いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

川内、仙台?

2008年01月07日 20時48分44秒 | 仙台・竹雀・政宗
記事:ダサいスカジャン着て  【仙台参り2007番外】 へのmsxさんからのコメントとお尋ね;

 川内、仙台? (msx)
2008-01-05 22:41:28
リンカーン氏が最初に作成したホームページ
http://pearl.age.jp/whizlinc/

このURLはまだ有効です。

仙台市内に川内って地名があるんですか
Camp Sendai = キャンプ川内?

Camp Schimmelpfennig = キャンプ苦竹
アメリカ人も発音できなくてCp Schimmにしてますね

Abraham Lincoln in the News
http://pearl.age.jp/whizlinc/inthenews.htm

http://www.city.sendai.jp/soumu/kouhou/press/03-04-08/kizou-e.html (English) and in Japanese (link at bottom of same page).


■おこたい:
かごんま(鹿児島)の川内(せんだい)と違って、仙台の川内は、かわうち、です。

政宗公の築いた仙台城は、青葉山という河岸段丘最上段にあり、天守閣のないお城でした。高いところに作ったお城は太平の時代にはむしろ、登城が面倒くさくなったらしく、低い段丘面に二の丸などを築き、政務をしていたようです。川内(かわうち)というのはそういう青葉山より低い段丘面の地域。 二の丸や高級家臣の屋敷などがあったらしい。

明治になって、大日本帝国陸軍は第二師団の司令部を旧仙台城地域に設置。その中に川内地区は含まれる。だから、終戦で、日帝陸軍→占領軍という流れ。

一方、苦竹は仙台城から見て、ずーっと、海よりの地域。藩政時代はただの田園だったのだろう。戦時中に軍需工場が設置されたことはmsxさんご指摘、リンクのweb siteに書いてある。占領軍は旧仙台城&川内地区では狭かったのであろう、別途日帝、苦竹地区を接収し、占領軍が駐屯したのであろう。



興味深いのは、msxさんご指摘のリンク先のweb siteに書いてあるように、警察予備隊は米占領軍の敷地内で発足していること。これは、このブログで一貫して主張しているように、現行の自衛隊は日本軍ではなく、マッカーサー将軍の命令で発足した「米」衛隊に他ならない。現在、防衛省までなったが、これはマッカーサー指令を現世のぬっぽんずんが後追い承認している(に過ぎない、というか律儀にも60年たってもマ将軍に忠誠を尽くす12歳の純粋なおこちゃまたちなのである)。


