いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

毛唐さん饗応役に出仕; 2010年の思い出II

2010年12月12日 09時40分32秒 | その他
12月なので、今年の回顧。ひとつは先日は「ギリシアに行きそこねた」。今日は、ツツジが咲くころの毛唐さん饗応役に出仕の話。

ある農家からお米を、 おいらがお武家さま然としているからか、献上してもらっています  40歳すぎて非正規労働者なので恵んでもらっています(愚記事:野菜の日2009 )。お武家さまでもないのに、抗顔坐食ばかりではいけないと日ごろ恐縮していた。そんな藤の花が咲く季節のある日、その農家に毛唐さんがホームステイすると聞いた。背景は、その農家の街が米国のある街と姉妹都市関係にある。そして、相互交流として20人だか30人だかの訪問団が来るので、バラにして各家庭に滞在してもらうという行事。行事の管理は役所がやっているようだ。おいらにお米を恵んでくれているその農家はコミュニティの顔役なので、このホームステイの受け入れ家庭(host family)の"負担"をすることにしたと。つまり、その農家は姉妹都市交流には貢献するし、おいらにお米は恵んでくれるし、大きな人なのだ。なにも、愚痴ばっかり言っていて、自分のことしか考えられないちんけなおいらが恥じ入ったということでもなく、ただおいらが打算的で、この先ずっとお米を恵み続けて欲しいので、ここは出仕だろうと思った。たぶん、毛唐さんの扱いにとまどい、面倒くさがっているに違いないと踏んだからだ。

ちぃーとはでたらめ英語を話すので、つまりは偽毛唐なので、ホームステイの最初の日に行って、お客の毛唐さんとその農家の夫婦の通訳でもしましょうか?、あるいは、フリーの日の饗応役をやりましょうか?と願いでたのであった。はたして、頼むという農家からのお返事。2日間出仕した。

第1日目; 平日の夕方農家の家に、そのお客の毛唐さんはやってきた。役所の歓迎会の後、訪問メンバーはそれぞれのホストファミリーに分かれて行った。農家での晩ごはんにおいらも参加。その毛唐さんは、最近リタイアした小学校教師。60歳くらいの男性。一人で訪日訪問グループに参加。訪問グループに事前に配布された文書を見せてもらった。日本での過ごす上での注意点や勧奨点が書いてあった。例えば、自分の家族の写真・アルバムを持っていて、ホストファミリーに見せましょうとか(画像2)。ちなみに、おいらはその毛唐さんの街の情報をwikipediaからコピーして持っていった。話のねたのために。その毛唐さんはおもしろがって、「私の知らないことがたくさん書いてある」と喜んでいた。

画像1

 画像2

40年間小学校の教師をやったというので、アメリカの学制である6月から8月までまるまる休みということについて聞いた;「おまえさん、毎年3か月まるまるある夏休みを取る人生を40年間過ごしたのか?」とおいら。「然り」と毛唐氏。「どのように過ごしていなさった?」とおいら。「旅行したり遊んでいた」。「優雅な人生だにゃぁ~!」とおいら。「然り」と毛唐氏。世界いろんなところに行ったらしい。そして、キャンピングカーで金をかけず、遊びまわっていたらしい。

第2日目、土曜日; 毛唐さんは1週間ほど滞在した。グループとしての日程もつまっていた。フリーの日はホストファミリーがイベントを考え、実行しなければいけない。考えつくどおり、その農家は観光に行くことにした。その観光の案出と実行に出仕した。まずは江戸ワープステーション・江戸(web site)。選定がベタだけど、いいのだ。ここは時代劇や映画の撮影用の野外スタジオ。江戸時代ものの撮影用に建物や街並みなどのセットがある。

【毛唐さんの御下問】;武士の子弟の教育はどうしていたのか?



