「中国の文化大革命に関して学問芸術に自律性を」と会見で声明文を読み上げる三島由紀夫、安倍公房、石川淳、川端康成
([1967年] 2月28日 – 川端康成、三島由紀夫、安部公房、石川淳が帝国ホテルで記者会見し、中国の文化大革命が学問・芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を共同発表する。 [wikipedia (1967年の文学)])
この時点で、老舎は、紅衛兵に、事実上、嬲り殺しにあっていた(関連愚記事; 蒙童、老舎老師を知る、あるいは、文革血祭り第一号、そして、毛唐兵と紅衛兵の間で)。
下記、針生一郎の記述で知った東夷の倭人作家四人組の反「プロレタリア文化大革命」声明の画像をネットで発見! パクって、貼りつける (ソース)。
六七年のはじめ、川端康成、三島由紀夫、石川淳、安倍公房の四人が、「学問・芸術の自由と自律性が、時の権力の恣意によって圧殺されるのは、隣邦の芸術家として座視するに忍びず、左右いずれのイデオロギー的立場をも超えて抗議する」といった、奇妙な文革批判の声明をだした。わたしはある新聞に、それにたいする反論を書いたが、それは第一に、中国文化大革命の主要問題は、芸術対権力といった次元にはない、第二に、四人の作家が中国には芸術の自由がないが、日本にはあると考えているとしたら、思い上がりもはなはだしい、第三に、『憂国』や『英霊の声』で、ヴァルター・ベンヤミンがファシズムの本質として定義した、「政治の耽美主義」への傾斜を濃厚に示した三島が、政治からの芸術の自由を語るのは片腹いたい、といった論旨であった。今となってみれば、この声明が三島の反革命的画策によることは明らかで、その三島と川端はその後「政治の耽美主義」をいっそうあらわにしてあいついで自殺した。 針生一郎、『文化革命の方へ』
▼ 参照; マオ派@1960年:文革前@@大躍進(チャイナ全土餓死者累々)直後
マオ大尊師、西園寺公望、亀井勝一郎、大江健三郎
「ネオナチがいけないなら毛沢東と写真撮ったやつなんかどうなるんだ」(出典)
● 針生一郎さんがなぜこんなにも文革に入れ込んだのか?不思議だ。針生一郎さんは「中国派」ではなかったらしい。針生一郎自身が旧制大学時代を過ごした片平に1965年に来た老舎も三島ら日本人作家たちが声明を出す前に事実上殺されていたのだ。老舎は自殺に追い込まれた。
なお、上記針生の文章では「イデオロギー」的に三島が非難され、ウヨの三島と川端は、自己破綻して自殺したのだ。ちんけな奴らだったのだ、みたいな言い分だ。一方、共産党時代に盟友だった安倍公房は特に論難されていない。
▼ 針生一郎さんがなぜこんなにも文革に入れ込んだのか? ひとつおいらが最近知ったことがあった。 もちろん公知。 実は中国文革礼賛は欧米経由という動きもあったのだ。針生一郎自身云っている;
わたしが文化大革命をみずからの課題として自覚しはじめたのは、むしろ外国人との接触をとおしてだといっていい。六七年の春、わたしはベイルートでのAA作家会議に参加したあと、ヨーロッパ諸国をまわり、秋にはアメリカに一カ月滞在したが、いたるところで反戦運動や黒人闘争、民族解放闘争のにない手、学生、婦人、リベラルな市民からさえ、現代世界で現状変革の包括的な展望と力量をそなえているのは、中国だけだという意見をきいた。彼らはおそらく、中国の実状について日本人よりかぎられた情報しか得ていないと思われるにもかかわらず、率直な共感と親近感を語ってやまないのだ。 針生一郎、『文化革命の方へ』
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『中国女』(ちゅうごくおんな、原題:La Chinoise、「中国女性」の意)は、1967年(昭和42年)製作・公開のジャン=リュック・ゴダール監督によるフランスの長篇劇映画である。
中華人民共和国が文化大革命のさなかで、その運動が世界の青年層に影響を与えていた1967年初夏のパリを描いた映画である。 (wikipedia)
今からみれば、ゴダールの『中国女』は1967年制作、公開なのであるから、文革の欧米インテリへの影響の証左なのだ。