実は、川内、苦竹よりも強大な占領軍基地が仙台近郊にあった。

大和町:    たいわ ちょう。 ややこしいぞ! ぬっぽんご。

ヤンキーの街、大和! ってわけわかんねぇー。



朝鮮戦争 (上) (歴史群像シリーズ (60)) (単行本(ソフトカバー))より、転載。

本部が大和で、司令部が仙台。


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6 コメント

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Camp Sendai (Tommy Izumi)
2012-05-17 21:53:20
Camp Sendai は米軍の家族が住にでいた住宅地Dependent Housing Area)で、その中に軍関連施設の兵舎、モータープール、PX,カミソリー、放送局、などがありました。
ここで指摘することは、このキャンプに米軍第9軍団司令部があつたことです。
キャンプ シモフニーはドイツ系の将軍の名をとり命名されました。この地に占領軍として最初に駐屯したのは、フィリツピンで日本軍と鉾を交えた第11空挺師団第188パラシュート連隊です。
第187パラシュート連隊の一部は近くの船岡町(海軍工廠跡)にも駐屯しました。
これらの連隊は朝鮮戦争が始まると、朝鮮に移動しています。
なにか質問がありましたら知る範囲でお答えします。
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Camp Sendai (Tommy Izumi)
2012-05-18 17:53:06
Subject: Camp Sendai>
I have been visited to see the place where the Camp Sendai was formerly located.
It had been long times since I saw the Camp Sendai last.
When I arrived in the Kawauchi area where former Camp Sendai was located, I was very surprised that the area was completely changed at all and there is image of the old
days.
It was very hard for me to find former locations for the US army buildings, facilities and barracks in the new existing location.
(OLD DAYS MEMORIES)
If you cross the Hirose river bridge, you will get to the check points and show your identification card to the guards to enter the Camp Sendai.
You will walking along the buildings of the Labor Office, Dormitory, PX Garage and reach to the MPIS Office (Military Investigation Section) then you walk to the Fire Station.
An opposite side of the Fire Station, you will see dependent housing area where the places covered by the beautiful green grass all over.
In a front of the houses, you will see sedan and inside of the houses, you will see wealthy and a happy family life.
If you walking through the beautiful housing area, you will get to the center of the Camp Sendai.
In this center, you will see daily activities of the Chapel, Commissary, PX (Post Exchange)
, FEN (Far East Net work-Radio Station), Dispensary, APO (Army Post Office).
Then, you will reach to the Barracks for WAC Detachment (Women’s Army Corps)
Signal, MP (Military Police), Motor Pool, etc.
At the edge of the Camp Sendai, there is the 8012th Motor Pool.
If you move against motor pool, you will get to the Enlisted Men’s Club, and then reach to the IX Corps Headquarters.
(CURRENT DAYS)
All the related US Army buildings, housings, facilities, and properties had been already destroyed long time ago.
The places where US Army stationed are now widely developed.
There are new constriction of the apartment houses and buildings of the Tohoku University.
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Camp Shimmelfenning (Tommy Izumi)
2012-05-18 19:55:27
Occupation Period in Japan:
After World War 2nd, the 11th Airborne Division assumed responsibility for the northern part of Japan, establishing its headquarters at Sapporo, Hokkaido from 1945 to 1949.
The 188th Parachute Infantry Regiment was stationed at Camp Shimmelfenning (Now Camp of the Japan Ground Self-Defense Forces) located at Negatake, Sendai City.
The 187th Parachute Infantry Regiment was Sapporo, Japan near the 11th Airborne Division Headquarters.
One of the 187th battalion was stationed in Funaoka town (Now called Shibata),where former Japanese Navy Powder Manufacturing Depot was located.
This place was approximately 30miles distance away from Sendai City.
The 11th Airborne Division parachute jumping school was in Yamoto near
Sendai City..
返信する
苦竹キャンプでのアルバイト (Tommy Mizuki)
2012-05-19 14:49:25
終戦後仙台市苦竹に進駐してきた第11空挺師団第188パラシュート歩兵連隊の根拠地があったキャンプシモフニングで、高校時代の夏休みを学友と誘いあいながら学費稼ぎの為に一時アルバイトで過したことがあります。
仕事はキャンプ内の草刈、完成したボーリング場のレーン磨き、ダンプカーでゴミを積んで多賀城海岸埋立地に運び処理をする、などが主な仕事でした。
通訳、大工、その他の技術系の職種の賃金は、他の職種よりも高かつたようです。
雑用係として年齢を偽って働いた時の労働対価は、市場の賃金に比べても高い水準でした。
キャンプ内で荒れ地の整理をしながら集めたゴミを燃やしていたところ、突然バーンと大きな破裂音が辺りに響き渡りました。
小銃弾などが草むらに残っているのを知らずにそこで火を焚いてしまい、火熱で発火した火薬の破裂音でした。
知らぬとは言え危険な作業に携わっていたものです。
キャンプで働いていると米軍のベーカリーから何とも言えない甘いパンの匂いが風に乗って漂ってきて、食糧難の空腹に大変堪えたものです。
単純な連続作業の草刈に疲れ、一時手を休めているところを作業監督の米兵に見つかり、罰として腕立て伏せを何回もやらされたものでした。
腕立て伏せの罰を受けるのに慣れてくると、米兵の眼を盗みながら、腕を動かさずお尻だけを動かして体罰に答えたものです。
仕事が遅れているのを見ると、米兵は当時のはやり言葉のハバハバを声高に叫んで、仕事の進行を急がせたものでした
日本軍とフイリツピン戦線で死闘を重ねた恨みからか、それとも占領軍として日本人を信頼していない為の警戒心からか、或いは勝利者としての誇りからか、アメリカ兵の我々労務者に接した態度は、おおむね厳しいものでした。
戦後の混乱期を乗り越えて日本社会が安定してくると、アメリカ兵の態度も陽気で明るい本来の人間性に立ち戻って、お互いの間に強い信頼感が芽生えてきました。
終戦にともない、日本軍を武装解除して回収した日本刀などがキャンプ内に野晒しで山積みになっておりました。
キャンプの裏門のバリケードフェンスと平行に簡易飛行場のストリツプがあり、単発の偵察機が連絡用に常時離着陸しておりました。
パラシュートの降下訓練が矢の目飛行場であった時、苦竹キャンプからも白い花の様に開きながら次から次と降下してくるパラシュート訓練の様子が遠望出来ました。
朝鮮戦争が始まるや、この師団は韓国に移動し、マツカーサ元帥指揮下の仁川上陸作戦に応えて、北朝鮮軍の背後にパラシュート降下を敢行しました。
第187パラシュート歩兵連隊の一部が、終戦後に宮城県の船岡町(現柴田町)の元第一海軍火薬廠跡に進駐してきました。
しかし、アメリカにおける公式な出版物、記録、軍歴を参照しても、第187パラシュー歩兵連隊が、船岡町に駐屯していた、と書かれた記録は見あたりません。
未舗装の国道4号線を砂塵を天に噴き上げながら仙台方面に走る軍用車のバンパーに11thA/B 187thの記号が表示されていたのを今でも鮮明に覚えております。
この辺鄙な小さな田舎町に米軍が駐留していたお陰で、普段止まらない急行列車が米軍の乗降の為に、船岡駅に停車しました。