この後、常磐自動車道に乗って、笠間に行った。日動美術館に行った。日動美術館は私立の美術館(web site)。前の日の第一日目の聞き取りでツアーは笠間に決定。ホスト農家さんは笠間の陶芸体験教室を提案。やはり農家さんは"土"からは離れられないのだ。毛唐さんがそれはいいと判断。ちなみに却下されたツアーはつくばの宇宙関連の展示館系のもの。笠間に行くことは決まったので、日動美術館をおいらが便乗提案。アートに興味があるかないかは重大な問題ではあったが、この毛唐さんの子供は美術の修士大学院の出で、さらには抽象画の作家とのこと。後日、web siteで作品を見た。


―アンディー・ウオーホール、『C夫人肖像画』―

毛唐さんがえらく気に入ったのは、アンディー・ウオーホール、『C夫人肖像画』。どうやら、"いわゆる東洋女性好き、つまりアジア・フェチの男性"なのだろうかと感じた。なぜなら、さっき、学生時代に女性日本人ゴルファーのZさんをみたときの昔話をしていたからだ。ちなみに、毛唐さんはゴルフが趣味とのこと。

このモデルのC夫人は、この美術館のオーナーさんだと教えてあげた。このあとショップで、『C夫人肖像画―世界の巨匠29人に愛された女性 』を示してあげたら、津々と見いっていた。でも買わなかった。


つつじの咲く公園に行った。田園風景が見渡せた。

【毛唐さんの御下問】;子どもの通学交通手段は何だ?

笠間稲荷にも行きました;



予約してあった陶芸体験教室に参加。ろくろをまわす。おいらは生まれて初めてろくろを回して粘土をいじった。すごい難しい。ろくろは薄くなった粘土を折って重ねたら、それで終わり。空気が入ると焼く破損する原因となるらしい。粘土を折って重ねたら、材料の粘土を取り換えるしかない。

この教室でつくったものは希望すれば焼いて送り返してくれる。毛唐さんはいらないと断った。

再び常磐高速で筑波山麓のその農家に帰った。晩御飯は歩いていける近くの割烹風の日本料理屋。すしだの天ぷらだのをその農家の人に散々おごってもらう。ありがとう、お大尽。もちろん、毛唐さんもおごってもらっている。草の根思いやり予算である。

そこの日本料理屋のオーナーはゴルフが好きで、カウンターにゴルフ関係の雑誌だのパンフレットだのがあった。県内の老舗ゴルフコース(戦前からある)では日本女子プロトーナメントをやるらしい。その解説雑誌があった。はたして、毛唐氏が学生時代にみた日本女子学生のZさんは今では貫禄あるプロゴルファーであり、その雑誌に写真が載っていた。それを見た毛唐さんは、うなった、 She got weight!

"いわゆる東洋女性好き、つまりアジア・フェチの男性"なのだろうか?という疑問について。なんのことはない、もろにそうだった。奥さんは日系人。日系人奥さんの家について聞くと、奥さんの親の世代が一世(アメリカに渡った最初の世代)らしい。サンフランシスコ周辺で漁師をしていたそうだ。でも、戦争で、日系人収容所に入れられた。おいらは、日系人収容所「も」concentration campというのだと始めて気付いた。ここで、「も」といのは、ドイツのユダヤ人の収容所はconcentration camp という。日本語訳はしばしば「絶滅キャンプ」とか「絶滅収容所」となっている。なので、concentration campは相当きつい言葉だと思っていたのだが。その奥さんはアメリカ生まれ。その毛唐さんはベビーブーマーの世代(日本でいえば団塊の世代)に違いないので、似たような年とすれば戦後生まれなんだろう。つまり、収容所から解放された後生まれたのだろう。その奥さんは日本に来たことがないそうだ。子供たちは日本に来たことがあるとのこと。その奥さんが日本に来ないことには何か理由がありそうな気がした。尋ねなかった。

