」、「ガガの20年先いってますな」とかあった。気持ちはわかないではないが、そういう感性、批評軸を持つということが、たまらなくぬっぽんずんだなぁ~と、おいらは感じた。

そして、一体全体この炸裂しちゃっていて、かつ、自然体ともいえる体面を保っている日本語の詩は誰が書いたのだろうと、調べた。湯川れい子。wiki。わぉ!1939年生まれ!おいらのかぁちゃんより、年上だ。びっくり。「痛い、おばさん~おばぁさん」に違いない、湯川れい子。おいらは、小学生の頃から、湯川れい子を知っていた。理由は彼女が「ビートルズ屋さん」だったからだ。当時おいらが浴していたラジオなどのビートルズ関連の番組では、出ていた。ビートルズに直接会った人の証言ということで。

wikiにある。「1966年6月にビートルズが来日した際、湯川は関係者に紛れ込んで宿泊中のビートルズと面会を果たしたが、ジョン・レノンに無視された。」とあるが、ジョン・レノンは1940年生まれなので、その時、湯川れい子は「年上の女」だったのだ。もっとも、のち結婚する、小野洋子は1933年生まれ。おいらが邪推するには、ジョンが湯川れい子を無視したのは、年増好き@大和撫子好きの自らの好みを意識しすぎて、あと、小心者だからびびって、無視したんでないの。

1980年代に入って、おいらが高校生の頃、「昔、"日本語でロックは可能か?"という論争があったんだ」って、と知る。今ググるとあった。日本語ロック論争(にほんごロックろんそう)(wiki)。そんな大層な命名がなされているとは知らなかった。

そんな、日本語ロック論争などの以前から活躍されていた湯川れい子センセは、淡々と?やすやすと?ロックした=炸裂した日本語の詩(うた)をうたっていたのであった。

で、話はずれるけど、日本語って簡単なんだよね。「音」が。だから、非日本語人も日本語の音を覚えて、歌うことは案外簡単。もっとも、意味を詩うのは、どうなんだろう。日本人でも、『丸の内サディスティックス』をdictation(言葉を耳で聞いて、字に起こして、意味を述べよ)できるのはかない難解。おいらも、字面(じづら)でこの歌詞を見ないことにしている。そうすると、毎日脳内で詩っていて、ある日都内に行くと、あ~、お茶の水って楽器店街なんだ!と知ってびっくりできた(愚記事; お茶の水 茗渓 仙台堀)。発音しやすく、歌いやすい言葉でも、炸裂しちゃっていて、かつ、自然体ともいえる体面を保っている『丸の内サディスティックス』。おそるべし、林檎。

↓『丸の内サディスティックス』を歌う毛唐さん@ラテン系@頭細いことに注目;
でも、正坐しなくても、日本語は発音できるんだけどぉ~....

Marunouchi sadistic (Tokyo Jihen) - FONEMA


無駄な公共事業としての肥大化した大学院教育;子供だましのぼけ と 文部科学省大臣官房付のつっこみ

2011年09月06日 20時30分27秒 | ぐち

■序;


http://twitter.com/#!/yum_labo/status/109925131907899392  現在リンク切れ

ぼけ;

日本化学会というのがあって(おいらは関係ない)、その雑誌のネット上で公開されている記事より;

学生諸君,大学院は将来への投資だ! by 菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授  

5 月と7 月に,私は米国東海岸と西海岸にそれぞれ研究所を構えるバイオテクノロジー企業2 社を訪れる機会をもった。両企業とも,すでに上市済みあるいは上市間近の薬剤開発に成功し,創立当初のベンチャー企業名を保持したまま大手グローバル製薬企業に買収された企業だ。したがって,実質的にはその製薬企業の傘下である専門技術分野に特化した研究所的な立場となっている。この訪問の際に,合成化学者,生化学者,細胞生物学者からなる若い所属研究者たちと私はラウンドテーブル・ディスカッションの機会をもった。そのときの彼らが発する質問やR&D(Research &Development,研究開発)議論は,非常に高度でアカデミック的な議論もあれば,極めて実践的な議論もあり,彼らの高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさが感じられるものだった。国内化学・製薬企業への訪問でも,私は似たような機会をもつことは多々あるが,明らかに「空気」が違う。自らの好奇心に裏打ちされた自由な議論という刺激的な「空気」が異なるのだ。
 アメリカ人と日本人の人種的な違いだ,と簡単には片付けられない。事実,私が訪れたベンチャー企業には様々な人種の研究者がいる。決定的に違うのは,米国の研究者は全員,博士学位(Ph.D.)をもっていることだ。そして,自らの学位に誇りをもち,お互いが同じ立場で切磋琢磨し,かつ同じベクトルをもって共同研究をしていることだろう。それが,前述の「空気」へと反映している。本誌の読者である日本化学会に所属する学生諸君に知っていただきたいのは,欧米企業のいわゆる研究者の大半は博士学位をもつ事実である。一方,日本の企業では,修士学位と博士学位をもつ研究者が混在している。また,博士学位をもつ研究者の中には,修士学位取得後に企業での研究で論文博士学位を受けた研究者も多い。

