いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目

2024年02月19日 06時44分14秒 | 東京・横浜

敗戦後の天皇巡行。この写真を子供の頃から見ていた。歴史の本によく出てくる。この場所は横浜と知ったので、場所を調べて、行ってみた。この写真は78年前の今日。


昭和21年2月19日 横浜市 戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校
(神奈川県横浜市西区藤棚町2丁目220)

この日の巡行について、例えば、古川隆久『昭和天皇』では神奈川県京浜地区の簡易住宅街、吉田裕『昭和天皇の終戦史』では神奈川巡行とだけあり、具体的にどこであるのかはわからない。

 

この巡行は1946年から1954年8月の最後の北海道[1]まで全国(沖縄/琉球を除く)を廻った天皇の全国行幸の第1日目である。Wikipedia [昭和天皇の戦後巡幸]。場所は上記の通り、横浜市の戦災者共同住宅、現在 横浜市立稲荷台小学校。

[1] 北海道問題は本記事に末尾にメモ


Google map

横浜市立稲荷台小学校は、横浜港の西の台地域にある。台地にある野毛山公園の北西だ。

ここは、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。昭和26年(1951年)から、戦災者共同住宅が昭和28年(1953年)に撤去されるまで、小学校(稲荷台小学校稲荷台分校)は共存していた(ソース:横浜市立稲荷台小学校 沿革)。上の昭和天皇の写真を見ると、写真の奥の方が土地が低いことがわかる。すなわち、昭和天皇は坂を登って来ているのを、坂の上から撮影した。

■ 行ってみた。

この坂だ ↓。 坂を登り詰めると、稲荷台小学校・戦災者共同住宅がある/あった。


「御幸坂」。上記昭和天皇の写真はこの坂道で撮影されたらしい。エビデンスは後述。


坂を登りきると、稲荷台小学校に至る。


稲荷台小学校の門。中はグランンドが広がる。この現在グランドなっている平坦地に戦災者共同住宅があった。下の航空写真で建物が見える。


地図(左)、地形凹凸図。丸印は坂道での写真撮影場所。


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。

■ 「御幸坂」のエビデンス

この昭和21年2月19日の昭和天皇の巡行で、昭和天皇と話したという人の回顧があった;

横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。

 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 (朝日新聞 web site

昭和天皇を迎えた場所の写真が朝日新聞に示されている。この坂道だ。

■ なぜ、そこに?

上記の昭和天皇から声をかけられた石川啓次郎さんは、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。」と云っている。これを読むと興味本位で昭和天皇を見に行ったとも思える。でも、そうであるなら、上記写真は興味本位で集まった子供や、そして大人で、あふれてしまうはずだ。おそらく、興味本位ではなくて、「選ばれた」人たちが「動員」されたのではないだろうか。そもそも、「学校の先生から昭和天皇が横浜に来ること」ではなく、学校の先生は天皇が稲荷台小学校・戦災者共同住宅にこの日午後(昭和21年2月19日)来ることを知っていたのだ。それは政府からお達しがあったのだろう。

 一九四五(昭和二〇年) 秋から秋から、国内安定に資したいとして 天皇・宮中に巡幸実施の意向があった。 そのきっかけの一つが、四五年十一月中旬に行われた、終戦奉告のための伊勢神宮への行幸である。 この行幸に同行した木戸内大臣は、「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしにかかわらず、敬礼の態度等は自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるが如き心地して、大いに意を強ふしたり」と国民の天皇支持の強さを認識した(『木戸日記』 11月12日)。 実際には沿道の人々の多くは 行幸ルート上の自治体が独自に動員したものだったが、木戸ら天皇・宮中はそれを知らなかったのである( 瀬畑二〇一〇[昭和天皇「戦後巡幸」の再検討]) 。古川隆久『昭和天皇』

こういう事情なので、「行幸ルート上の自治体が独自に動員」したのではないだろうか。

■ 「御幸坂」を登ったあとで

昭和天皇は、坂道を登り、戦災者共同住宅に向かったはずだ。戦災者共同住宅での住民との会見の様子を報道する新聞記事が、文藝春秋のweb siteにある。

■ この日の戦災者共同住宅への訪問は、昭和天皇実録に書いてある;

一時三十分県庁を発御、伊勢佐木町通を経て、西区の稲荷台国民学校の焼け跡に建設された稲荷台戦災者共同宿舎に着御され、住宅営団横浜支所長副見喬雄より罹災(りさい)者を収容する同住宅建設概況についてお聞きになる。副見の説明により宿舎内を御巡覧になり、罹災者に種々労(いたわ)りの御言葉を賜う

産経新聞の記事(昭和天皇 終戦翌年の地方巡幸 神奈川から 川崎→横浜→皇居→横須賀 「実録」からひもとく第一歩)から孫引き。

■ 昭和天皇、戦後巡幸の第1日目

昭和天皇の戦後巡幸は神奈川県の横浜、横須賀から始まった。2日間。皇居から日帰りで通った。

■ 北海道問題

昭和天皇の戦後巡幸の北海道に関する情報;

天皇の「戦後巡幸」(以下「」を略す)とは 1946 年 2 月の神奈川県から 1954 年 8 月の北海道にかけて(米国占領下の沖縄県を除き)行われた全国視察のことである。しかし、本稿では占領下の 1951 年関西巡幸までを分析対象とする。北海道巡幸は、1949 年から定例化する国民体育大会への巡幸の流れに位置づけられるべきであり、他の戦後巡幸とは一線を画するものだと考える。昭和天皇「戦後巡幸」にみる象徴天皇制の形成過程

昭和天皇は占領期に当時の日本の施政権下では唯一北海道を訪問していませんでしたが、朝鮮戦争の勃発後も「私が行けば北海道を何かの時見捨てぬといふ証拠ニなる」などど繰り返し、北海道への訪問を強く希望していたことがわかりました。 (戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望戦後占領期 北海道への巡幸 強く希望

 



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