さて、晩御飯の日本料理屋に戻って、その日本料理屋のオーナーの息子が板前をやっている。青年である彼は10年前にこの姉妹都市交流事業で相手がたのアメリカのその街にホームステイしたことがあるとわかる。中高生の年頃だった。店と家が一緒なので、写真を持ってきた。その板前氏のアメリカでのホストファミリーの写真である。毛唐さんが見ると、果たして、知った人であった。日米とも田舎の街は小さいのだ。

そして、そのアメリカのホストファミリーの写真はそこの店で撮ったものだった。つまり、最近、かつてのホストファミリーの子供がNavyに入り、横須賀勤務になった。その横須賀に息子に会うためそのホストファミリーが横須賀に来た。そのついでに筑波山麓のこの日本料理屋に来た時の写真なのだ。板前氏は全く英語を話さないが、手紙で何月何日何時何分に常磐線XX駅に来てくださいとメールで指定したとのこと。そしたら、来たと説明してくれた。

この休日のフリーの日、つまりこの日のホストファミリー接待日以外にもう一日平日にホストファミリー接待日があった。その農家さんはゴルフに毛唐さんを連れていった。やはり御大尽さまなのだ。草の根の思いやり予算は大尽されるのであった。そして何より、この日ワープステション・江戸、日動美術館から夜のすし・天ぷらの飲み食いに至るまで一切おごってもらったのは、おいらもそうであった。カウンターにすわって板さんが握る鮨を食べたのは何年ぶりか記憶もたどれない。お大尽の農家と毛唐さんに偽毛唐としてたいこもちをして、さんざんおごってもらったのだ。

やはり、外交は幇間に限るとつくづく思った。

毎週、コーンサラダの画像を撮っています; 10週目

2010年12月11日 08時25分00秒 | 筑波山麓



↑キンカン;  ↓芽を見せ始めた梅



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::今週の筑波山麓



古典ギリシア語履修の思い出

2010年12月09日 05時39分42秒 | ぐち

おとといの愚記事の どうしてそんなに容易に感動できるのかについて;



【プロローグ】新入直後の春。約四半世紀前。講義第一回目。オリエンテーション。今年1年やるこのコースの概要の説明。教科書は岩波全書の『ギリシア語入門』。辞書はOxfordの"An Intermediate Greek-English Lexicons"を買って使えと、その担当の教官は言った。教室には50-100人ほどいた。結局最終授業まで残ったは7人だった。その説明で、辞書はOxfordのを買って使えという細かいが、明確な指示が出たのだ。その際、「丸善で買えますから」と、教官は言った。そのときある学生が聞いた。「丸善はどこにあるのですか?」

どひゃー。おいらはびっくりした。おまい、中坊かよ!!。そんなの自分で勝手に調べろやぁ。これに対し、教官は淡々と答えたように記憶している。ちなみにその頃仙台の丸善は一番町商店街の片平よりにあった。

■がきんちょの頃バカだった。なにせ、概念による 世界 の掌握を願っていたからだ。英語はもちろんヨーロッパ主要言語なんかそのうちできるようになるだろうと夢想していた。そんなおいらが古典ギリシア語に飛びついたのは当然だった。なんていったって、哲学の源流の言葉だからだ。当時はすでにおいらは米英撃滅思想を確固したものとしていた。だから単なる西洋崇拝ではなかった。むしろ毛唐文明批判のために"敵を知らば"という気持ちだった。

一方、時代はとっくにポストモダン思潮の雰囲気。近代批判は普通であった。だからいわゆる教養主義的に古典ギリシア語を習得するのではなく、むしろ近代批判のために"敵を知らば"という気持ちだった。その背景は、ハイデガーやフーコーが古典ギリシア語に依存していることにおいらが気づいたからだ。そして何よりニーチェがギリシア語屋さんだ。

始めて、すぐに後悔した。準備・予習にべらぼうな時間がかかった。"概念による 世界 の掌握"計画の妄想は雨に打たれた綿あめのようにしぼんでいった。でも、途中で逃げるのも癪(しゃく)なので、必死についていった。ちなみに、この履修は"勝手履修"であり単位は認められるが進級・卒業には関係ない単位であった。