という冒頭で始まる。出だしはおもいしろいのではあるが、続く論旨は支離滅裂である。この冒頭の印象を証明したのであれば、①日本企業において博士だけの研究現場で米国とおなじ高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさが感じられる、あるいは②日本で博士号を取った日本人研究者が米国など海外において、非常に高度でアカデミックで,極めて実践的で,高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさを発揮しているのを見たということなどなどを示さないと、ただの経験による、ためにする、印象論である。

そして、ためにする、というのはこの「学生諸君,大学院は将来への投資だ!」の主旨に他ならない。

さらには、実は印象論よりももっとタチが悪い。菅 裕明センセは、日本の大学院教育を経て産業界で働いている博士が、必ずしも「高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさ」をもって研究できていないことを、わかっているのだ。

肥大化した大学院を維持するために。日本の大学の化学業界全体の動きなのかは知らないが、化学の博士大学院教育はアカデミズムのための人材育成だけではなく、産業界でも役立つ人材を供給する方針らしい。その理由をおいらが邪推するに、アカデミズムのための人材育成だけでは大学院の定員を減らさなければいけない。しかし、せっかく大学院教授さまに「三流」大学を含めみんながなったのに、それは許せない。だから、アカデミズムのための人材育成だけではなく、産業界でも役立つ人材を供給する方針にしたのだろう。

一方、産業界からは、日本の博士つかえねぇ~という声は根強い;
○中江委員 (住友化学株式会社 取締役 常務執行役員)
・資料3-2の5)に「博士課程にコースわけを設けるか?」と書いてありますが、これは私から見ると、ちょっと行き過ぎではないか。むしろ今までの修士あるいは博士課程で基礎的な、まさに2)に書いてあるようなことを鍛練するのではなくて、言葉は悪いですけれども、ペーパーを出すための即戦力として最先端の研究だけやらせていることは、産業界に入ってきていただいても役には立たないし、学者の世界で本当に役に立つのかどうか知りませんけれども、そこが問題だというのが皆さんから出ていた意見ではなかったか。ですから、コース分けというのは、ちょっと行き過ぎではないか。
 (愚記事

でも、菅 裕明センセは、建設的だ。
しかし,冒頭の米国ベンチャー企業で垣間みたように,パイオニア精神をもち,アグレッシブな研究開発を企業で推進する力は,博士課程で十分なトレーニングを受けた研究者から生まれ得る可能性が高いのも事実だ。今,日本の大学院に問われていることは,「優秀な学生」が将来のキャリアパスに希望をもって博士課程に進学し,適切なトレーニングを受ける環境にできるか,である。そのためには,博士課程でのトレーニング(教育カリキュラムと研究)が学生にとって魅力あるものでなければならない。

へぇ~。でも、そんなパイオニア精神をもち,アグレッシブな研究開発を企業で推進する力をトレーニングする大学院教育が日本のどこにある? 

death valleyで死にそうなおいらは、受けてみたいや、そんなトレーニング。

なにより、誰がそんなトレーニングをするのかな?税金でのんべんだらりんとプラモデル作って給料もらっているのと一緒なんだもんという優雅な雲上人さまがdeath valleyの処世を御指導か。すごいな、無駄な公共事業としての肥大化した大学院教育。

事実、菅 裕明センセは言っている、「そのためには,博士課程でのトレーニング(教育カリキュラムと研究)が学生にとって魅力あるものでなければならない」 と理想形を語っているにすぎないのである。そんな大学院は日本にはないのだ。ないのに、学生に進学しろと勧める。それで、学生本人がリスクを取れ!だって。

■でもさ、菅 裕明センセがドクターをとったMITは教授でコンサルタントなんてあたりまえ。中には従業員が数万人のメーカーの技術取り締まり役だったりする。日本では、そんな教授さまはいない。いい悪い以前に制度や、もっといえば文明が違う。日本で大学が産業界を"指導"するなんて実績や伝統はないに違いない。

