いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

相模原散歩:小田急相模原 ⇒ 米軍相模原住宅 ⇒旧陸軍逓信学校門・相模女子大 ⇒相模大野駅

2024年02月04日 20時56分03秒 | 日本事情

1.小田急相模原駅、2.在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門、3.同西側、4.相模原病院、5.米軍住宅北側、6.文京2丁目、7.相模大野駅

相模原市の小田急線の小田急相模原駅近くに広がる米軍住宅地域周辺を散歩した。このあたりは戦前から旧陸軍の施設が集積されてきた。だからこそ、敗戦後、それら施設に占領米軍が進駐した 。そのうち戦後も占拠された区域もある。米軍の医療施設と住宅地域。後者は現在も米軍に占拠されている。前者は1981年に返還された。

ソース [#1]
陸軍病院、陸軍通信学校、陸軍電信第一連隊、臨時東京第三陸軍病院。青い斜線地域は敗戦後、1950年に接収地域、陸軍電信第一連隊の敷地と合わせて米軍住宅区域となる。

#1元図;相模原市教育研究所編『地域歴史素材集』1990 年

敗戦後米軍に接収された区域
陸軍病院(原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)) ⇒米陸軍第128衛戍病院 ⇒在日米陸軍医療センター(FAC3098)⇒1981年日本に返還 ⇒外務省研修所、神奈川県立相模大野高等学校、グリーンホール相模大野、市営立体駐車場、市立相模大野中央公園、伊勢丹相模原店 [wiki]

 
ソース                1960年代の米軍病院  

陸軍電信第一連隊 ⇒ 米軍住宅地区 ⇒ 現在に至る

占領明け以降日本領区域
陸軍通信学校 ⇒ 戦後、相模女子大など
臨時東京第三陸軍病院 ⇒戦後、国立病院

■ 1.小田急相模原駅

■ 在日アメリカ陸軍 相模原住宅地区南口門

■ ⇒ 米軍住宅西側

ただのフェンスに長尺の金属が嵌め込まれ、中が見えないようになっている。


ここらあたりは中が見えるただのフェンスとなっていた。人が住んでいる気配がない。

■ ⇒ 4.相模原病院

元:臨時東京第三陸軍病院  相模原病院 沿革


真中の航空写真は1960年代、右は現在の航空写真

この陸軍病院には常時4千〜5千名もの患者数(傷病兵)が収容され、時には6千名を超えることもあったそうです。職員は2千2百〜2千3百名いましたが看護婦は5〜6名しかいなかった第11回 「相模台地区の都市化の移り変わり」

 配置図ソース

■ ⇒ 5.米軍住宅北側


すし太郎 google map

水道道緑道を横断


右手側が米軍住宅。この先は行き止まりで、引き返す。


引き返して撮影。左手側(南)が米軍住宅。右手家は日本人居住地域の家。


米軍住宅と日本人住宅がフェンスを挟んで隣接している地域もある。左手が日本。


ここが米軍住宅敷地の北東側角。ここで、米軍住宅を離れる。

▼ 1965年米陸軍家族住宅地区に米空軍の戦闘爆撃墜落

相模原市米軍住宅地区墜落事故昭和 40 年5月5日午後9時 40 分ごろ、横田基地所属F-105 サンダーチーフ戦闘爆撃機が、横田飛行場に着陸するため飛行中、機体に異常を発見し、人口過密地を避け、機首を相模湾に向けたのち、パイロットはパラシュートで脱出したが、機体は反転し、相模原市上鶴間の米軍相模原住宅地区に墜落した。
この事故により、日本側は軽傷1人、家屋一部損壊3棟、また、米側には死亡3人、負傷7人、家屋の全半壊があった。 ソース

■ ⇒ 6.文京2丁目、旧陸軍通信学校敷地

■ ⇒ 旧陸軍逓信学校門・相模女子大

▼ 相模女子大門=旧陸軍通信学校表門

陸軍通信学校(wikipedia)=東部88部隊(google

陸軍電信学校は、通信に従事する幹部候補生、下士官候補生を教育する学校で、1925(大正14)年に設立されましたが、陸軍士官学校の練兵場を利用するため、1939(昭和14)年5月20日に東京杉並から相模原に移転してきました。
終戦後その跡地には、1945(昭和20)年4月14日に戦災のため校舎を焼失した、帝国女子専門学校(のち相模女子大学:【上の写真】陸軍通信学校当時のものを使用する相模女子大学正門)が東京小石川から1946(昭和21)年4月に移転しました(当初は1年間の貸与)ほか、相模原町立大野第三国民学校仮教場(のち市立谷口台小学校)、県立相模台工業高校(のち県立相模原総合産業高校)などに転用されています。現在、相模女子大学構内には陸軍通信学校表門(同大学正門)のほか、将校集会所(同大学茜館)及び庭園、高さ18メートルの高架水槽(鉄筋コンクリート造の打ち放しの配水搭で、今でも現役で使用されている)、陸軍のシンボルマークである五芒星の形が入ったマンホールなど、約10の施設が文化遺産(軍事施設)として残っており、市立谷口台小学校には、倉庫があり、軽油庫らしいが鳩の餌を入れていたとも言い伝えられています(陸軍通信学校には鳩部が設置されていました)。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ 鵜野森大野線


北へ伸びる通り。この通りの右手が陸軍病院、米軍病院の区域。

相武台陸軍病院 wiki

1940(昭和15)年3月には原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、8つの陸軍施設が建設され、その後、終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収されました。
そのうち、相模原陸軍病院は1945(昭和20)年9月20日、調達要求書第4386号により接収され、同月25日に米陸軍第128衛戍病院(のち米陸軍第141衛戍病院)が開設されます。1958(昭和33年)1月15日には、在日米陸軍の病院を統括し、在日米陸軍医療センター(FAC3098)(以下「医療センター」という。)となりました。
医療センターは米陸軍の軍人、軍属とその家族等のための総合病院として診療業務のほか、予防医学の研究等が行われ、ベトナム戦争当時は約700床のベットが満床で、横田基地から昼夜を問わずヘリコプターで傷病兵が運ばれてきたといいます。そして、ベトナム戦争終結により、1973(昭和48)年1月以降は機能が縮小されていきました。【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~

■ ⇒ 相模大野駅

■ まとめ 通過街

相模原市南区 南代 桜台 上鶴間 御園 文京 大野

 



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