おいらにとって古典ギリシア語履修は、広げた大風呂敷はちゃんと始末しろよ、小僧!という教訓でしかなかった。ありがとう、古典ギリシア語。

■月曜午前中の2コマぶち抜きの授業、予習で土日がつぶれる。

文法訳読法。この言葉をおいらが自覚的に覚え使い始めたのは結構最近である。文法訳読法の基本は、厳密な文法の適用を文章を構成する単語すべてに行うことである。すなわち、その単語の品詞、原型、性、格、相、時制、態などなどの諸属性をすべて解析したのちに、文意を訳するのである。文法訳読法で一番やってはならないことは、単語のそれぞれの意味、それも辞書で最初に出てくる意味を並べて、常識的にありうる文意を推定することである。

その教官は京都系の嫌味ったらしい関西弁で、(彼は田中美知太郎のところの出だった)、単語の意味の類推から訳を作りあげているらしい学生に、「勘(カン)で訳しているんですか!?」といじめるのであった。つまり、単語の意味の類推から訳することはあてずっぽうに訳することだったのだ。当然、撲滅に値するとの強靭な意志に基づくねちっこい嫌味で学生さんたちを慄(おのの)かせるのであった。

その厭味ったらしいこと、おいらの生涯で最初で最後の経験だった。のち、おいらの理系修業ではこういうことはなかった。文系の修業とはこういうことの連続だとすれば同情する。

授業では訳は毎回当たる。なんせ出席者が10人もいないので。さらには厭味ったらしい教官が怖いので、必死に予習しなければならなかった。これが難航。単語の品詞解析はひどく時間を食った。なにより格変化に加えて不規則変化もあったから。不規則変化は不規則なので辞書を引くのが相当苦労。引くのではなく辞書を読むように探した。これが時間をくった。よく徹夜になった。外が薄明るくなる。ここで横になると寝入ってしまい、起きれなくなるので、散歩によく出た。さらには、寝ないようにそのまま教室に行った。

毎回単語試験があった。出席確認がわりだろうと思うが、丁寧に赤で直して、次回の授業で、返してくれた。(↓バカだな、おいら。LとRの区別がつかず間違っている。philosohyがphirosohy、まぬけだな)

← タナトス(死)がありますね。

広げた大風呂敷はちゃんと始末しろよ、小僧!という声に励まされ、意地になって通年完走した。もちろん、今、古典ギリシア語を読む能力はない。ただ、今の商売はパラメタ表示のためにギリシア文字を使うので、それに役立つくらいだ。ありがとう、古典ギリシア語。


二十歳のときに知っておきたかったこと
二十歳(はたち)は小僧である;外国語習得は難しい;世界の概念的掌握は無理だ;少年老い易く学成り難し;二十歳のとき現(うつつ)をぬかしていると40過ぎてバイトだぜ! ありがとう、古典ギリシア語。


【エピローグ】卒業式。どういう風の吹き回しか卒業式にいった。A君にばったりあった。彼はひとりだった。A君は文学部で、古典ギリシア語で一緒だったし、サークルでも一緒だった。話すのは丸2年ぶりだった。つまり、お互い学部に上がってからは会わなかった。近況についての情報交換や昔話をした。そのとき、ふと、4年ぶりに、古典ギリシア語の開講の時の丸善はどこですか?学生のことを思い出した。4年間思い出したこともなかったのに。そういえばこういうやついたよなぁとA君に言うと、彼は答えた;

「それ、僕だ」

彼はこの後東大の院に行った。今調べたところ、偏差値50-55ほどの首都圏私大の准教授をしている。今、かれは学生さんたちからどんな質問を受けているのだろうか?

