いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第252週

2019年09月07日 18時35分30秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の横浜市


べたな画像です。横浜の顔としていつも出るみなとみらい地区の遠景です。

■ 今週のインディアン・ドーム

インド水塔(wiki)。横浜市中区山下公園。

■ 今週のホテル

ホテルニューグランド(wiki) 1926年設立。1945年8月30日に厚木飛行場に来たマッカーサーは、ミズーリでの降伏文書調印ののちも、9月8日に東京に入る前までこのホテルに滞在した(wiki)。

■ 今週のレコンキスタ史跡探訪


「横浜港隣接地帯接収現況図」より。
着色地域が米占領軍接収地域。色の違いは返還の時代の違い。①山下公園、②大桟橋、③中華街、④横浜球場

横浜の関内あたりは、ほぼ全域米軍に接収された。なので、この一帯にどこに行ってもレコンキスタ史跡探訪となる。

山下公園


占領下の山下公園。米軍住宅として利用されている。画像は横浜市史料(netで得た)

■ 今週の非接収地域史跡探訪


現横浜中華街。

上の横浜港隣接地帯接収現況図で③が白地。すなわち、米占領軍に接収されなかった地域。
現、中華街。当時は「1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていた」(wiki)とのこと。街の名前はどうあれ、日本開国以来、交易従事華人/チャイニーズが居留し続けていた。

1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった[1]。その後、横浜と上海、イギリスの植民地の香港の間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。wiki

この華人/チャイニーズが居留地域は、米占領軍に接収されなかったのだ。理由は簡単だ。華人/チャイニーズの出身国は戦勝国だったからであろう。

第二次世界大戦後の復興期に横浜港は賑わい、イギリスの植民地である香港との往来も復活した。横浜市街地は焦土と化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街は戦勝国である中華民国からの物資に恵まれ(た)。wiki

■ 今週のがきんちょ


横浜港大桟橋、くじらの背中。

■ 今週の事故の余波

■ 今週も継続中


横浜駅工事。「横浜駅 サグラダファミリア」(google)をネットで知る。

■ 今週のいすゞの"トラック"

■ 今週の日帝将軍の孫


https://twitter.com/shiikazuo/status/1168853908397051905

おいらも「戦後に生まれた世代にも戦争責任はある」と思います。その責任の第一は事実の記録。日帝将軍の子孫はなぜ彼らがそうなったか事実関係だけでも、身近な立場から、記録、報告したらいいんじゃないでしょうか?

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