菅 裕明センセは志が高い。ぬっぽんもアメリカのようにやればうまくいくはずだ。なによりそうすべきである。アメリカ流をそのまま持ち込もうとする菅 裕明センセ。代表作が、『切磋琢磨するアメリカの科学者たち―米国アカデミアと競争的資金の申請・審査の全貌』(Amazon)。

愚ブログが再三指摘している、 「一方、おいらは以前から、書いている。その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇るって。」に他ならない。

もし、菅 裕明センセの高い志を日本の学生に実践してもらいたいなら、「日本の学生よ!米国で博士号を取って、高い知識とパイオニア精神,そして建設的なアグレッシブさを身につけよう!僕みたいに。 日本じゃ無理だから」と言えばいいのだ。そうすれば、すっきりする。そして、無駄な公共事業としての肥大化した日本の大学院教育はリストラだ。

・さて、リスク計算をした上でリスクを取る!と豪語なさる菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授さま。共同研究や共著のリスクもさぞかし計算なさっていたのでしょう。どんなリスク計算をしたのか、教えてほしい。 ちなみに、御自身のweb siteの著作欄から消えてい⇒http://www.cbl.rcast.u-tokyo.ac.jp/member/Suga.html 現在リンク切れ (著書・「切磋琢磨するアメリカの科学者たち」菅裕明 共立出版 2004・「科学者って何だ」梶雅範(編・著)菅裕明(著)他 丸善出版 2007) の2冊のみ記載。多比良和誠センセとの著作は削除。 

 ↓ 多比良和誠ととの共著を「抹殺」している菅 裕明 東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授さま


化学と生物学の接点がつくるNewバイオテクノロジー (Amazon

▼なお、菅 裕明センセはネット悪玉論者である。ドクターコースに学生が進学しないのは、ネット情報のせいだ!と愚痴っている。

しかし,現在では,博士修了後にアカデミアに就ける可能性が低いことに対する不安(実際は昔もその可能性は低かったのであるが,それがインターネット等で議論されるため学生の不安を煽る結果となっている),またアカデミア研究者への「あこがれ」が希薄になり「優秀な学生」が博士課程に進学することが減った。大学の授業料は高騰し,学生生活を支援する親の負担も増えてしまったため,修士大学院生は博士課程進学を躊躇する。さらに拍車をかけるのが,博士学位者の就職難,ポスドク問題といったネットで氾濫するネガティブな情報だ。これでは,優秀な学生が博士課程に進学しなくなるのもいたしかたないことだろう。

そうだ!そうだ! 若き前途ある学生の諸君!こんな崩れのブログなんかみてちゃだめだぞ! 志を高くがんばるのだ!

・この記事の英語題が、To all students: Graduate school is an investment in the future!だ。
To all students: Graduate school is an investment for the future! の方がいいだろう。 あるいは、an investment for your future!の方がもっとよくないか?

つっこみ; 一方、政府内部から次のような大学院重点化の総括がある。

福田光宏(履歴)  第6回 教育における需要と供給のミスマッチ(その1)

名取研二氏は「工学系の博士課程教育を考える」で「企業に長く在職して時には新人の採用に関わった身として、企業側から見た思い……の一端を述べてみよう。……博士を採用すると、将来の幹部候補となる優秀な人材として社内の期待が集まる。いきおい、同一年齢層(というより、学部レベルに変換された採用年度で分類されるが)で比較される。すでに社内で数年の実務経験のある学部・修士卒生はそろそろ一人前に成長してきているとき、3年遅れで入社した博士卒は、多くの場合大学で携わってきた仕事と異質の業務内容を前にして、当面は成果の見えない苦闘を強いられることとなる。博士の学位を給与面で特に優遇していない場合が多いが、このような場合でも、同じような賃金を払っていて片や業務に着実な成果が出て、片やほとんど成果がないという対比はどうしても目立つことになる。……やがて多くの優秀な博士卒生たちも仕事を覚えて一人前に育っていく。しかし、大学で自分の研究分野に打ち込み博士卒の年齢層に達した一部の人たちは、フレキシビリティが少なくなっていて新しい異質の分野への転換・能力発揮がうまく図れないケースがある。……うまくいかなければ、本人にとっても、また会社にとっても大きな不幸である。……博士卒の採用はリスクがあるとの印象が後に残る。……社内で年次を重ねていき、博士卒採用組が優れれば「さすがやっぱり博士」と見られるが、それで普通と判断される。生え抜き組が優れれば「何だ、博士もたいしたことはない。学部・修士卒で充分ではないか」と、博士採用が敬遠されかねない。博士卒採用が特別な目で見られる状況は、少数の例外的な採用であることと関係している」と指摘している。