彼とはこの卒業式の日以来会っていない。


ギリシアに行きそこねた; 2010年の思い出I

2010年12月07日 19時54分33秒 | 欧州紀行、事情

―なげやりに切手が貼られたギリシアからの手紙(部分)―

切手にHELLASという綴りがみえる。ヘラス、ヘレニズムのヘラス。ギリシアの自称。

今年の春、ギリシアに行きそこなった。残念。前から楽しみにしていたのに、例のギリシア政府の財政破綻に伴う暴動のせいで、バイト先の管理部が渡航禁止令を出したので、出張が中止。すごい、ショックだった。

よっぽど休みを取って自費で行こうかと思った。でも、潜在顧客が実験を見にくるというめったにないスケジュールが入ったので、逃げるに逃げられず。実験を見に来る潜在顧客といえば最優先。普段はこんなことないのに。death valley稼業のつらいところだ。

アテネに行ったら、パルテノン神殿を参拝したかった。そして、つぶやきたかった、「ついにここまで来たか!」と。これは、バイト人生における、タージマハルに行ったことに匹敵するおいらのEvery dog has his day ("誰にも一度は得意な時代がある")になるはずだった。

そして、なにより、ディオゲネス・犬儒派の残党に邂逅できたら望外の幸せと夢想していた。

泣くなくキャンセルしたら、pdfファイルをメールで送ってくれればいいのに、御丁寧に、ハードコピーのキャンセルにまつわる文書が届いた(上記画像)。

【パルテノンで騒ぐバカ】
西尾幹二センセの文章でしばしば"パルテノンで騒ぐバカ"というモチーフがあったと記憶する。ネットで調べた。あった;

永年の念願がかなってギリシャ旅行をしたある美術評論家が、アクロポリスのパルテノンを最初に見たときの、浮き立つような感動を綴った美文調の文章を書いていたことがある。西洋芸術に関するこの種の感傷語は日本ではいたるところに溢れているが、私はこの文章をよんだとき、ある言いようもない猥褻感をおぼえた。どうしてそんなに容易に感動できるのか、私にはさっぱり解らない。アテネ空港からまっすぐアクロポリスにやってきて、いきなり見上げた丘の上のパルテノンがどんなに荘厳で美しくみえたとしても、写真や文献でつみ重ねてきた専門家としての知識、言いかえれば、空想が豊富であっただけに、純粋な感動はそれだけ得にくくなっていると考えるのが自然ではないか。だが、西洋の芸術に関する限り、不思議なことに、知識をもっている日本人ほど感動と感傷を混同する。この人はおそらくパルテノンをまだ見ぬうちに、飛行機で羽田を飛び立ったときに、すでに「感動」していたに違いないのである。
(西尾幹二『ヨーロッパ像の転換』)


もちろんおいらも、"飛行機で羽田を飛び立ったときに、すでに「感動」していたに違いない"どころか、おいらは死ぬ前に一度、観光旅行ではなく、ある種の使命や義務で(仕事で)パルテノンを見たいと願っていつつ、しばしば脳内で"すでに「感動」していた"。

アテネについたその時、あぁ~、ついにここまで来たか!と思えるはずだからだ。

どうしてそんなに容易に感動できるのか

って、それはすこしばかりの思い入れがあったからです。
愚記事「古典ギリシア語履修の思い出」は明後日の予定です。


―なげやりに切手が貼られたギリシアからの手紙II(部分)―
切手が逆さまに貼られている。


▼せめても、今年の冬はサンタさんにこれをお願いしたい。

留まれ、アテネ [単行本] 3570円

せめても2、ギリシア産のオリーブオイルを仰ごう;

http://www.lesel.gr/index.php?id=1&lange=en

石鹸もあるよ!:レセルおばさまの石けん

悪魔の甘えたボンボン代弁者

2010年12月05日 11時25分45秒 | 日本事情



■[発声練習] ポスドク、博士の就職問題がボンボンの甘えにしか見えない理由より。

悪魔の代弁者という役割がある。ある主張や論に対し、反例や反論の提示、あるいは、そもそもその主張の内部不一貫性を指摘する。これはその主張を鍛えるためには必要なプロセスである。研究者が論文を書く時など、無意識にでも、自分で悪魔の代弁者をやって自分の論文を彫琢、鍛錬していっていることは日常のことである。