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Tommy Mizuki様 (いか@)
2012-05-20 22:28:36
Tommy Mizuki様

貴重な体験記ありがとうございました。

<<第187パラシュート歩兵連隊の一部が、終戦後に宮城県の船岡町(現柴田町)の元第一海軍火薬廠跡に進駐してきました。
しかし、アメリカにおける公式な出版物、記録、軍歴を参照しても、第187パラシュー歩兵連隊が、船岡町に駐屯していた、と書かれた記録は見あたりません。>>

ということは、Tommy Mizuki様が知っていて、歴史に残っていないことがあるということだと思います。

歴史、特に秘匿が常にまとわる軍隊の動向は公式の歴史に残らないものが多いのでしょう。

>>未舗装の国道4号線を砂塵を天に噴き上げながら仙台方面に走る軍用車のバンパーに11thA/B 187thの記号が表示されていたのを今でも鮮明に覚えております。<<
は貴重な目撃証拠なのでしょう。

それにしてもTommy Mizuki様とすれ違った米兵のいく人かは朝鮮戦争で戦死したのでしょう。

とまれ、貴重なコメントありがとうございました。
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ルイ アームストロング (Tommy Mizuki)
2012-06-09 15:47:09
昭和20年代の後半、仙台にある米軍のキャンプ シモフニーに、ジャズの大御所であるルイ アームストロングが、軍人とその家族慰問のために来日し、ここで演奏会を催したことがあります。
キャンプ センダイで勤務していた私の米軍の友人も喜んで演奏会に出かけたのを今も覚えております。
日本人で私の友人がこのキャンプで働いており、”運良く彼の演奏会を聴けた”、と喜んで私に話してくれました。
日本国内でステージに立ち、日本人に対して演奏した彼の記録はありません。

特記すべきは、同じころ“有楽町で会いましょ”で世間を風靡したフランク永井が、このキャンプで米軍のトラツク運転手をしていました。
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