 


<悪い共同体>の<悪い心の習慣>

2011年09月04日 12時33分46秒 | 日本事情


関連愚記事(一部);
An e-mail from the former Camp Crawford
・  事実上の「保護国」   
イヌノフグリも咲いている 
川内、仙台? 
Psuedo O.J. Symtoms 
・  ダサいスカジャン着て  【仙台参り2007番外】
真駒内 占領軍の痕跡  
帰路東京湾中より富士見事に見ゆ。 
横田基地参拝
いか@、タコを思う。
諸君、やっぱり、この国は最悪だ! 

その他、多数。


 - 池袋にて -
ジュンク堂参りの道すがら

原発推進派は国賊だ!という「右翼」のステッカーなんだろうか?
輪王寺宮の末裔の旧宮様が黒幕か!?

Amazon: 竹田恒泰、『原発はなぜ日本にふさわしくないのか

■宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』(Amazon)をみる。

宮台真司なんか、「社会学者」ではないと一所懸命言っている人がいる。確かにそうなんだろう。別に宮台センセも、端から、厳密に学問的に裏付けられた言説を彫琢したいわけではないだろう。その場、その場で気のきいた<鍵概念>(キーワード)を蓮発して、ひたすら現状を語る。ジャーナリスティックな才能はすごい。そしてその変わらない藝の真髄は;

ぁーぁーぁー 私は以前から言ってたんですよ」

である。これはBOX96様のブログ記事「宮台真司はいつから反原発になったのか」からのパクリである。いい点突いている。

●そして、今回のキーワードが、<悪い共同体>、<悪い心の習慣>だ。これはどうみても、椹木野衣の「悪い場所」からのバクリ転用だろう。

でもそんなことも特に気にしない。おもしろかったよ、宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』。

もう宮台からみたらぬっぼんは田吾作コッカで救いようがないという現状へのぐち。先の大戦の敗戦の繰り返しという嘆き節。こういう宮台が糾弾する「反知性主義」ってのは、旧来の文明開化以前的組織にのみ認められるわけではない。むしろ、ぬっぽんえすたぶりっしゅめんとには普通に観察できる。アカデミズムやジャーナリズムにおいてでも遍く存在しいることが、今回の震災に伴う原発事故で露わになった(⇒ 愚記事:ゆでガエルなんだなぁ~、無自覚性洗脳障害、あるいは、幇間古新聞)。

でも、「菅首相が狂っていても、原発止めれば大変な功績」という発言こそ、典型的な「反知性主義」的なものだ。なぜなら、根拠や実証こそが重要だと宮台真司 X 飯田哲也、『原発社会からの離脱』で強調されているからだ。

以下、抜き書きや、おもいつきメモ;

■宮台の対談者、飯田哲也はもともと原子力ムラのエリートで、<家出息子>らしい。宮台による飯田の経歴の<まとめ>がある;

宮台 (飯田哲也は)京大に入り、神戸製鋼に入社したのは、さしたる必然性がなかったというお話でしたが、興味深いのは、神戸製の部署が小さな原子力関連のチームだったので、一人何役もこなさなくてはならないことがスキルアップにつながり、とりわけその後、電力中央研究所に行かれてIAEAの原典を熟読するという経験をつうじて、IAEAの背後にある安全思想や、さらにその背後にあるヨーロッバ流の哲学的な物の考え方に触れられた。
 それと同時に、対照的な「却下、却下」の枝葉末節な議論しかしないムラ的な作法にさんざん触れられて、なにがベーシックなレイヤーで、何が枝葉なのかということを一切見極めないような議論がわんさかある日本的コミュニケーション環境を身に染みて経験される。それは「電力幕藩体制」とでもいうべき不合理な仕組みであるがゆえに、「こんなところに一生いられるか」と思い、原子力に関する八〇年の国民投票が行われたスウエーデンに行くことになる。その前には、書物をむさぼり読み、今後どうしたらよいのかという考え方のバックボーンを創り上げた、そういうことですよね。
飯田 はい、そうですね。   
 p75