さて、上記の[発声練習]氏の悪魔の代弁者は、ブログ記事:学振PD騒動雑感:なぜポスドクの人件費は「生活保護」扱いされるのか(リンク切れ)に対し演じられた。その記事は、政府の研究者支援政策の予算が増えないこと/減らされることに対する憤りであり、特に、"研究者は「『人類のために研究成果を役立てたい』という使命感や知的好奇心から自ら進んで基礎研究に身を捧げる」人種で"あるのに生活保護者扱いするのは許せないと憤激している。

それに対する[発声練習]氏の悪魔の代弁者としての反論は4点;

・「博士課程まで行けたこと」=「裕福な証拠」でしょ?
・誰もが好きなことを仕事にできるわけではない
・生活がおびやかされているのは博士号取得者だけでない
・税金を投入する必要はあるの?

以上の4点はかなり限定された反論であり、甘いなぁ、ぬるいなぁと思わざるを得ない。全然悪魔じゃない。まさに、甘えたボンボンの悪魔の代弁者である。

愚ブログの視点、 なぜ、博士は産業界から忌避されるのか? 序説以前のデータ収集 から指摘する。

博士過剰時代において、大学や研究所などの税金を使って生きることができなかった博士たちのありうる生き方は産業界で職を見つけることだ。事実、過剰博士の"さばき先"として、博士を"作った"当事者からは、期待されている。しかし、現実には難しい。産業界は博士の雇用に積極的ではない。先年などは博士を1人採用すると500万円の政府補助金を企業に補助するという政策まで施行されたことはまだ記憶にあるだろう。

企業が博士を忌避する理由は、よく流通している言説はこのようなもの;

企業側が博士号取得者を敬遠するとの話は、私の覚えている限り限り10数年前から聞いていました。

それを、今回、実際に体験しました^^

私の考える限り、企業に敬遠される理由は極めて高度で狭い専門性と、自己PRの不足だと考えている。 研究ではあらゆる困難に対し多面的なアプローチで解決できる能力を持っているにもかかわらず、そこをうまくPR出来ていないと感じます。 企業側の方は、博士取得者は極めて高い専門性のあまりに融通がきかない人が多いと言っていた。 また、目標設定が異なっている。 企業では、社会のニーズに沿った製品開発等から企業利益までを、アカデミアでは、興味のあることを自己満足で・・・(的な話だったと思う) (ポスドクの転職活動日記


つまり、博士は専門性はあるが、企業での各種スキル(だけ)が問題であるという言説。

ちなみに、企業の博士採用に関する公式見解というのは事実上ない。だから、経験から推定・忖度するしかない。そういう推定・忖度はこれまた表面化しない。なので、企業の博士採用に関しては謎のままである。

そんな中、公式インタビューがあった。これはアステラス製薬の人事担当官が答えたもの。採用する博士は、1)35歳前、それより年よりは採らない、2)入ってすぐ会社カルチャーになじまない人は採らない、3)今は200人の応募に1人の割合の採用率、だそうだ。情報元は独立行政法人・産業技術総合研究所 能力開発部門 人材開発企画室が税金を使って作った報告書「現場連動型(OJT型)育成プログラム 検討委員会 報告書 博士の活かし方 博士は21世紀の人財鉱脈 」より(pdf重い!注意)。 (アステラス製薬の人事担当者インタビューあり)

ただし、この企業の担当官の言い回しの慇懃さは味わい深いもので、相当"遠慮"して言っている。本音は採用したい博士なんてめったにいないということなんじゃないかなぁ。邪推するに官庁や産総研とのしがらみでしかたなくインタビューに応じたのではないだろうか。

