いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

川本三郎は、津村喬にくびを賭けず、赤衛軍・Kにくびを賭けた

2016年05月19日 20時19分50秒 | 日本事情

馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』Amazon)にはその当時(日本敗戦から文化大革命・日中復交まで)に中国と関係が深かった人(学者、文化人)のインタビューが載っている。

そのインタビュー記録には、あの西園寺一晃も載っている。

そして、津村喬のインタビューも載っていた。 津村喬については、今もよくわからないのだが、昭和末期から名前だけは知っていた。「悪名」として。この本に呉智英により、名指し批判されている;

   
5つ星のうち 5.0 風俗史・思想史的に重要な文献

おいらは、この「保守反動思想家に学ぶ本」をよく読んだが、別に「保守思想」を学ぶためではなかった。とっくに、反動極右であったし、そもそもこの「保守反動思想家に学ぶ本」には東京裁判も靖国神社も出てこない。「保守反動思想家に学ぶ本」ででてくる保守思想家とは戦後保守思想のリアリズム的思想家が主である。むしろ、おいらがこの本をよく読んだ理由は、団塊の世代、いわゆる全共闘世代の「文化人」が語るところであった。

現在、われらがネトウヨがやっている朝日新聞批判も、新左翼(崩れ?)的いわゆる全共闘世代の「文化人」が語るところが穿っていたことに由来すると、再確認してておもしろい。つまり、この「保守反動思想家に学ぶ本」とは、夢想家的主義者であったバカ左翼が、現実にぶちあたり、リアリストってすごい!と「知恵遅れ」的に気づき、その「知恵遅れ」的所業を見せつけているものなのだ。だから、右翼夢想家の東京裁判史観打破! 靖国神社のためなら世界で孤立してもかまわない!という「保守反動思想家」はお呼びでなかったのだ。

そんな昭和末期、おいらは、江藤淳が「もっと崩れろ!、もっと崩れろ!」と「1968年革命」の時期に云っていたと知らなかったのだ。江藤淳の著作集をほとんど読んでいたのに。(なぜ、この「もっと崩れろ!、もっと崩れろ!」という革命国家日本的惹句を知らなかったのか?の事由は既に書いた; あるいは、「もっと崩れろ!」の江藤淳をみつけたょ  )

なお、「保守反動思想家に学ぶ本」には明治維新も言及されていない。 「保守反動思想家」VS左翼、ではなく、リアリストVS夢想家、であったのだ。

而して、われらが呉智英"尊師"は、サヨ夢想を諦め、封建夢想の桃源郷に「移民」したのだ。

そして、知ったさ。津村喬。呉智英さんによって新左翼=バカの張本人として名指し。昭和末期に。「保守反動思想家に学ぶ本」で。このとき、既に呉智英さんは封建主義者と名乗っていたので、左翼思想とは決別したのだろう。そのかつては信仰していた新左翼の残留者が津村喬とのこと。津村喬。文革に興奮したらいい。実際、文革中にも中国に行っている。

そういう文革に興奮した津村喬さんが、馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』のインタビューに応じているのだ。インタビューはいろいろおもしろく簡単には要約、説明できない。なので、ピンポイントで笑えるネタを。でも、とても些細です;


馬場公彦、『戦後日本人の中国像 日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』よりコピペ
太字インタビュアーが馬場。応答が津村喬。

津村の朝日新聞批判の掲載運動には「ぼくはこんなことに首をかけないよ」と川本三郎は云った、と津村は回想している。

そして、川本が首を賭けたのが、赤衛軍だ;

― Kがその時弾いた曲がまた意外だった。日本のフォークソングでも弾くのかと思ったら違った。彼はクリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の「雨を見たかい」を弾いたのである。英語の歌を歌いながら。
 宮沢賢治とCCR - この二つで私はKを信頼してしまった。
 ― 川本三郎、『マイ・バックページ』

(愚記事; I want to know, have you ever seen THE REIGN ?, つまり; 教えてくれ、ひろひとさんを見たかい?って