宮台 その背後には、山本七平が言うように、日本人の多くに、自分たちの生活形式がどういうものであるかということを反省的に理解する、宗教社会的習慣がないことがあります。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は唯一絶対神を掲げる宗教だから、生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか絶えず関心を寄せます。だから生活形式を変えることも変えないことも自覚的です。(中略)生活形式の変化を照らし出す不変の宗教的存在はありません。だから、モノだけではなく、生活が、ギミックだらけになってしまうのです。
 

宮台 <悪い共同体>の習慣ゆえに、僕たちは、流さに呑まれ、しがらみに呑まれやすい。同調圧力(ピア・ブレッシャー)に負けると、という言い方は「本当は自分たちにはやりたいことがあるんだが、負ける」という印象です。でも、飯田さんがおっしゃっているように、日本では「自分がやりたいことはそれだ」ということになってしまう。周囲の人々の欲望が自分の欲望になってしまうので、アメリカ人がいう同調圧力とは少し違う。
 政策の問題というよりも、たいていの日本人のマインドセットとか、日本社会の形の問題です。僕は<悪い共同体>における<悪い心の習慣>と呼んでいますが、それが解決しないと、共同体自治と言っても新しい村社会、別の原子力ムラをつくって終わりです。


飯田 私がスウエーデンで感じたことですが、あの国は社会が変わることを国民全体が前提としています。その上で、どう変わるかについて国民全員がコミットし、ルールややり方を絶えず積み上げながら、社会を営んでいる。
 日本は社会が変わらないことが意識では自明になっている。しかし、現実は激しく変わっていくわけです。それなのに意識の上では変わらないので、現実を変えていくためのルールであるとか指針、原則に無自覚な社会になっている。アドホックに、賽の河原のように、その場をしのいで、こなしてしまえば、また次の日常がはじまる、そして、それは変わらない日常なのだ、と、そう錯覚しているのではないでしょうか。

 7章 ―すでにはじまっている「実践」

サムソ島とまほろば事業

飯田 次に、地域レベルでエネルギー事業をやろうという取り組みが始まったのが二〇〇四年のことです。長野県の飯田市から、「平成のまほろば事業」という環境省の事業に応募したいので、協力してほしいという申し込みがありました。もう少し地域を軸にした、自然エネルギーの開発拠点を作ろうという企画でした。
 これも歴史があります。二〇〇二年にヨハネスブルグサミット(WSSD)があり、環境省の審議官が、行き帰りを利用して、私が『北欧のエネルギーデモクラシー』で取り上げているサムソ島(デンマーク)に行きたいと希望があり、私がアレンジしました。
 サムソ島の仕組みを説明します。行政と環境NGOと環境ベンチャーを足して三で割ったような役割を果たす「環境エネルギー事務所」と呼ばれる組織が、デンマークそれぞれの地域にあります。そういった軸があるので、地域主体で環境エネルギーへの移行は進むわけです。(中略)
 これを手本にして、翌年の二〇〇三年に環境省が概算要求で「平成のまほろば事業」という環境の町づくり事業予算を出しました。これは三分の二補助で、それを三年間支援するという仕組みです。
(中略)
 それが今や日本を代表するエネルギーの地産地消プロジェクト「おひさま進歩エネルギー株式会社」を生み出すことにつながります。いま。一六二ヶ所の太陽光発電所と、グリーン電力事業を展開して、全国から視察団が訪れるまでになっています。
 ただ、付け加えるならば、「つくばの回らない風車」という大スキャンダルに発展した事業を生み出したのも、
「平成のまほろば事業」です。(略)


(⇒これだ; 
ドン・キホーテさえ襲わない いかサマ 風車

 飯田市は今でも事業としてきちんと回っています。次々に事業を発展させて、いまや飯田市がひとつの共同体モデルになっています。
 結局、この二つの例から、中心に顔の見える「人」がいないとだめだということが判ります。同じような反証に「バイオマス・ニッポン」という農水省の事業があります。二〇〇二年から一〇年間行われた二〇〇あまりの事業を、総務省の行政評価局が検証したのですが、「ひとつとして成功している事例がない」「数千億の税金の無駄遣いだ」と評価している。

●そもそも日本が<悪い心の習慣>が蔓延る<悪い共同体>は、唯一絶対神の意志に背かないように思考、行動しているわけではないので、原発の新規設置が不可能となった"原子力ムラ"が衰退しても、 「クリーン」な発電方法を開発するという新しい食税発電ムラができて、繁殖するだけだ、という結論が、『原発社会からの離脱』から得られる。