■基本的には、「博士は専門性はあるが、企業での各種スキル(だけ)が問題であるという言説」の線。

しかしながら、最近おいらが直接企業の人から聞くに事態は違うと思う。すなわち、先日大手メーカーで新人の研修担当の50歳代の人の"愚痴"を聞いた。大手メーカーが採用するマスター出の新人社員のレベルが昔とは大違いだと。端的に基礎学力がないと。もちろん全員がそうだとは思わないし、そのメーカーが間抜けなのかもしれない。でも、よその大手メーカーでも最近聞く話だ。

おいらもここ10年バイト・非正規という底辺で生きてる間で旧帝大マスター出のバイト・非正規労働者に出合い、少なからずがびっくりするほど仕事ができない。ちなみに見た人は学部から旧帝大だった。彼らは、新卒正社員として就職活動をするも失敗して不本意ながらバイト・非正規労働に就いているらしかった。つまり、彼らを落とした会社はそれなりに人を見ていたということか。そのびっくりするほど仕事ができない旧帝大マスター出の若者にそれとなくいろいろ聞いてみるに、問題の背景にはマスター全入と、教官がマスター学生を実験補助員として使っているだけという事実がわかってきた。たとえば、少なくともここでは(場所は謎?)、「学生は使えない」という雰囲気が蔓延しているという発想は現状をよく示している。学生は派遣労働者ではないのだが。

つまりろくな選抜も行っていなければ、まともな教育も行っていないらしいのだ。

そして、ドクター出も産業界で評判が悪い本当の理由は、博士はばらつきが多い、なんでこんな仕事ができないのが博士なんだ!という声(personal communication)。大学院重点化で希望すれば大学院にほぼ入学できるようになったこととあわせて就職氷河期を経て、大学院出の意味が変わった。

35歳になって中途採用を望んでくるポスドクを見て、同世代で10数年前に企業にすぐ入った学部出の"エリート"社員はどう判断するだろうか?

大学院重点化前はマスターの入試は倍率が2-3倍はあたりまえ。旧帝大理系でも院試に落ちて大手メーカーに就職というのは普通。でもいまじゃ、大学院進学=就職できなかったヤツ、あるいは博士号とってもアカデミアに席が見つからず産業界に出てきたヤツという"偏見"の時代である。大学院出の"希少価値"、あるいは、"威"がすっかりなくなってしまった。

■さらにおいらも不思議に思うのが、読み書きできない博士。英語ができないのはザラとしても、日本語もろくに書けない御仁も結構多い。論文書けない!報告書書けない!特許書けない!。どうやら背景には、上記マスター全入と同じく、ろくに選抜もせず、そしてまともな教育もせず、しまいには実験だけさせて、教官が論文を書くということをやって博士をとっている人たちが少なからずいるらしい。公然の秘密なのだろう。勇気をもって実態を書いているブログ⇒博士号、の意味

この問題は実はおいらの時代、15年前からもあった。でも、本人と指導教官さえ黙秘すればすむので表にでない。でも、ポスドク以降論文がでないという研究者は結構いる。そういう御仁が(旧)国研のパーマネント職なんかに縁故採用されて、ずーっと論文なしという例も多い。

さらには、そもそも日本の博士号はヨタであるという意見もある;
1.2008-10-28 大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか

2.■[雑感] 博士の問題は数より指導の質では?

そういう状況で日本の大学も遅まきながら対応を始めたのだろうか?博士の品質保証に危機感が出てきた;

自ら行動するか外圧に頼るか─博士の質の保証─ 梶

__________________________________
【番外;参考ブログ記事】

よく言われる、「コミュニケーション能力の欠如」とかじゃない。基礎的な学力が足りない。


毎週、コーンサラダの画像を撮っています; 9週目

2010年12月04日 08時26分00秒 | 筑波山麓


↓キンカン


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