もっとも、日本を変えるべしという宮台の熱いお気持ちはわかるが、日本が変わる契機が、理論的には、ない。なぜなら、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は唯一絶対神を掲げる宗教だから、生活形式が神の意志を裏切っていないかどうか絶えず関心を寄せます。だから生活形式を変えることも変えないことも自覚的です。(中略)生活形式の変化を照らし出す不変の宗教的存在宗教的存在がないからである。

それでも、宮台は、教育などで日本が変わりうると信じているらしい;

宮台 先ほど、飯田さんが日本と西洋、特にヨーロッバの政策的知性との差がいかに開いているかという話をされましたが、今年、フランスのバカロレアという高校卒業時の試験で出された問題で印象的なものが二つありました。
 ひとつは「正義と不正義はたんなる約束事に過ぎないのかを論ぜよ」。(略)
 もうひとつ面白かったのは、「言葉はコミュニケーションの手段に過ぎないのかを論ぜよ」です。
(略)
 僕が申し上げたいのは、高校三年でこういう問題を解けるような思考訓練をしなさいという課題が与えられれば、日本みたいにあらかじめ決められた座席表のなかでの席次争いをするための受験勉強から、ずいぶん変わると思う。そういう本質的な、知識の獲得自身が世界観を変えるような教育を、日本では学生にさせていない。

関連愚記事; 「教育」、っていいな、....

■おいらの言いたいことは、
「一方、おいらは以前から、書いている。その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇るって。」
に尽きる。ポスト・原発電力供給も、
その成因を無視した文明・文明を安易にパクッて、ぬっぽん列島で安直に使うと悲劇に、あるいは喜劇に終わるに違いない。ちなみに、スウエーデンの人口は924万人である。東京より少ない。

・おいらの中長期的提唱は、少子化、電力消費量削減である。

・5年後、女川原発は稼働していると思う。のど元過ぎて熱さ忘れる。たまらなく、ぬっぽんずんだから。

・われらが石原都知事さまが、「フランス人に出来て、なぜ日本人に出来ないのか!」(google)と愚痴ったらしい。そんなの簡単な問いかけでしょう。 ぬっぽんずんが、まぬけだからです。

おフランスに「水俣病」・有機水銀中毒公害ってありましたっけ?

ぬっぽんえすたぶりっしゅめんとサマは、 土下座すれば済むと思って、なめてマネジメントをしているからです。

▼でも、すんぱいすんな。

いつか、奈落に叩きつけられ、砕け散り、細(さざれ)石となる。そして、また堆積、変成して、巌(いわお)となるだろう。そうすれば、苔が生(む)すことも期待できる。

あわてるな、ぬっぽん。 ~苔の生すまで、~ 千代に八千代に~。

(愚記事:ホントだぜ、2年前の話さ、写真をみてくれよ ! 移り変わりの激しい rock'n roll business 

おとといは、全国紙各社にこんな両面全面広告がでたらしい。ネット界でも驚いた!との声多数(google)。
 - あわてるな、ぬっぽん。 ~苔の生すまで、~ 千代に八千代に~、ってことだ。-


左下には「ダグラス・マッカーサー財団の許可を受けています」という意味の小さな英文が載っている、だって。

関連愚記事;
・60年経っても「マッカーサーへの手紙」 


シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return 

■同テーマ言及ブログ記事;

「悪い共同体」の「悪い心の習慣」を直す

原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて

・ゲイトマウス・カフェ通信
>>この本は、日本が何故遅れているのか、日本社会は何故ダメなのかという点に、焦点を合わせているのだが、少々、議論が前のめりになっているような気がしないでもない。遅れている、ダメであるという根拠をもう少し丁寧に主観ではなく、客観的なデータで示して欲しかった。<<  

そうですね。でも、自分のまわりを点検すると、データはすぐ集まりそう。まぬけであることの客観的データが。


 



毎週、ぶどうの木の画像を撮っています; 20週目

2011年09月03日 06時01分10秒 | 草花野菜

今週収穫。 
ほっちゃれのぶどうの木となりました。

よんじゅうなかばで初めて気付いたのだけれど、ほっちゃれって、「放ってしまえ」という意味なんだろう。ネットで語源を検索したらそういう説が主流だった。そうであれば、大阪のホルモン (=放る物) と同じということか。人間の命名の感覚は普遍的=凡庸なものだ。

【いか@ 筑波山麓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

アクセスとランキングの状況を表示します。ランキングは上位10000件まで表示されます。

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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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